エトス・ノモス・福島
福島第一原子力発電所(フクイチ)の事故から早2年が経とうとしている。「国民」は次々と新しいニュースに沸く。やれ中国から有毒ガスが飛んでくる、朝鮮の核実験によって放射能が飛んでくると他国への排外感情を満たし、核実験などと比べ物にならない多大な放射能がつい最近この国において撒き散らされたことなど忘却したようである。いまだその場所においては被曝労働を伴う収束作業は続いており、避難と補償についても解決に向かう道筋はついていないにもかかわらず。
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フクイチの事故を問題にするうえで、福島/フクシマという「場所」への問いは避けて通れない。
原発事故による被害は複合的な被害であり、その中には福島という「場所」の被害も含まれているのだ。なぜ福島という「場所」が被害にあったのか。それはけして偶然ではない*1。開沼博を読むまでも無く、それは中央と地方におけるさまざまな構造的な権力関係によっていたのだ。その意味で、被害は3.11以後にはじめて発生したのではなく、3.11以前からあらかじめ予定されていたのである。もし、命さえあれば「場所」はどうでもいいというのであれば、なぜ東京に原発が無かったのか。大阪に原発がなかったのか。わたしたちは最初から被曝してよい「場所」とそうでない「場所」を区別していた。*1
この文章を書いたのは1年以上前だが、こうした問題提起はその後の「反原発」運動において、大局的にはスルーされ続けているように思える。
「エートス福島」(http://ethos-fukushima.blogspot.jp/)というプロジェクトは、政治的背景や実践においてきわめて胡散臭いものではあるが、「場所」の問題を等閑視する反原発運動に対して突きつけられた挑戦であるといえよう。
エートスって何? あえて言葉で説明してみると、、、
住民が自主性を持って、生活と環境の回復過程に関わって行く活動。エートスって何? もうちょっと説明してみると、、
地域住民の生活スタイル、食生活、農林水産業での手法、工業生産、社会的または法的制約、援助、補償体制等々を考慮し、住民のそれぞれの視点を共有しながら問題に対処するのが特徴。エートスって何? 熟語で言ってみる、
地域に密着した、現実的な放射線防護文化の構築。エートス活動を行う事で、どんな良い事があるの?
住民自身が自らのおかれた状況を理解し、計測し、自分なりの解釈をする事ができるようになれば、個人・集団で、放射能汚染への対応をどう改善して行くのかを自分たちで見つけ出し「現実的な放射能との共生」が可能になる。*2
このような「エートス」の精神に対しては多くの具体的な反論があり、その多くは正当なものだと思う。しかし、このプロジェクトの本質とは、福島/フクシマという「汚染地域」で住むことにある。このことについて本質的な批判が加えられているだろうか。少なくとも自分の乏しい見聞においては知らない。
「エートス福島」の「エートス」とは、上記サイトによれば、”「エトス(信頼)とパトス(感情)ロゴス(論理)」アリストテレスの説得のための3つの要件のうちの一つ”であるという。おそらくこれは『弁論術』からの引用だろうが、そもそもはベラルーシで行われたプロジェクトの福島バージョンである。この紹介により、「エートス福島」は、事故以来おおいにその価値が問われることになった「科学コミュニケーション」の問題として取り上げられることとなった。
そもそものベラルーシ・エートスがどのような意図によって名付けられたかはわからない。だが、このプロジェクトの概要からすると、「エートス」ということばはより公法的観点によって捉えられるべきだと思う。そもそも古代ギリシャにおいてエトス(ethos)ということばは「慣習」という意味があり、ノモス(nomos、法)と関連することばであった。たとえばプラトンは成文化された法に対して「書かれざる父祖のエセー(慣習、ethe:エトスの複数形)」があると述べている*3。アリストテレスも『政治学』においてエセーとノモイ(nomoi、ノモスの複数形)の関係について述べている。彼によれば、成文法と調和したノモイよりも、エセーに調和したノモイのほうがより効力があるのである。
ノモスという言葉はネメイン(nemein、分配する・放牧する)という動詞から来ており、場所の概念と関係している。このノモスの場所概念に注目して『大地のノモス』という分厚い本を書いた公法学者もいたほどである。われわれがある「場所」に住むということは、ノモス(法)やエトス(慣習)に基づいて暮らすということである。逆に古くからの”書かれざる” ノモスやエトスによって、われわれはそこに住み続ける、ということもあるかもしれない。そのようなノモスやエトスを破ることが、人によっては「命を守」るために移住するという正義を果たすことと、二律背反的状況に置かれるとしたら?
