2013年ベストイレブン

バイエルン型4−1−2−3

               早見沙織(雪乃)
       赤崎千夏(マキ)         阿澄佳奈(こまちゃん)
           茅野愛衣(愛衣) 大久保瑠美(神月) 
               悠木碧(小町) 
種田梨沙(縁) 日高のり子(理事長) 名塚佳織(一穂) ことり(れんげ)
              小松未可子(戸塚)

恒例なので。

円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論

―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。                        

 
 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。
 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」として*1

Um sie kein Ort noch weniger eine Zeit
彼女たちの周りには空間はなく、まして時間もない*2

罪と罰のエコノミーを記述する神話的な法の仮面が剥ぎ取られ、神話以前の原初的世界が「現在」として顕現したとき、「始まり」の物語は「永遠」の物語となった。何によって?「円環の理」によって。世界は始まりもなければ終わりもない、閉じられた円環によって統治される。「円環の理」――その紋章には、とても意味深長な一文が魔女文字で書かれている。“Das Ewig Weibliche“すなわち「永遠に女性的なるもの」と*3
「永遠に女性的なるもの」この有名なゲーテファウスト」第二部最終節からの引用(ちなみにこの後は“ Zieht uns hinan“つまり「我々を引き上げる」と続く)は、「円環の理」による「救済」力の在り処を示しているはずである。この言葉によって、TV版ではどの程度の真剣さがあるのか測りかねた「円環の理」という概念に、初めて具体的な意味が加わった。だが、なぜ「円環の理」の「救済」の力は、「永遠に女性的なるもの」と呼ばれなければならないのか?このふたつの表徴を結びつけている体系は何なのだろうか?
 「円環の理」は魔法少女が消滅するとき、その魂を救い上げる。魔法少女は「願い」によって誕生し、その願いが絶望へと変わる瞬間に、死ぬ。「円環の理」が祝福し、救済するのはまさに願いが絶望へと昇華する瞬間なのである。けして願いが願われ、魔法少女が誕生した瞬間ではない。魔法少女の魂はその最後の瞬間において、天上へと引き上げられる。しかし天上のどこへ?映画を見た我々は、もうその答を知っている。画面の中で何度も繰り返し象徴的に登場していた、あの天上にある円環――月へ、である。「円環の理」とは、月という象徴を解読することで明らかになるのだ。
 
 19世紀の法学者でロマニストであったヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンは、父権制の前段階としての太古の母権制の存在を文化人類学的な研究によって明らかにし、それによって法の歴史にオルタナティブな解釈を与えようとした。彼はその大著『母権論』において、月について古代の歴史において存在したデーメーテール的母性を象徴する天体と解釈する。月は、太陽と大地の境界にあってそれらを仲介する、デーメーテール=大地母神的な属性をもつ“天なる大地“なのである。
 ヴァルター・ベンヤミンフランツ・カフカの作品世界を(ベンヤミンカフカ論は、TV版まどマギ解釈にあたって*4、贖罪としての魔法少女を論じるさい補助線にしたものでもあるのだが)*5、バッハオーフェンの神話的世界に結び付けているのは驚くべきことではない。もちろんバッハオーフェンがロマニストとして太古の母権制への考察をすすめた時局的な意義は、19世紀的なものだったかもしれない。『母権論』は、21世紀の今日では、20世紀初めにはまだ存在していた実証的な力や政治的武器としての力を今やもたない*6。だが、この非常に読みにくく衒学的な印象さえ与える著作は、ルートヴィヒ・クラーゲスらミュンヘン宇宙論サークルによって“再発見“されて以降、左右の区別を超えて多くの作家・思想家に影響を与えてきたことも忘れられてはならない。バッハオーフェンにとって太古の神話的世界は、単なる歴史でも物語でもなく、言語によって尽くすことのできない秘儀的な宗教的体系の「解釈」として現前している。そのような神話的世界と対峙するために、彼は膨大な量の資料群を用いて、より古層的な生の現実の表れである象徴を逆撫でに読む。そして彼はそのような読解こそが、現代にも続く人類の生の歴史を――運命としての歴史を――逆照射できると信じているのである。この理念はベンヤミンカフカ解釈に(そしてベンヤミンアレゴリー概念全般に)大きな影響を与えている。ベンヤミンによれば、神話・法の読み方が現在において忘却されているために、カフカ的世界では、神話以前の太古の世界が運命として現出するのである。
 TV版まどマギにおいて魔法少女の運命とは、ベンヤミンが述べるカフカ的世界のごとく、その世界の法を何も知らぬままに侵すことによって少女に対して降りかかるのであった。だが、その法を存在づける世界の始源とはいかなるものであるか。それ自体については十分に明らかにはされなかった。「叛逆の物語」において、その始源は、何らかのある図像解釈の体系に従って配置された象徴群によって開示されている。我々は、映画「叛逆の物語」を正しく解釈し、まどマギ論を一段階高い次元に引き上げるためにも、世界の始源であるもの、「円環の理」について、その象徴構造の解読を試みなければならない。そのためには、バッハオーフェンとその受容において蓄積されてきた図像解釈学の力を借りる必要があるだろう。
 
