『あいちトリエンナーレ2019』における「平和の少女像」弾圧事件について

 国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』のプログラムの一部「表現の不自由展・その後」では、日本国内の公立美術館などで表現弾圧を受けた作品、たとえばヒロヒト昭和天皇)の肖像画を燃やす映像などとともに、「平和の少女像」が展示されていました。この「平和の少女像」に対して、河村名古屋市長などの政治家を中心に展示を取りやめよというクレームが相次ぎ、2019年8月3日、主催者は急遽、プログラム自体を中止にすることを発表しました。

 これは大きな事件です。2019年8月3日から日本国内では、戦時性暴力を告発することが禁止になったのです。ついでに「表現の自由」も死にました。正確にいえば「表現の自由」に対して何度目かの死亡確認が行われました。かわりに日本国内においては、「日本人のお気持ち」という概念が最上位に置かれます。ちなみにこの「お気持ち」の中には、ヘイトスピーチやセクハラに対する不快感は入っていないようです。

 もちろん、「表現の自由」に何度目かのナイフを突き立てた人たちは、「表現の自由」をまだ生きているように見せかけるため、この件は「行政の補助金が出ているイベント」であることを重要視します。もちろん、民族差別や性差別などについては、行政が関与するイベントにて行われてはいけないのは当然です。行政は差別を禁止した日本国憲法の理念に拘束されているからです(平和の像は日本人差別であるなどという差別について何もわかっていない言説は無視します)。

 しかし、河村市長や政府自民党の人間たちの(政府見解からさえも遠ざかっている)歴史修正主義の思想のもとでは「平和の少女像」が不快なものであるからといって、それを排除することは、行政が関わっているからこそできないはずです。後世の歴史書には、普通に「平和の少女像」の弾圧事件として記されることになるでしょう。

 

 一方、この事件は次のことも明らかにしました。21世紀における自由主義国家(タテマエであれ)の統治権力は、批判意見や権力に都合が悪い表現をあからさまに弾圧することはしません。賢明なるエリート層は、ちょっとやそっとの批判でシステムが破壊されないことは知っており、多少の批判は鷹揚に寛容しておくことによって、自由な国家であるという幻想を民衆に与えることができます。メドベージェフが一時的にロシアの大統領になった際、彼は自分を眼前で罵倒する人物を許容してみせ、人々から称えられました。しかしロシアは実質的には権威主義国家のままです。安倍晋三が自分に対する批判に対して山本太郎並みのレトリックも思いつかず、ついつい正直に反応してしまうのは、彼が賢明でないからかもしくは民衆が自分よりも賢明でないことを知っているかのどちらかなのです。

 しかしこの件について、権力はあからさまな弾圧の姿勢を見せました。数か月無視しておけば勝手に企画が終了する展示物に対してです。普通に考えたら何もせずに、逆に政権批判に対して、日本ではまだ「表現の自由」が生きておりしたがってファシズムではない証拠として見せつけることもできたでしょう。

ところが、今回かれらは、そのような合理的な判断も下せませんでした。『あいちトリエンナーレ』に対してだけではなく、この国の保守系エリートは、「平和の少女像」に対しては異常なまでの憎悪をむき出しにして、襲いかかるのです。あたかも自分の弱点を攻撃されようとしている魔王であるかのように。

 ここから言えることは、日本の社会システムの核心にあるのは、「平和の少女像」が存在しているだけで都合が悪いもの――植民地主義とセクシズムだということです。だからかれらは本性をむき出しにして像を攻撃し、それらを守ろうとするのです。安倍政権を終わらせ、社会を変えようとするものは、まずこの急所を撃たなければならないということが、この弾圧によって明確になりました。

 そしてこの弾圧によって、『あいちトリエンナーレ』が全体化しました。規範を実質的に規定するのが例外です。したがって、脅迫を口実とした行政による、戦時性暴力の告発の弾圧という非常事態が、いまや通常状態となるのです。ゆえに、愛知県の一部だけではなく、日本全体が『あいちトリエンナーレ』になったのです。私は津田大介氏にそれほど好意をもってはいませんが、それでも私も『あいちトリエンナーレ』の中にいます。私は残念ながら、平和の像をつくる技術も芸術展を開催する能力ももちません。しかしこの国の市民が、特にアーティストたちが、冷たくなった表現の自由とともに権力に屈従することをよしとしないなら、今後の日本のありとあらゆる芸術展において、無数の「平和の少女像」が展示されることになるでしょう。

 今回の件で津田氏の覚悟を問題にしているような芸術関係者のみなさん、あるいは彼が下りたことによって「表現の自由」の安否を心配する知識人たちのみなさん、安心してください。ここが『あいちトリエンナーレ』です。あなたも明日から、「平和の像」を展示する芸術展の企画者となれるのです。「表現の自由」に心臓マッサージをして復活させることができるのです。

 そのような企画者となることが難しい我々のような人間でも、戦時性暴力の告発の禁止に対しては抵抗することができます。2015年の「合意」そしてそれ以前から、日本国が日本軍「慰安婦」にしてきた仕打ちの数々について積極的に発言し、問題化し、歴史を正当に共有していくことはできるはずです。表現の不自由展・その後」は作品の撤去によって完成するのではなく、『あいちトリエンナーレ』の継続によって完成するのです。

 

 

例外状態

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