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プラトンの『クリトン』は、この正義(ディケー)とノモスとの緊張関係を描写している。新しい哲学を若者に説いたために都市の有力者に恨まれ、死刑の罪をでっちあげられたソクラテスに対して、友人のクリトンは亡命を促す。友人として君を見殺しにするのは忍びない、と。それに対してソクラテスは、「正しいことだけをすればよい」という。ソクラテスはでっちあげの罪で死刑になったのだから、不正を受けている。しかし、不正をなされたからといって自分も不正なことをしてはいけない。ソクラテスによれば、「ポリスのノモス」を破るのは不正なのである。
国法はこう言うだろう(・・・)まあ、いずれにしても、いまこの世からおまえが去ってゆくとすれば、おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害でなくて世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしおまえが、自分で私たちに対して行った同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国と私たち国法に対して害を加えるという、そういう醜い仕方で、不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、生きている限りのおまえに対しては、私たちの怒りが続くだろうし、あの世へ行っても、私たちの兄弟たる、あの世の法が、おまえは自分の勝手で、私たちを無にしようと企てたと知っているから、好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。*4
このくだりはしばしば「悪法も法」ということを説明するさいに引用されることがあるが、ソクラテスはそんな単純な話はしていない。ソクラテスは世間の人間から不正を加えられたのであって、「国法(ポリスのノモス)」から不正を加えられたのではない。たとえばフランスのノモスがフランス革命由来の「自由・平等・博愛」であるとする。他方でフランス人は(日本人と同様)悪い法律をつくることもあるし悪い判決を下すこともある。しかしそのことによって「自由・平等・博愛」というノモスそのものが不正をなしたとはいえないのである。古代ギリシアにおいて、ノモスの起源は神々に置かれる。また、ピンダロスは「ノモスは人間と神々の王である」と述べた。自分が不正を受けたからといって逃亡し、そのノモスを踏みにじるのは、大きな不正となるのである。
このくだりについて、全体主義の論理に引きずられかねないとして批判するのは簡単だ。しかし今考えなければいけないのは、たとえ汚染地であろうと、ノモスあるいはエトスに従ってそこに住み続けるということは不正ではない可能性があり、そのような選択をした人たちに避難を要求することが不正である可能性がある、ということである。
しかし、このような議論に不満を持つ読者もいるかもしれない。たとえば、ある場所に住み続けるというノモス・エトスが正統なものであるという根拠はない。それは地方の醜い同調圧力に根ざした単なる因習に過ぎないのではないか?と反論する方もいるだろう。確かに、エートス福島がつくりあげようとしている具体的な「エートス」は、個々において既に多くの批判が寄せられているように、胡散臭いものであることは確かである。だが、たとえ汚染された場所であってもある場所に住み続けるというノモス・エトスそのものが不正であるとは誰にもいえないだろう。それを不正であると言ってしまうことは、三里塚のたたかいをはじめとする国家あるいはグローバル市場の暴力にたいして世界中で行われている闘争を否定することになるだろう。そしてこの「場所」に関わるノモス・エトスの正統性がある限り、エートス福島は自らの正当性の場を確保し続けるだろう。
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では、われわれはいかにしてエートス福島に反対しうるのか。「場所」に関わるノモス・エトスの正統性を認めたまま、エートス福島の「エートス」を批判するためにはどうしたらいいのだろうか。ひとつの可能性があるとすれば、ノモスの根拠となる福島/フクシマの「場所」が、3.11以前と以後で大きく揺らいだことに着目することだろう。原発事故/放射能被害によって、福島/フクシマは汚染され、それまでのノモス・エトスを適用することが困難になった。このような例外状態において、エートス福島は例外状態のノモス・エトスを作り出し、適用しようとしているのである。つまり、例外状態の常態化が行われている。
しかし、福島エートスが覆い隠そうとしてもできない毀損したノモスがあるのである。少なくともフクイチ30km圏内においてはそれは2年弱ずっと現前しており、それを否定したい人々を悩ませてきた。ここで『クリトン』の議論を逆照射することができる。福島/フクシマのノモスの毀損は、ノモス内在的に生じたものではない。ノモスを毀損したのは人間であり、それは原子力発電所事故という人間の不正によってもたらされたものなのである。