 「叛逆の物語」は、まどかの救済に対してほむらの堕落を対置することによって、ほむらによる「円環の理」=まどかに対する「叛逆」の物語であったと通俗的には解釈されている。そしてこの解釈は、救済を嫌うキモヲタたちによって支持されている。だが、ほむらは本当にまどかの母権制に対して「叛逆」したのだろうか?「円環の理」=月=母権制の象徴構造は、この解釈に対して真っ向から対立している。バッハオーフェンによれば、月とは母権の象徴である。月の満ち欠けは生成と消滅を表し、その円環は永劫回帰を表す。「円環の理」は「永遠に女性的なるもの」とともに、月=母権制を顕示しているのである。月は夜を支配し、夜は死を象徴する。だが死は新たなる誕生=朝を告知している*7。したがって、月は生の円環そのものでもあるのである。「叛逆の物語」ではこの円環と月との関係が様々な形で示唆されている。たとえば閉鎖空間の中の見滝原において、ほむらと杏子が乗ったバスの表示は「見31見滝原循環」であり、31とは31日=1ヶ月のことであるという。31日=1ヶ月とは月の公転周期にほぼ等しく、それに従って定められたひとつの円環なのである。
 クラーゲスがバッハオーフェンを受容する際に自らの議論に取り込んだのは、「双極性」の概念であった。クラーゲスによれば、夜と昼、明と暗、死と誕生、水と火、などのリズム的交代に従って、宇宙は生起する。彼の着想もまた、象徴の考古学的考察から成り立っている。月は満ち欠けを持ち、生と死の双極性を持つ円環として見られてきた。またその楕円軌道は、ひとつの中心ではなく、ふたつの中心をもつ。双極性の概念に着目すれば、月はあらかじめアンチテーゼをその中に内包しているといえるのである。既に述べたように、月は仲介者であった。天と地、男と女、昼と夜、北と南、あらゆる対立物の、ふたつの極の間を揺れ動く。父権制の原理が単一性であるのに対し、母権制は、世界を双極性によって把握するのである。まどかの救済とほむらの堕落は、こうした母権的なアンチテーゼのそれぞれの側面にすぎない。後者は前者に対する対抗者であり、それによって二元性が生じているというわけではない。両者の起源は同じ「永遠に女性的なるもの」である。まどかは「聖母」になり、ほむらは「魔女」になったのである。
 ほむらの「叛逆」によって、見滝原の空に輝いていた満月は弦月となった。だが弦月は月の消滅ではなく、失われた正円の記憶を保持しているのである。弦月には今は消えているもう半分があることは明らかであり、逆撫でに読まれることによって、いまだ ἀρχήを象徴するのでる。ゆえに「円環の理」は、終盤でのほむらとさやかの会話からも示唆されているように、なおも天空において君臨しているのである。むしろ弦月の上下にできた角の存在は、月に双極があることも明らかにしてもいる。ほむらの「叛逆」によってむしろ、「円環の理」はその本性を表すのである。
 月がまだ輝いている限り(月自体が支配するのではなく、月によって象徴されているものが支配するのである)、「叛逆の物語」を神=まどかの救済の失敗と堕落したほむらの勝利として読むことはできない。ほむらは自身が証言しているところによれば、「円環の理」の一部(つまり、まどかである)を切り取り、肉体をあたえたのである。しかしこの受肉する力、物質(Materiell)的な力こそまさに、大地母神マーテル・マトゥータ(Mater Matuta)として顕現する母権的な力なのである。真の根源は月=母権にあり、まどかとほむらの関係は、いま現在どちらの極が優勢であるかという問題にすぎない。
 このような考察のもとで、ほむらがソウル・ジェムを噛み砕く*8その真の意味が明らかになる。ソウル・ジェムは楕円形をしている。月の楕円軌道については既に触れた。楕円とは歪んだ円であり、失われた原初的正円の象形文字である。楕円たるソウル・ジェムはまた卵の隠喩である。キュゥべえの真名が孵卵器であることからもそれは明らかである。この卵こそ、『母権論』の著者が創造の始源の象徴として繰り返し言及する「世界卵」である。日本の読者にとっては、クラーゲスを経由して世界卵の表象を取り入れたヘルマン・ヘッセの『デミアン』における一節が最も有名であろう。

Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muß eine Welt zerstören.
鳥は卵の中から抜け出ようとたたかう。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、ひとつの世界を破壊しなければならない。*9

卵は月と同じく破壊と生成を象徴する円環なのだ。楕円=卵の重要性は、飛行船や風船などの隠喩を通して、この映画において繰り返し強調されている。世界の破壊のためにソウル・ジェムを噛み砕くほむらは、別の見方をすれば、世界卵の破壊の再演という、これもまた母権的である祭儀にのっとって、それを行っているのである。
 したがって「叛逆の物語」のほむらの試みを、「円環の理」そのものの破壊の試みとして読むならば(そのように読む意義も疑わしいが)、その試みは失敗していると言わざるをえない。せいぜい、母権的支配の別のヴァージョン(アンチテーゼ)といったところであろう。ひとつの世界が破壊されても、また別の世界が立ち上がる。楕円も欠けた月も、その根源からは逃れられないのだ。すなわち、「Das Ewig Weibliche――永遠に女性的なるもの」の円環からは。
 
 生成と消滅の円環こそが「円環の理」である。閉じた輪の中で、魔法少女は踊り続ける。舞踏はディオニソス的芸術であり、母権的な芸術でもある。そのステップは楕円軌道を描き、ふたつの極を揺れ動く。楕円軌道であるからこそ、彼女たちは一定の距離を保つのではなく、近づきあい、離れあう*10。過去と未来はなく、運命としての現在だけがあるのである。
 空と地面は遠く、人と人とは近く――この舞踏は永遠に続くのか、それとも何らかの終着点があるのか。われわれはその答えを導き出すだけの材料は未だ持たない*11。その答えは次回作――もしあるとすればだが――に委ねるとしよう。
 
*参考
「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1
「まどかの救済、あるいは背中のまがったこびとの話」
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110425/p1

 

*1:カール・レーヴィットは、円環的な時間のなかでは歴史概念は成立しなかったといい、歴史概念は直線的な―つまり神学的な―時間概念の成立と同時に開始されたと述べている(『歴史における意味』)。

*2:Johann Wolfgang Goethe, Faust. Der Tragödie Zweiter Teil, 6215

*3:http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%86%E7%92%B0%E3%81%AE%E7%90%86

*4:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1

*5:http://hhasegawa84.tumblr.com/post/67084214405/gesetze-und-umschriebene-normen-bleiben-in-der

*6:エンゲルスは、バッハオーフェンの母権論を資本主義的=父権的家族制に対するオルタナティブとして読んだ(『家族・私有財産・国家の起源』)。この方法は19世紀においては画期的だったかもしれないが、現代におけるジェンダー論の批判に耐えうるものではないだろう。

*7:夕暮れ以降において戦う魔法少女を夜の女神ニュクスが生んだともいわれる、「夕べの国」ヘスペリアに住むニュンペーたちになぞらえることも可能であろう。魔法少女と夜というモチーフは、ギンズブルグがベナンダンディの研究によって明らかにしたような、太古の基層的文化との接続も想起させもする。

*8:

*9:この一節は「少女革命ウテナ」によって有名となった。「叛逆の物語」とウテナの類似関係を指摘する者がいるのは理解できる。だが「叛逆の物語」は、その象徴体系を解読する限り、ウテナにおいて参照されたであろうヘッセではなくより古い起源を指し示している。ウテナとの類似でいえば、ネオプラトニズムグノーシス的なモチーフが共通して用いられていることもあげられるが、グノーシスとは父権的な世界観を特徴するのであって、母権的象徴がちりばめられている「叛逆の物語」にそのまま当てはめることはできない。

*10:クラーゲスは、双極性は依存関係を持つと述べている(『リズムの本質』)。

*11:たとえば今後の展開において弁証法("3"の領域。すなわち1+2としての)が想定されているのか否かは注目に値するだろう

「長期的持続」のスペクタクル ――漫画版『ARIA』の風景について

(初出は2003年、某サークル正会誌)
 19世紀全般を通して、ヨーロッパにおける都市の景観は大きく変容した。産業革命は都市人口の急増と生活スタイルの変化をもたらし、技術革新が近代的な建築物を登場させた。そして、海外貿易の発展が世界中から様々な珍しいものを都市に持ち込んだ。都市には美術館や博物館、劇場や動物園などが乱立し、パリやロンドンでは万国博覧会なども開催されるようになった。いわば、都市全体が一種の「スペクタクル」空間化したのである。近隣の地方や遠く外国からきた観光客たちは、その目の覚めるような景観に圧倒されることになる。
 19世紀ヨーロッパの演劇的スペクタクル都市を、一方の極として完成させたのはヴェネツィアであろう。18世紀にはヴェネツィアはすでに享楽都市として有名であった。ナポレオンの占領によっておよそ1000年にも及ぶ政治的独立に終止符が打たれてからは、その傾向がさらに顕著になっていく。
 ヴェネツィアは、文化的に他の西欧の都市とは異なる部分が多い。東方貿易の繁栄、そして(形式的だが)ビザンツ帝国への政治的従属が、ヴェネツィアの東欧世界化、アジア世界化を促したのだ。19世紀ヴェネツィアは、その文化的特徴を最大限に利用する。都市空間の作り方から、文化的行事、食事、市民の服装に至るまで、あらゆるものを一切―ある意味ではカリカチュアとして―オリエンタル化することで、都市全体を「演劇」化、「祝祭空間」化することに成功したのである。
 『ARIA』におけるネオ・ヴェネツィアは、この18世紀、19世紀にスペクタクル化したヴェネツィアをモデルとして作られていることには疑いがない。しかし、両者のスペクタクル性は果たして同じものなのだろうか?
 決定的に異なると思われるのは「時間」である。19世紀スペクタクルの特徴は、その時間の速さである。壮大な景観、壮大な場面が、目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。人々は、自分たちを驚かせてくれるものが絶えず更新されることを望む。更新のスピードは速ければ速いほどよい。それは近代的な産業様式、生活様式が大きく反映している。鉄道の影響は言うまでもない。だが、ネオ・ヴェネツィアにおいては、時間はむしろゆっくりと流れる。ネオ・ヴェネツィアの風景は永遠性を人々に想起させる。言わば、街全体が「のんびり」しているのである。この相違性とネオ・ヴェネツィアの可能性について、19世紀のスペクタクルの特徴と『ARIA』におけるスペクタクルの特徴を分析し腑分けすることによって明らかにしていきたい。
 19世紀、世界は西欧中心の「世界システム」に組み込まれつつあった。世界システムの中核―西欧各国が工業化を進めていくのに対し、世界システムの周辺―アジアやアフリカはますますその資源供給地に過ぎなくなっていった。西欧の産業構造に従属する形でアジア・アフリカのモノカルチャー経済化が進められ、その一次産品の違いによって世界は再編成される。
 都市のスペクタクル化は、この世界のありようを反映していた。美術館や動物園、博覧会などは、帝国主義の論理で色分けられた世界を表象する。たとえば1867年のフランス万博。周辺には、西欧の資本主義経済に組み込まれることによって生産が開始された一次産品や、その地域の珍しい品物を展示した各植民地のパビリオンが配置されていた。そしてその中心には、「進歩」や「帝国」の概念を誇示するかのように、西欧先進国の工場によって生成された品々が高らかと展示されていたのである。また、大英博物館はまさにアジアやアフリカに対する西欧「文明」の勝利という意識の産物に他ならない。万博を訪れた植民地からの旅人たちは、自分たちの自己イメージと展示されているそれのギャップに困惑することになった。 当然、それを見る西欧の人々たちの視線は、オリエンタリズム的なものにならざるを得ない。帝国主義的なまなざしによって異化されたオリエンタルな世界に対する好奇心が、彼らを美術館や博覧会へと向ける動機付けになっていたのである。
 西欧の人々が世界を帝国主義的、オリエンタリズム的に表象化していくとき、重要なのは彼らと対象との距離である。彼らは対象を、自分たちとは異なる「他者」として切り離していた。スペクタクルの中心には必ず「観客席」が置かれており、まなざす主体とまなざされる「他者」は厳然と区別されていたのである。植民地からの旅行者たちと同様、19世紀のヨーロッパ人旅行者たちもまた、現実のエジプトが、インドが、中国が、彼らの自己イメージと異なっていることに困惑することになった。現地にはまなざすための中心がなく、あるのは実生活に根ざした混沌だけだからだ。仕方なく、彼らはピラミッドや万里の頂上に上ることによって、パノラマ的な展望を手に入れようとする。