人間の責任、というものをノモスと区別することによって、この毀損したノモスについていまいちど考えることができる。ノモスが毀損したからといってそのノモスを一部の「反原発」運動のようにそれをガラクタとして廃棄することは、さらに不正を重ねることになる。また、福島エートスのように新たなノモスを注入することによって無理やり継ぎ接ぎすることもできないのである。
人間とノモス・エトスとの関係を再構築することによって、福島エートスの欺瞞をつくことが出来るようになるだろう。そして、福島/フクシマのノモスは単独で成立しているわけではない。東京のノモスがあり、大阪のノモスがあり、日本のノモスがある。それぞれのノモスがそれぞれと密接に関わっている。人間の責任を諸ノモスの関係と結びつけて考えるとき、「場所」(の違い)の概念は無視できない。「運動」は今からでもじっくり考えるべきだろう。
和奏はいかにして母の曲を完成しえたか、あるいは「主体」――アニメ「TARI TARI」における"過去の克服"について
少し前に「けいおん!内面論争」というものがあった。契機になったのは「けいおん!」には内面がないのではないか、という主張があるブログにてなされたことである。「けいおん!」には「死にゆく私」や「成熟という困難」という、近代的な主体を形成するためには不可欠な要素がない。かのじょたちは死や不安に襲われることもなく、全員いっしょの大学に進学するので「日常の終わり」もない。それはある種の「ユートピア」にすぎず、そこに住む登場人物に内面を認めることはできない。
アニメ「TARI TARI」のヒロイン、和奏は、上の議論に従えば、まさに「死」というものに強く刻印づけられていたヒロインだったといえるだろう。彼女は、ある後悔を伴うかたちで母、まひるを亡くす。彼女にとって、母の記憶は重荷でしかなかった。であるがゆえに、和奏は母の幻影から逃げようと試みる。母を想起させうる音楽をやめ、遺品もなるべく遠ざけようとするのである。
しかし、和奏がまひるを忘れようとすればするほど、まひるは和奏の前にあらわれる。過去の幻影は実像をともない何度も生起し、繰り返し訪れてくる。幻影は忘却を許さず、和奏を拘束して未来へと視線を向けさせない。
さて、「TARI TARI」における和奏の物語は、和奏がこのような過去の幻影と向き合うことで、母の死を克服する物語ではない。和奏は合唱部の活動に参加することによって、母の記憶をふたたび収集する作業をはじめる。それらの記憶は、断片的で散逸しており、けしてひとつの物語として再構築・回復しえない痕跡の集まりである。和奏は父から、母が残した未完成の楽譜をわたされ、それを完成させることを決意する。だが、未完成の楽譜はまひるの痕跡であり、楽譜のそこかしこに開いた穴は過去への想起ではもはや回復しえない。和奏の曲作りはすすまない。一方、合唱部の活動は続いていく。そして、まだ完成していない和奏の曲が来たる学園祭において歌われることが決定されるのである。
いまや、和奏の曲づくりは亡き母の痕跡を掘り起こす作業ではなく、合唱部という活動における具体的な目的となる。和奏はまひるを想起することなしに、状況において作曲することを迫られる。しかし、彼女はこの状況についてむしろ肯定的であった。じっさい、“学園祭での思い出作り”という具体的な目標が設定されることによって、和奏の曲づくりは進んでいくのである。
和奏の曲づくりが進むようになったひとつの契機は、教頭が和奏に語った、とあるまひるの記憶の断片である。その中で和奏は、まひるもまた状況において曲を作成していたということを知る。音を楽しむと書いて音楽という、いわばありきたりな音楽論が、ここでは決定的な意味をもつ。未完成の楽曲はまひるあるいは和奏という主体がつくるものではなく、言うなれば状況において生起した音たちが、まひるや和奏をとおして、楽曲となるのである。主体はその過程の中で音が生起する可能性の場となるのである。
楽曲において音と音とのつながりは、それぞれの文化や伝統において一定の法則性があるにせよ、それ自体として本質的な意味があるわけではない。ある音がある音を本質的に支配するわけではなく、状況の全体性においてあるメロディが引用され、それにしたがって個々の音の偶然的な配置が決まる。同様に、過去を記憶することにおいても同じことがいえる。和奏は後悔を伴うエピソードそのものを克服したのではない。そもそも和奏を拘束していた過去のエピソードとエピソードを結び付けていた因果性そのものが、もはや意味を持たなくなるのだ。過去は現在を支配する鎖ではなく、現在と未来に応じて引用可能となる諸痕跡の場なのである。
ゆえに、最終回が近づくにつれてまひるの幻影は消失する。和奏はもはや母を想起する必要はない。かわりに引用がある。彼女は現在の合唱部のなかまたちとともに「radiant melody」を歌うが、その曲には「心の旋律」のメロディが引用されている。和奏の父はまひるの遺影を持ち出し、校長はまひるの所属していた過去の合唱部の記念写真を持ち出す。まひるという過去は、まひるの願い、合唱部の記憶とともに、引用可能となった。そのことによって、和奏はまひるの幻影なしに、つまり過去に沈殿することなしに、またエピソードの因果性からはなれて、「まひるとともに」あることが出来たのである。