 18〜19世紀における「観光都市」ヴェネツィアも例外ではなく、このような構造の上に成り立っていた。観光客は前述したようなヴェネツィアの「オリエント性」、すなわち、自らとは異なる「他者」を見にやって来るのだ。彼らはあくまでも「観察者」の立場であり、都市自体もそのような構造を反映して整備されていた。
 しかし、ネオ・ヴェネツィアという街はこうした構造の上に成り立っているわけではない。その根拠は、「ウンディーネ(水先案内人)」の存在である。「観光客専門のゴンドラ漕ぎ」である彼女たちは、同時に観光客の「視線」を決定付ける役割を持つ。ネオ・ヴェネツィアに住み、誰よりもその街を知っている「ウンディーネ」が見たものを見ることによって、観光客たちは自らを対象の外部に置くことなく、対象の中に入り込んでネオ・ヴェネツィアの風景をまなざすことが出来るのである。
 しかし、「ウンディーネ」によって視線を規定されてしまうならば、それは観光客にとって窮屈なことなのではないか?当然そのような疑問が生じてくるだろう。だが、「ウンディーネ」が見たものを見るということは、風景を見るフレームが彼女たちによってあらかじめ与えられるということではない(それならば確かに窮屈であろう)。むしろ「ウンディーネ」が見たものを見る、つまり彼女たちを媒介とすることによって、フレームは崩壊する。まなざす者にとって異化されるのではなく、まなざす者と風景との同質性が顕現するのだ。
 要するに、ネオ・ヴェネツィアの風景は、「ウンディーネ」を通して、19世紀スペクタクルのようなフレームによって切り取られた個性的・珍奇的なものではなくて、歴史性と時局性をともなう内在的・性格的なものとなるのである。それこそが「6時間同じ風景を見ていても飽きさせないような(第3話「ため息橋」)」風景であり、その風景をまなざす者は「どんな囚人さんも/橋を渡る途中に/一度は足を止めて/あの小さな窓から/美しいヴェネツィアの/街並みを見つめて/思わず/嘆きの/ため息を/漏らしたそうです」「…私達は今/その美しい景色の中で/こーして のんびり/過ごせるんですもん/ため息もんですよねぇ」(第3話「ため息橋」)と、現在と繋がる連続性の中で、偶有的な「今」を再確認できるのである。かつてあったもので、現在もあるものの再発見。それがネオ・ヴェネツィアのスペクタクルなのである。
 さらにネオ・ヴェネツィアにおける「偶有性」は、この都市の基層的な構造において潜勢的に存在していることが明らかにされる。「どこまでも/規則正しく/繰り返される/風景が/この街を/歩く人に/一定のリズムを/与えてくれるのです」(第13話「街の宝物」)フェルナン・ブローデルは、歴史の中に政治的・経済的な変化では動かない、比較的ゆるやかに流れる「時間」があることを発見した。ネオ・ヴェネツィアの中で人々が感じる「一定のリズム」とは、この「ゆっくり流れる時間」―ブローデルは「長期的持続」と呼んだ―に他ならない。長期的持続は、歴史的な偶有性によって顕在化される。そしてそれは、ネオ・ヴェネツィアの風景と、それを見るまなざしを形成する。ネオ・ヴェネツィアという街自体にもまた、観光客に、他者としてではなく、「偶有的に」自己とかかわりがあるものとして対象をまなざさせる作用力があるのである。
 そう。ネオ・ヴェネツィアにおける風景とはつねに”再”発見される対象である。それは、ロマン主義のように風景を自己の一部として発見することもゆるさない。風景自体が即自的に現実化しうる可能態であり、ネオ・ヴェネツィアにおける奇跡の過剰はこの意味で解釈される。あらゆる風景は実在可能であり、ゆえにこの世界は奇跡で満ちている。これは、経済という、「中期的持続」の範疇に属するものに根ざした19世紀「スペクタクル」においては生じえないものであり、「長期的持続」の時間のリズム、そして過去と現在の両極を揺れ動くリズムに根ざしたネオ・ヴェネツィアの「スペクタクル」だからこそ可能になったのだ。
 19世紀以降近代化する世界の中で、我々はいつしか「中期的持続」的なスペクタクルこそが唯一のスペクタクルであると思ってきた。しかし、それ以前にもこうしたゆるやかに流れる時間に根ざした「スペクタクル」はあったはずである。近年、そうした「スペクタクル」の再発見がさかんに行われているという。しかしそれらは「近代」によって失われたものとして、ノスタルジアの中で懐古されるのみである。結局、人々は地理的な外部に変わって、過去に対して「オリエンタル」なものを見出しているだけなのだ。
 SFというジャンルにおいても、作家たちはその「スペクタクル」を、宇宙時代における地球―マンホーム―への郷愁というモチーフで表現しようとしてきた。しかし、そこには「進歩」という、作品によって程度の差はあれ、一貫してSFというジャンルを支えてきた概念と対立せざるを得ないというジレンマがあった。一方、ネオ・ヴェネツィアは、「オリエンタル」的ではない、歴史的偶有性に根ざした長期的持続を基層に置いているが、他方で近代性を完全に捨て去ったわけではない。(なにせ、火星に造られた人工都市なのだから。)進歩と偶有性の共存。『ARIA』という作品が持つ、SF的可能性ではあるだろう*1
 

*1:一方、アニメ版『ARIA』は人間中心的に話が進んでおり、漫画版にあるような灯里の内面が窺い知れなくなるような圧倒的な風景の現実性が描き切れているとはいえず、残念に思う

大空と大地の中で――あるいは銀翼のファム

ここにもまた神々がいて、統治したもう。神々の尺度は偉大である。だが、とかく人間は自身の指尺によってそれを測りがちである

 ある有名なトリビアに、「料理研究家服部幸應は調理師免許や栄養士免許など一切の調理にかかわる免許・資格を取得していない」というものがある。理由は単純で、そうした免許や資格の創始者が彼自身だからである。ある秩序を基礎づける力は、秩序の外にあるのである。この普遍的な、しかし説明しがたいアポリアは、長年人類を悩ませ続けてきた。国家の支配とはいったい、何において正統化することができるのか?ある公法学者は、それを取得にあると考えた。古代ギリシア語で法をあらわすノモスは、取得・分配・放牧をあらわす動詞ネメインから来ている。大地の始原的な取得・分配・放牧から、国家の支配と国際秩序は基礎付けられる。
 「ラストエグザイル」の世界における「エグザイル」とは、空にうかぶ宇宙船であり、大量破壊兵器である。一方、エグザイルは支配権の根拠でもある。たとえば第一作目においてデルフィーネがアルヴィスを誘拐しようとした理由は、彼女がエグザイル起動のキーであり、すなわち支配権の正統性についての鍵を握る人物だからであった。エグザイル―Exsile―という言葉はもちろん「追放者」という意味をもつ。ある場所の支配権が、追放者すなわち場所をもたない者に由来しているのである。Exileの語源はラテン語のexsiliumであって、外に-住む-状態(異国に住むこと)を表す。ある場所の支配権の根拠となる力は、その場所の内側にはないのである。
 地球に残された数少ない肥沃な大地をめぐる闘争は、エグザイルの占有をめぐる闘争でもあった。グラキエス鎖国状態を貫けたのもエグザイルを隠し持っていたからだし、アデス連邦の「生存圏」確保のための侵略戦争は、トゥラン王国のエグザイルを奪取して以来、先鋭化する。大地のノモス、すなわち勢力の均衡、すなわち世界の秩序は、大量の「帰還民」がエグザイルをともなって大地にあらわれたことによって一変する。つまり大地に対する空の優勢が確立されたのである。
 では「空」とはいったいどのような場所なのであろうか?それは果てしなく無限に広がる空間であり、分割したり取得したりすることはできない。したがって土地の取得によってつくられる秩序からは根源的に自由な場所である、ととりあえず定義することができる。そこは、空賊の世界である。かれらは根源的に「法の外」に置かれている(なぜなら法=ノモスは取得にその源泉をもつから)。だからこそかれらは自由なのである。
 しかし、空における自由は両義性をもつのである。空はエグザイルが鎮座している空間でもある。大地のノモスのような配分的正義(各人にかれのものを)をもたない空のノモスは、敵対性を無限にエスカレートさせ、殲滅戦争へと至らせる危険性をも有している。「真の平和」を願うルスキニアの侵略戦争は、大地のノモスに固執する者すなわち平和の敵に対する大量殺戮という帰結となってあらわれたのである。大地の支配権は今や空にあり、空の秩序によって大地が規定される。その秩序とは、秩序破壊的な秩序であり、世界の破局は避けられないかのようである。
 このような破局に対してあらがうファム・ファンファンの願い(グラン・レースを復活させること)は、ルスキニアの絶望と比較して、あまりにも陳腐な思考にみえる。その願いは、今おきている戦争を止めることにも、戦争を永遠に廃棄することにも、何ら具体的には寄与しない。それは空賊的な願いであり、いかなるノモスにも由来せず、したがっていかなる力、いかなる権力ももたない。だが、その願いは絶対的な平和にたいする志向性を示してもいる。その志向性は、いかなるノモスにも由来しないがゆえに、境界線をやぶり、法の外にある法超越的な尺度へと至る。「銀翼のファム」の最終回がまったきハッピーエンドであるといえる根拠はないが、にも関らずあの結末は新たなノモスの到来を予感させるのである。
 

エトス・ノモス・福島

 福島第一原子力発電所(フクイチ)の事故から早2年が経とうとしている。「国民」は次々と新しいニュースに沸く。やれ中国から有毒ガスが飛んでくる、朝鮮の核実験によって放射能が飛んでくると他国への排外感情を満たし、核実験などと比べ物にならない多大な放射能がつい最近この国において撒き散らされたことなど忘却したようである。いまだその場所においては被曝労働を伴う収束作業は続いており、避難と補償についても解決に向かう道筋はついていないにもかかわらず。
*** 
 フクイチの事故を問題にするうえで、福島/フクシマという「場所」への問いは避けて通れない。

原発事故による被害は複合的な被害であり、その中には福島という「場所」の被害も含まれているのだ。なぜ福島という「場所」が被害にあったのか。それはけして偶然ではない*1。開沼博を読むまでも無く、それは中央と地方におけるさまざまな構造的な権力関係によっていたのだ。その意味で、被害は3.11以後にはじめて発生したのではなく、3.11以前からあらかじめ予定されていたのである。もし、命さえあれば「場所」はどうでもいいというのであれば、なぜ東京に原発が無かったのか。大阪に原発がなかったのか。わたしたちは最初から被曝してよい「場所」とそうでない「場所」を区別していた。*1

この文章を書いたのは1年以上前だが、こうした問題提起はその後の「反原発」運動において、大局的にはスルーされ続けているように思える。
 「エートス福島」(http://ethos-fukushima.blogspot.jp/)というプロジェクトは、政治的背景や実践においてきわめて胡散臭いものではあるが、「場所」の問題を等閑視する反原発運動に対して突きつけられた挑戦であるといえよう。

エートスって何? あえて言葉で説明してみると、、、
住民が自主性を持って、生活と環境の回復過程に関わって行く活動。

エートスって何?  もうちょっと説明してみると、、
地域住民の生活スタイル、食生活、農林水産業での手法、工業生産、社会的または法的制約、援助、補償体制等々を考慮し、住民のそれぞれの視点を共有しながら問題に対処するのが特徴。

エートスって何? 熟語で言ってみる、
地域に密着した、現実的な放射線防護文化の構築。

エートス活動を行う事で、どんな良い事があるの?
住民自身が自らのおかれた状況を理解し、計測し、自分なりの解釈をする事ができるようになれば、個人・集団で、放射能汚染への対応をどう改善して行くのかを自分たちで見つけ出し「現実的な放射能との共生」が可能になる。*2