さて、わたしたちは上の議論をもって、「けいおん!」には内面がない、という主張に反駁することができる。「死にゆく私」を語る「主体」なるものをもって「内面がある」とする古い議論をやめて、「主体」の位置を問い直すこと、「卒業(日常の終わり)」にある特別のエポック的意義を見出す歴史主義をやめて、出来事の連関についていまいちど問い直すことが必要なのである。わたしたちはそのことを、構造主義的批評だとかポスト構造主義的批評とよぶのではなかったか。
「一般意志」とは何か
紙屋研究所の紙屋氏が東浩紀の「一般意志2.0」をdisっているのだけれど、何か本質を外している気がします。
■架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376
特に違和感をもったのが、「差異の総和」について書いている部分。
――「差異の和」のくだりですね。
そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。
これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47)
この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。
この箇所の解釈は明快でして、個々人のさまざまな利害や思惑という「違い」の部分をぜんぶ足し合わせて、プラス・マイナスで相殺してしまうと、共通の利益部分だけが残る、という意味です。
特殊意志、つまり個々人の利害や思惑を単純に積み重ねるだけでは、個々人の利害の集積にしかならないけども、過不足分を相殺するという算術操作をすると、それが「共通の利益」というものを残すことになるんだという意味ですよね。これは先ほどの「一般意志の内実=人々の共通利益」という解釈と整合的です。非常にわかりやすい。
ところが東さんはこの部分を「差異の和が残るが、これが一般意志である」と訳しているために、あたかも共通部分ではなく差異部分が残っているかのような印象になってしまっています。
ぼくはフランス語ができないので英語版を参照したところ、「差異の総和」は「sum of diffrences」になっていました。うーん。これはやっぱり「差異の和」つまり共通部分が残っているのではなくて差異が残ってるんだと思いますよ。
だれそれの個人的事情にすぎない特殊な意志を取り除いても、残るのは「差異の和」であり、それを一般意志とルソーは呼びます。ルソーは一般意志を共通善(common good)とも言っていますね。共通善が「差異の和」であるとすれば、共通善って結局何なん?となってしまうと思います。ですが、そこで共同体の成員すべてにおける具体的「共通の利益」なるものがあるのだ、と考えるのは短絡的です。ルソーが言っているのは果たして、たとえば「この森を村の共有地にすれば村人みんなの利益になる」とかそういうことなのでしょうか?
ルソーはリスボン大地震においてヴォルテールがライプニッツの最善説(まあ「起きてることは全て正しい(byカツマ)」みたいなやつ)に激怒したとき、ヴォルテールに対して「まあまあまあまあまあ」と宥めるような手紙を送っています。曰く、「起きていることはすべて善」なのではなく、「起きていることはすべて”全体にとって”善」なのであると考えればいいんじゃない?と。つまり特殊的に起こる不幸は否定しえないが、「一般的な不幸」については否定しうるというのです。もちろんヴォルテールがそんなことで納得するはずはないのであって、怒りの矛先が今度はルソーに向くという何かネット上でよくある論争めいた話になっていくのですが、それはまたべつのお話です。
ともあれ、そもそもなぜ世界が善か悪かが問題になるのでしょうか。キリスト教徒にとって世界は全知全能の神が創造したものですが、全知全能であるはずなのに、なぜか世界には明らかな悪や不幸が存在している。この問題は長年かれらを悩ませ続けてきました。潜勢力という考え方もそこから生まれたものです。そもそも世界においてある現象が起きるのは、神が直接働きかけたものなのか。いやそうではない。優れた王様とは優れた制度や法をつくる王様のことであり、下々の一挙手一投足にいちいち口を出す王様のことではない。同様に、神は世界を創造しそこに君臨する。だが統治しない。かわりに摂理がある。世界で起こる様々な現象は、神の摂理によって起きるのです。
しかし、摂理には、この世界に現前しているもの以外にもさまざまな摂理がありえたはずです。なぜこの摂理なのか?それは、あらゆる摂理の中で最善のものだからに違いない。なぜなら神は善であり、その神がこの摂理を選択したのだから。ゆえに、摂理がもたらす予定調和によって個々にみれば不幸としか言いようのない現象がおきたとしても、他の摂理によって支配された可能世界と比べたとき、この世界が最善なのだ。これが、最善説の考え方です。
ところで、神の摂理のことを神の一般意志とよぶことがあります。ちなみに神の特殊意志もあって、それは奇跡と呼ばれます。