このような「エートス」の精神に対しては多くの具体的な反論があり、その多くは正当なものだと思う。しかし、このプロジェクトの本質とは、福島/フクシマという「汚染地域」で住むことにある。このことについて本質的な批判が加えられているだろうか。少なくとも自分の乏しい見聞においては知らない。
 「エートス福島」の「エートス」とは、上記サイトによれば、”「エトス(信頼)とパトス(感情)ロゴス(論理)」アリストテレスの説得のための3つの要件のうちの一つ”であるという。おそらくこれは『弁論術』からの引用だろうが、そもそもはベラルーシで行われたプロジェクトの福島バージョンである。この紹介により、「エートス福島」は、事故以来おおいにその価値が問われることになった「科学コミュニケーション」の問題として取り上げられることとなった。
 そもそものベラルーシエートスがどのような意図によって名付けられたかはわからない。だが、このプロジェクトの概要からすると、「エートス」ということばはより公法的観点によって捉えられるべきだと思う。そもそも古代ギリシャにおいてエトス(ethos)ということばは「慣習」という意味があり、ノモス(nomos、法)と関連することばであった。たとえばプラトンは成文化された法に対して「書かれざる父祖のエセー(慣習、ethe:エトスの複数形)」があると述べている*3アリストテレスも『政治学』においてエセーとノモイ(nomoi、ノモスの複数形)の関係について述べている。彼によれば、成文法と調和したノモイよりも、エセーに調和したノモイのほうがより効力があるのである。
 ノモスという言葉はネメイン(nemein、分配する・放牧する)という動詞から来ており、場所の概念と関係している。このノモスの場所概念に注目して『大地のノモス』という分厚い本を書いた公法学者もいたほどである。われわれがある「場所」に住むということは、ノモス(法)やエトス(慣習)に基づいて暮らすということである。逆に古くからの”書かれざる” ノモスやエトスによって、われわれはそこに住み続ける、ということもあるかもしれない。そのようなノモスやエトスを破ることが、人によっては「命を守」るために移住するという正義を果たすことと、二律背反的状況に置かれるとしたら?
***
 プラトンの『クリトン』は、この正義(ディケー)とノモスとの緊張関係を描写している。新しい哲学を若者に説いたために都市の有力者に恨まれ、死刑の罪をでっちあげられたソクラテスに対して、友人のクリトンは亡命を促す。友人として君を見殺しにするのは忍びない、と。それに対してソクラテスは、「正しいことだけをすればよい」という。ソクラテスはでっちあげの罪で死刑になったのだから、不正を受けている。しかし、不正をなされたからといって自分も不正なことをしてはいけない。ソクラテスによれば、「ポリスのノモス」を破るのは不正なのである。

国法はこう言うだろう(・・・)まあ、いずれにしても、いまこの世からおまえが去ってゆくとすれば、おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害でなくて世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしおまえが、自分で私たちに対して行った同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国と私たち国法に対して害を加えるという、そういう醜い仕方で、不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、生きている限りのおまえに対しては、私たちの怒りが続くだろうし、あの世へ行っても、私たちの兄弟たる、あの世の法が、おまえは自分の勝手で、私たちを無にしようと企てたと知っているから、好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。*4

このくだりはしばしば「悪法も法」ということを説明するさいに引用されることがあるが、ソクラテスはそんな単純な話はしていない。ソクラテスは世間の人間から不正を加えられたのであって、「国法(ポリスのノモス)」から不正を加えられたのではない。たとえばフランスのノモスがフランス革命由来の「自由・平等・博愛」であるとする。他方でフランス人は(日本人と同様)悪い法律をつくることもあるし悪い判決を下すこともある。しかしそのことによって「自由・平等・博愛」というノモスそのものが不正をなしたとはいえないのである。古代ギリシアにおいて、ノモスの起源は神々に置かれる。また、ピンダロスは「ノモスは人間と神々の王である」と述べた。自分が不正を受けたからといって逃亡し、そのノモスを踏みにじるのは、大きな不正となるのである。
 このくだりについて、全体主義の論理に引きずられかねないとして批判するのは簡単だ。しかし今考えなければいけないのは、たとえ汚染地であろうと、ノモスあるいはエトスに従ってそこに住み続けるということは不正ではない可能性があり、そのような選択をした人たちに避難を要求することが不正である可能性がある、ということである。
 しかし、このような議論に不満を持つ読者もいるかもしれない。たとえば、ある場所に住み続けるというノモス・エトスが正統なものであるという根拠はない。それは地方の醜い同調圧力に根ざした単なる因習に過ぎないのではないか?と反論する方もいるだろう。確かに、エートス福島がつくりあげようとしている具体的な「エートス」は、個々において既に多くの批判が寄せられているように、胡散臭いものであることは確かである。だが、たとえ汚染された場所であってもある場所に住み続けるというノモス・エトスそのものが不正であるとは誰にもいえないだろう。それを不正であると言ってしまうことは、三里塚のたたかいをはじめとする国家あるいはグローバル市場の暴力にたいして世界中で行われている闘争を否定することになるだろう。そしてこの「場所」に関わるノモス・エトスの正統性がある限り、エートス福島は自らの正当性の場を確保し続けるだろう。
***
 では、われわれはいかにしてエートス福島に反対しうるのか。「場所」に関わるノモス・エトスの正統性を認めたまま、エートス福島の「エートス」を批判するためにはどうしたらいいのだろうか。ひとつの可能性があるとすれば、ノモスの根拠となる福島/フクシマの「場所」が、3.11以前と以後で大きく揺らいだことに着目することだろう。原発事故/放射能被害によって、福島/フクシマは汚染され、それまでのノモス・エトスを適用することが困難になった。このような例外状態において、エートス福島は例外状態のノモス・エトスを作り出し、適用しようとしているのである。つまり、例外状態の常態化が行われている。
 しかし、福島エートスが覆い隠そうとしてもできない毀損したノモスがあるのである。少なくともフクイチ30km圏内においてはそれは2年弱ずっと現前しており、それを否定したい人々を悩ませてきた。ここで『クリトン』の議論を逆照射することができる。福島/フクシマのノモスの毀損は、ノモス内在的に生じたものではない。ノモスを毀損したのは人間であり、それは原子力発電所事故という人間の不正によってもたらされたものなのである。
 人間の責任、というものをノモスと区別することによって、この毀損したノモスについていまいちど考えることができる。ノモスが毀損したからといってそのノモスを一部の「反原発」運動のようにそれをガラクタとして廃棄することは、さらに不正を重ねることになる。また、福島エートスのように新たなノモスを注入することによって無理やり継ぎ接ぎすることもできないのである。
 人間とノモス・エトスとの関係を再構築することによって、福島エートスの欺瞞をつくことが出来るようになるだろう。そして、福島/フクシマのノモスは単独で成立しているわけではない。東京のノモスがあり、大阪のノモスがあり、日本のノモスがある。それぞれのノモスがそれぞれと密接に関わっている。人間の責任を諸ノモスの関係と結びつけて考えるとき、「場所」(の違い)の概念は無視できない。「運動」は今からでもじっくり考えるべきだろう。
 

*1:「弔いと生政治」http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20111116/p1

*2:https://docs.google.com/document/d/15SldUQh3M9g1Lv5B8NB-XzWTFQFwZSBlIFsRu_xojwI/edit?hl=ja

*3:『法律』7巻

*4:「クリトン」『プラトン?』田中美知太郎編より

和奏はいかにして母の曲を完成しえたか、あるいは「主体」――アニメ「TARI TARI」における"過去の克服"について

 少し前に「けいおん!内面論争」というものがあった。契機になったのは「けいおん!」には内面がないのではないか、という主張があるブログにてなされたことである。「けいおん!」には「死にゆく私」や「成熟という困難」という、近代的な主体を形成するためには不可欠な要素がない。かのじょたちは死や不安に襲われることもなく、全員いっしょの大学に進学するので「日常の終わり」もない。それはある種の「ユートピア」にすぎず、そこに住む登場人物に内面を認めることはできない。
 
 アニメ「TARI TARI」のヒロイン、和奏は、上の議論に従えば、まさに「死」というものに強く刻印づけられていたヒロインだったといえるだろう。彼女は、ある後悔を伴うかたちで母、まひるを亡くす。彼女にとって、母の記憶は重荷でしかなかった。であるがゆえに、和奏は母の幻影から逃げようと試みる。母を想起させうる音楽をやめ、遺品もなるべく遠ざけようとするのである。
しかし、和奏がまひるを忘れようとすればするほど、まひるは和奏の前にあらわれる。過去の幻影は実像をともない何度も生起し、繰り返し訪れてくる。幻影は忘却を許さず、和奏を拘束して未来へと視線を向けさせない。
 さて、「TARI TARI」における和奏の物語は、和奏がこのような過去の幻影と向き合うことで、母の死を克服する物語ではない。和奏は合唱部の活動に参加することによって、母の記憶をふたたび収集する作業をはじめる。それらの記憶は、断片的で散逸しており、けしてひとつの物語として再構築・回復しえない痕跡の集まりである。和奏は父から、母が残した未完成の楽譜をわたされ、それを完成させることを決意する。だが、未完成の楽譜はまひるの痕跡であり、楽譜のそこかしこに開いた穴は過去への想起ではもはや回復しえない。和奏の曲作りはすすまない。一方、合唱部の活動は続いていく。そして、まだ完成していない和奏の曲が来たる学園祭において歌われることが決定されるのである。
 いまや、和奏の曲づくりは亡き母の痕跡を掘り起こす作業ではなく、合唱部という活動における具体的な目的となる。和奏はまひるを想起することなしに、状況において作曲することを迫られる。しかし、彼女はこの状況についてむしろ肯定的であった。じっさい、“学園祭での思い出作り”という具体的な目標が設定されることによって、和奏の曲づくりは進んでいくのである。
 和奏の曲づくりが進むようになったひとつの契機は、教頭が和奏に語った、とあるまひるの記憶の断片である。その中で和奏は、まひるもまた状況において曲を作成していたということを知る。音を楽しむと書いて音楽という、いわばありきたりな音楽論が、ここでは決定的な意味をもつ。未完成の楽曲はまひるあるいは和奏という主体がつくるものではなく、言うなれば状況において生起した音たちが、まひるや和奏をとおして、楽曲となるのである。主体はその過程の中で音が生起する可能性の場となるのである。
 楽曲において音と音とのつながりは、それぞれの文化や伝統において一定の法則性があるにせよ、それ自体として本質的な意味があるわけではない。ある音がある音を本質的に支配するわけではなく、状況の全体性においてあるメロディが引用され、それにしたがって個々の音の偶然的な配置が決まる。同様に、過去を記憶することにおいても同じことがいえる。和奏は後悔を伴うエピソードそのものを克服したのではない。そもそも和奏を拘束していた過去のエピソードとエピソードを結び付けていた因果性そのものが、もはや意味を持たなくなるのだ。過去は現在を支配する鎖ではなく、現在と未来に応じて引用可能となる諸痕跡の場なのである。
 ゆえに、最終回が近づくにつれてまひるの幻影は消失する。和奏はもはや母を想起する必要はない。かわりに引用がある。彼女は現在の合唱部のなかまたちとともに「radiant melody」を歌うが、その曲には「心の旋律」のメロディが引用されている。和奏の父はまひるの遺影を持ち出し、校長はまひるの所属していた過去の合唱部の記念写真を持ち出す。まひるという過去は、まひるの願い、合唱部の記憶とともに、引用可能となった。そのことによって、和奏はまひるの幻影なしに、つまり過去に沈殿することなしに、またエピソードの因果性からはなれて、「まひるとともに」あることが出来たのである。
 
 さて、わたしたちは上の議論をもって、「けいおん!」には内面がない、という主張に反駁することができる。「死にゆく私」を語る「主体」なるものをもって「内面がある」とする古い議論をやめて、「主体」の位置を問い直すこと、「卒業(日常の終わり)」にある特別のエポック的意義を見出す歴史主義をやめて、出来事の連関についていまいちど問い直すことが必要なのである。わたしたちはそのことを、構造主義的批評だとかポスト構造主義的批評とよぶのではなかったか。