ぼくが思うに(思うに、というかこのようなルソー解釈は既に存在するのですが)、ルソーの一般意志についての議論は、既に存在した神学的議論の蓄積を前提にしています。この立場からみて、「一般意志は差異の和である」ということはどのように解釈しうるのか。たぶん、こうです。神の摂理は、個々には様々に異なった諸現象としてあらわれる。では、そうした諸現象から何らかの目的とか意図が導きうるでしょうか?当然そんなことは不可能です。重要なのは、そうした諸現象によって、神の摂理が現前しているということです。同様に、一般意志が「はい!差異の和!ドン!」と出てきたことによって、それ自体から何らかの目的や意図(なすべきこと)が導けないのは当然なのです。重要なのは、一般意志が現前するということだからです。ここで転倒が発生します。つまり、一般意志そのものから何らかの意見が導かれることはないので、一般意志を手段として統治を行うことは出来ません。しかし、一般意志は定義により善です。よって、統治の目的が、一般意志を現前することになるのです。
ルソーは、「表出(再-現前)された人格が現前したとき、もはや代表者は存在しない(in the presence of the person represented, representatives no longer exist)」と述べています。上の解釈に従えば、この意味がはっきりと理解できます。つまり、いまや一般意志として現前している人格は、さきほどの転倒によって、ヒエラルキーの最上位にあります。たとえばキリスト教会においては神そのものを何かによって「代表」させることが禁じられているように、ヒエラルキーの最上位にあるものを代表することは不可能なのです。
一方、ルソーによれば一般意志は市民(国民)を「代表(represented)」したものです。しかし一般意志は共通善なのであって、これは代議制のようにそれぞれの集団ごとに代表者を選ぶあり方とは異なっています。このような代表のあり方を、カール・シュミットは「上から(auf oben)の代表」とよびました。この「代表」性を権威付けているのは、選挙やそのほかの方法による手続き的正当性ではなく、代表の「形式(フォルム)そのものなのである、とシュミットは言っています*1。
さて、「一般意志2.0」がほんとうに恐ろしいのは、まさにここにあるのです。東浩紀は、(おそらく意識的にではないと思いますが)一般意志の議論をある意味でこのうえなく「正しく」理解しています。東浩紀にとっての一般意志=民意は、定義により「善」です。もちろん、わたしたちは実際の「民意」とは、沖縄に基地を押し付け、犯罪者をつるせつるせと叫び、朝鮮学園いじめに喝采し、歴史修正主義者を政治家として当選させるものであることを知っています。しかし、東浩紀にとっての民意とは、一般意志としての民意であり、「国民」を代表しているのです(少なくとも、実際の民意との剥離に気づかないくらいにはマジョリティの匿名性に安住しているとはいえます)。かれにとって現在の日本政治における一番の問題は、政治家がそのような民意を捉えきれなくなったことにつきます。かれが希求する一般意志2.0のシステムとは、かれ自身何度も言っているようにグーグルやニコニコ動画そのもののことではなく、民意=一般意志を現前させるシステムのことであり、そのようなフォルムのことなのです。
はて、みなさん。常識的に考えて、このようなシステムを「民主主義」とよぶことができるでしょうか。シュミットはできるといいます。彼は、独裁と民主主義は両立すると述べました。「投票の結果を国民意志とよぶか、「拍手と喝采」による独裁を国民意志とよぶか、その手続きは重要ではない。「国民意思は、当然つねに、国民意思である。意思がどのようにして形成されるのか、ということが重要なのである」。わたしたちは、このような考え方によって成立した政治体制を、何と呼ぶかすでに知っています。
一般意志2.0については、ニコニコ動画で国会中継したらいいとかそういうどうでもいいところ*2にばかり注目が集まっていますが、もっと根本的なやばさ(酷さ)はぜんぜん議論されていないのであって、あずまんが橋下と結びつくところなどはまさにこの点にあると思うのですが、総スルーってところにこの社会やべえと思います。
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*1:ルソーとシュミットと東浩紀については前もかいたのだけれど全然反響がなかったので再掲載。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091226/p1
*2:まあ「アホか」という点でどうでもいいのですが。そんなことをすればどんな酷いことになるかkmiuraさんがすでに指摘しています。http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080707#p2
弔いと生政治
関西で行われている反原発デモのひとつに、「葬送デモ」なるものがあるらしい。福島において被曝による被害が近い将来多発するであろうことを、「葬送」という形で可視化し、問題提起を行うというコンセプトのデモのようだ。
このデモについては、ネットを中心に賛否両論が巻き起こっている。批判の中心は、やはりそれが「不謹慎」であるということだ。福島に住んでいる人たちをあたかも棺桶にいれるかのようなデモは、当地の人々を傷つけるのではないか?
このような批判に対して、主催の一人であるS氏が応答を行っている。
http://nonuke-savelife.tumblr.com/post/12855881354
この文章でS氏は、葬送デモが不謹慎である可能性、誰かを傷つける可能性があるかといえばあると認めている。しかし、だからといってこの表現はなされるべきではなかったということにはならない。わたしたちは放射能に対して恐怖を抱いていながら、また反原発の活動をしていながら、放射能に対してどこかでもうどうしようもないことだからという諦念を抱いている。その諦念において、いずれ確実に訪れるであろう事態にたいして、直視することを恐れている。しかし、その追認こそが福島の人々を実際に殺すことになるとS氏は説く。
どういうことかというと、自分の家族を助けることはもうできないと、心のどこかで諦めているということです。毎週末のようにあちこちに出かけて反原発の活動をやっていたとしても、そのこと自体が、本当の本当に恐ろしいことから目を背けるための言い訳のようなものになっていて、絶望していない見せかけのままに、心の奥深くのところで絶望してしまっている。これが心底から嫌だったので、自分が一番見たくないと思っていることをきちんと形にして見ておく必要があると考えました。それが葬送デモに参加することにした第一の理由です。
「葬送」という表現において傷ついた人がいたとしても、その向こうで考えるべきことがある。それは、もちろん避難しない人を批判することではない。政府や東電といった権力に対して、避難の権利をうったえ、避難の可能性を模索していくことである、という。
東電や政府に対して「避難の権利」を認めさせ、その十分な補償を行わせるという結論に対しては、もちろん異論は無い(避難とはまさに「権利」なのだから)。また、誰かが傷ついたとしても直視したくない現実を表現しなければならない、ということもありうると思う。
しかし一方で、この「葬送」という表現はなされるべきではなかったと私は考える。このデモにおける「葬送」の対象は可能性の未来の子どもたちであり、そのような事態が実際に起こらないために行われるデモなのであろう。だが、(子どもの死、という)可能性の未来をつぶす手段が「避難」なのであれば、このデモは他方で「福島」という場所をも弔っている。未来の子どもの死は可能性にすぎないが、「福島」という「場所」の死は揺らぐことが無い。
「葬送デモ」にみられるようなこの生命に対する執着と場所に対する無頓着性は、多くの反原発運動にみられる現象である。”「福島」を見捨てて「人」を救う”というスローガンは、とくに反原発を主張するひとたちにおいて、しばしば手放しで賞賛され、受け入れられている。その原則を背景に、瓦礫含む放射性廃棄物の処分場を福島につくれという主張や、福島の農産物はすべて廃棄すべきという主張、ひいては福島を「廃県」にするという主張までなされるのである。
だが、この原則は、原発事故による被害の問題を「被曝-健康被害」の問題だけに矮小化してしまっているといわざるをえない。原発事故による被害は複合的な被害であり、その中には福島という「場所」の被害も含まれているのだ。なぜ福島という「場所」が被害にあったのか。それはけして偶然ではない*1。開沼博を読むまでも無く、それは中央と地方におけるさまざまな構造的な権力関係によっていたのだ。その意味で、被害は3.11以後にはじめて発生したのではなく、3.11以前からあらかじめ予定されていたのである。もし、命さえあれば「場所」はどうでもいいというのであれば、なぜ東京に原発が無かったのか。大阪に原発がなかったのか。わたしたちは最初から被曝してよい「場所」とそうでない「場所」を区別していた。なのに、被曝という事態が起こってから、”その「場所」は死んでしまった。大変悲しいことだ。生まれ育った「場所」なんか捨てて逃げなさい。逃げれないならお金をやろう土地をやろう職場をやろうほら逃げれるでしょ。”というのは、あまりにも欺瞞的にすぎるのではないか。
11月、福島で女子駅伝を開催することが問題になった。ぼくも別に福島で開催する必要はなかったと思う(毎回ある場所で行われていた競技大会が、何らかの事態により別の場所で行われる、ということはよくあることだから)。だが、東京在住のジャーナリストが福島に乗り込んでコースをガイガーカウンターでかたっぱしからはかっていった、という話を聞いたとき、正直嫌悪感をおぼえた。そのやり方は、先進国の人道主義者が途上国に乗り込んで「ここに抑圧がござい」と一席ぶつ手法にしか見えなかったからだ。もちろんそれは善意からでた行為だろう。だが、その善意は中央から周縁を眺めやるオリエンタリズム的な視線によって成り立っている。その視線には、相対する相手を「他者」としてみなす視点が欠けている。
未来における子どもの死は、どこの「場所」で生じるのだろうか。私は首都圏に住んでいる。葬送デモは関西だが、大阪という日本で二番目の大都市圏で行われている。大都市という「場所」から、福島(地方)という「場所」を眺めている*2。その「場所」のちがいを無視して、未来における子どもの死を「わたしたちの」子どもの死として弔うことがはたして可能だろうか。大都市圏のひとびとにとって、その子どもの死は別の「場所」において発生する死、すなわち、「他者」の子どもの死なのではないだろうか。
S氏の文章では、この点について巧妙なすりかえがなされていると思う。S氏自身は福島に家族がいるという(あるいは福島出身なのかもしれない)。そしてその家族の将来の死について考え、家族を助けるための運動を行うこと、それがS氏にとっての葬送デモであった。もちろん、S氏に限らず、自身は大都市圏に住んでいるが家族など身近な人間が福島に住んでいる、という人も多くいるだろう。しかし、家族など少数の人間については断絶ない関係が築きえても、だからといってその人間が福島のひとびと全員とそのような関係を築けるわけではない。大都市圏の人間-地方の人間という構造的な断絶は残ってしまうのだ。
「他者」の子どもの死を弔うこと、「場所」を弔うこと、もしそれが未来においてありうることであり、その「場所」はすでに死んでいるのだ、ということをあなたが信じるならば、それを主張するのもいいだろう。だが、そのときあなたはその「場所」と敵対したということをはっきりと自覚すべきである。「場所」が客観的に死ぬなどということはありえない。「場所」は人がそう宣言したときに死ぬ。逆に言えば、人が「場所」を殺す。
葬送デモは福島という「場所」を殺すデモである。だが、死んだ「場所」のあとには何があるのだろうか。その謎めいた空白地帯に住んでいる人びととは?
たとえば福島廃県という恐るべき事態が発生した未来について考えてもいい。福島という「場所」が消失したとしても、物理的なある面積はのこる。その面積は周辺の各県が、あるいは政府の直轄となるのかもしれないが、とはいえその面積が存在しないと考えてよいということはありえない。当然そのような事態ではすべての人の強制避難ということになるだろうが、収束作業をしている被曝労働者はのこる。また、強制避難となったとしてもなお残る人たちがいる。辺見傭『もの食う人びと』のなかでふれられているように、チェルノブイリにおいても避難をしなかった人、あるいは強制避難区域に戻ってきた人たちがいた。そのような人々は果たしてどのような人々であるのか?存在しない「場所」に住んでいる人は存在しえない。つまりかれらは亡霊ということになるのだろうか。少なくとも人ではない何かとして扱われることになるのではないだろうか。人はその面積の中には存在してはいけないのだから。
つまりかれらは、アガンベンがいうところのホモ・サケルとなる。それは、「生きているのみ」に切り詰められた人間であり、死ぬがままにされた人間である。そのような剥き出しの生に置かれた人間とそうでない人間を分けるものこそが、「場所」と「場所ではない何か(非-場所)」の境界線なのだ。
「場所」を弔う(殺す)ということは、究極的にはそこにすんでいる人間を剥き出しの生に追いやることになる。たとえ、主催者の意図が”そこに住んでいる人を非難するわけではない”としても。そしてそれだけではない。まさにそのような生に追いやることによって、われわれ大都市圏の人間は、避難の推奨という人道的介入を行う権利を手に入れるのだ。ジジェクは主張する。
それならば、政治的共同体から除外され、<命あるのみ>のホモ・サケルの権利に引き下げられた<人権>はどうなるのか。非-人間として扱われる、まさに権利のない者の権利となり、役立たなくなったときは>ジャック・ランシエール〔フランスの哲学者・政治学者。1940-〕が重要な弁証法的逆転を提案している。「……用がなくなれば、(…)海外へ送られる。(…)このような過程の結果として<人権>は権利を持たず、残酷な抑圧や生存条件に耐えることを強いられた、剥き出しの人間の権利になる。人道的権利として、それを行使することのできない、権利を絶対的に否定された被害者の権利となるのだ。それでも、無効ではない。政治的な名や政治的な場所が全く空虚となることはなく、誰かまたは何かによって埋められる……もし残酷な抑圧に苦しむ者たちが最終手段である<人権>を行使できないなら、別の者がそれを継承し、彼らの代わりに行使する必要がある。これこそが、犠牲となっている住民を助ける想定で『人道的干渉の権利』と呼ばれ、多くの場合は人道的組織の勧告に反して特定の国々が我が物にしている権利だ。『人道的干渉の権利』とは、一種の『差出人への返送』だといえるかもしれない。不要品として権利を持たざる者へ送られた権利が、差出人へ送り返されるのだから」(スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』集英社新書、p165-166)
結局のところ「葬送」デモは、このような中心-周縁の権力関係にもとづいた政治のあらたなバリエーションを形成するにすぎないと思う。
わたしたち大都市の人間は、福島という「場所」をまず生きている「場所」として認識することが必要なのかもしれない。わたしたちが福島を一方的にまなざしているのではなく、また福島からもわたしたちの「場所」はまなざされている。そして、福島で今おきていることは、わたしたちに対しての訴えでもある。わたしたちは福島に(あるいは日本全国でもいい)何を訴えるかを考える前に、まずわたしたちに対して訴えられていることについて応答できていない、ということを考えるべきだと思う。
■参考文献
「反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン」に賛同します
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111013/1318517161
反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン
お上も下々も、右も左も「がんばろう」?
「日本はひとつ」じゃない!
ずっと異常事態だったでしょ?
3.11にはじまったことじゃない!
日時 11月23日(水・休日) 12時30開場 13時00分開会 20時閉会予定
場所 千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅徒歩10分)
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sendagaya.html
資料代 500円
【実行委員会への参加者募集!】
※ お問い合わせは→ war_resisters_fes11 あっとまーく yahoo.co.jp
《基調よびかけ》
「脱原発」「エネシフト」、けっこうもりあがってる。
でも、廃炉になれば一件落着、なのか?
福島で、全国の原発で、
炉を止めるための被爆労働はつづくだろう。
それに狩り出されるのってだれ?
汚染された農家のことはどうするの?
いま福島の原発近隣で被爆をしている人たちは?
首都圏のための原発を福島に置かせた政治・社会構造は?津波のスペクタクルが日本のマスメディアを埋めつくしていた3月、
リビアでは「民主主義のため」と称して欧米が爆弾を落しはじめていた。
自然が作り出した災厄に日本人は釘づけとなる。
人間が作り出した災厄を日本人は気にもとめない。
それどころか、政府は被災地で自衛隊と米軍の「トモダチ作戦」が実験できて得意顔だ。
しかも「だから沖縄に米軍基地が必要だ」と屁理屈をこねる。
そして大国の利権うずまく新興国・南スーダンに日本も出遅れまいとばかり、
憲法違反の海外派兵をまたもや画策する。なにも変わらない――いや、むしろ悪くなった。
3月11日以後のスローガン「がんばろう日本」。
復興を名目とした国民の総動員だ。
「日本国民は「ひとつ」になって、この難局を乗り切ろう!」
その過程で、ほかのさまざまな問題が置き去りにされる。
権力者は、今まで以上にやりたい放題やっている。社会運動の側はどうか。
この半年で「原発こわい」からどこまで進んだだろうか。
放射能は差別しないけど、それをつくった人間社会は差別している。
それなのに「脱原発」だけで「国民総被害者」でまとまれればOK?
それ以外のことを言うのはKY?
そういえば「貧困」の問題はどこにいったんだろう。
基地の問題は? 差別の問題は? グローバリズムの問題は?いまこそあらためて言おう。
ずっと異常事態だったでしょ?
空気読んでる場合じゃない!
《企画内容》
ことしは4つの分科会と全体会をつうじて、「ずっと異常事態」であるこの社会でどんな抵抗をたてなおすべきかを考えます。どの会も、講演のようなかたちではなく、なるべく多くの参加者が意見を表明できるような討論のかたちで準備しています。
【反戦】 21世紀の戦争国家・日本 合言葉は「ぜんぶ「反日」のせい」
【反原発】 反原発運動のこれから 「がんばろう日本」じゃないよね
【反グロ・反金融資本】 「お金」に支配されていいのか!
【地方/都市問題】 地方のくいぶち問題と原発【全体会】 さて、どうする?
反戦と抵抗のフェスタ2011 実行委員会
といあわせ war_resisters_fes11 あっとまーく yahoo.co.jp
ブログ http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/
賛同・ブース出展を募集しているようです。
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111023/1319368347
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111023/1319368686
ぼく自身も、この基調呼びかけの問題意識について共有するものであり、フェスタに賛同したいと思います。
以下のような賛同文を書きました。
3.11以降やおらあらわれた都市の反原発運動の盛り上がりは、にわかに終息していっているようにみえる。当たり前だ。放射能怖い放射能怖い。あっちで何ミリシーベルト、こっちで何ミリシーベルト。大変だ大変だ行動行動行動……。そんな運動が長続きするはずがない。正直、ぼくもうんざり気味である。いちど立ち止まって、本当に問題なのは何か、ゆっくり考えたい。しかし、そのような違和感を口にしたものは、「危機感が無い奴」ということにされてしまう状況がある。
おかしくないか?もう「緊急事態」ムードに酔いしれるのはやめよう。「緊急事態」ということばは、どんな悪いことをやっても不問にできる魔法の言葉として歴史的に用いられてきた。そして、放射能だけが「緊急」なのではない。
3月以降の反原発運動の勢いが鈍りつつあるいまだからこそ、緊急的なものと緊急的でないものを差別的にわけるのをやめて、何が「正しい」事柄なのか、問い直すときだと思う。