「一般意志」とは何か

 紙屋研究所の紙屋氏が東浩紀の「一般意志2.0」をdisっているのだけれど、何か本質を外している気がします。

■架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376

特に違和感をもったのが、「差異の総和」について書いている部分。

――「差異の和」のくだりですね。

 そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。

これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47)

 この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。
 この箇所の解釈は明快でして、個々人のさまざまな利害や思惑という「違い」の部分をぜんぶ足し合わせて、プラス・マイナスで相殺してしまうと、共通の利益部分だけが残る、という意味です。
 特殊意志、つまり個々人の利害や思惑を単純に積み重ねるだけでは、個々人の利害の集積にしかならないけども、過不足分を相殺するという算術操作をすると、それが「共通の利益」というものを残すことになるんだという意味ですよね。これは先ほどの「一般意志の内実=人々の共通利益」という解釈と整合的です。非常にわかりやすい。
 ところが東さんはこの部分を「差異の和が残るが、これが一般意志である」と訳しているために、あたかも共通部分ではなく差異部分が残っているかのような印象になってしまっています。

ぼくはフランス語ができないので英語版を参照したところ、「差異の総和」は「sum of diffrences」になっていました。うーん。これはやっぱり「差異の和」つまり共通部分が残っているのではなくて差異が残ってるんだと思いますよ。
 だれそれの個人的事情にすぎない特殊な意志を取り除いても、残るのは「差異の和」であり、それを一般意志とルソーは呼びます。ルソーは一般意志を共通善(common good)とも言っていますね。共通善が「差異の和」であるとすれば、共通善って結局何なん?となってしまうと思います。ですが、そこで共同体の成員すべてにおける具体的「共通の利益」なるものがあるのだ、と考えるのは短絡的です。ルソーが言っているのは果たして、たとえば「この森を村の共有地にすれば村人みんなの利益になる」とかそういうことなのでしょうか?
 
 ルソーはリスボン地震においてヴォルテールライプニッツの最善説(まあ「起きてることは全て正しい(byカツマ)」みたいなやつ)に激怒したとき、ヴォルテールに対して「まあまあまあまあまあ」と宥めるような手紙を送っています。曰く、「起きていることはすべて善」なのではなく、「起きていることはすべて”全体にとって”善」なのであると考えればいいんじゃない?と。つまり特殊的に起こる不幸は否定しえないが、「一般的な不幸」については否定しうるというのです。もちろんヴォルテールがそんなことで納得するはずはないのであって、怒りの矛先が今度はルソーに向くという何かネット上でよくある論争めいた話になっていくのですが、それはまたべつのお話です。
 ともあれ、そもそもなぜ世界が善か悪かが問題になるのでしょうか。キリスト教徒にとって世界は全知全能の神が創造したものですが、全知全能であるはずなのに、なぜか世界には明らかな悪や不幸が存在している。この問題は長年かれらを悩ませ続けてきました。潜勢力という考え方もそこから生まれたものです。そもそも世界においてある現象が起きるのは、神が直接働きかけたものなのか。いやそうではない。優れた王様とは優れた制度や法をつくる王様のことであり、下々の一挙手一投足にいちいち口を出す王様のことではない。同様に、神は世界を創造しそこに君臨する。だが統治しない。かわりに摂理がある。世界で起こる様々な現象は、神の摂理によって起きるのです。
 しかし、摂理には、この世界に現前しているもの以外にもさまざまな摂理がありえたはずです。なぜこの摂理なのか?それは、あらゆる摂理の中で最善のものだからに違いない。なぜなら神は善であり、その神がこの摂理を選択したのだから。ゆえに、摂理がもたらす予定調和によって個々にみれば不幸としか言いようのない現象がおきたとしても、他の摂理によって支配された可能世界と比べたとき、この世界が最善なのだ。これが、最善説の考え方です。
 ところで、神の摂理のことを神の一般意志とよぶことがあります。ちなみに神の特殊意志もあって、それは奇跡と呼ばれます。
 
 ぼくが思うに(思うに、というかこのようなルソー解釈は既に存在するのですが)、ルソーの一般意志についての議論は、既に存在した神学的議論の蓄積を前提にしています。この立場からみて、「一般意志は差異の和である」ということはどのように解釈しうるのか。たぶん、こうです。神の摂理は、個々には様々に異なった諸現象としてあらわれる。では、そうした諸現象から何らかの目的とか意図が導きうるでしょうか?当然そんなことは不可能です。重要なのは、そうした諸現象によって、神の摂理が現前しているということです。同様に、一般意志が「はい!差異の和!ドン!」と出てきたことによって、それ自体から何らかの目的や意図(なすべきこと)が導けないのは当然なのです。重要なのは、一般意志が現前するということだからです。ここで転倒が発生します。つまり、一般意志そのものから何らかの意見が導かれることはないので、一般意志を手段として統治を行うことは出来ません。しかし、一般意志は定義により善です。よって、統治の目的が、一般意志を現前することになるのです。
 ルソーは、「表出(再-現前)された人格が現前したとき、もはや代表者は存在しない(in the presence of the person represented, representatives no longer exist)」と述べています。上の解釈に従えば、この意味がはっきりと理解できます。つまり、いまや一般意志として現前している人格は、さきほどの転倒によって、ヒエラルキーの最上位にあります。たとえばキリスト教会においては神そのものを何かによって「代表」させることが禁じられているように、ヒエラルキーの最上位にあるものを代表することは不可能なのです。
 一方、ルソーによれば一般意志は市民(国民)を「代表(represented)」したものです。しかし一般意志は共通善なのであって、これは代議制のようにそれぞれの集団ごとに代表者を選ぶあり方とは異なっています。このような代表のあり方を、カール・シュミットは「上から(auf oben)の代表」とよびました。この「代表」性を権威付けているのは、選挙やそのほかの方法による手続き的正当性ではなく、代表の「形式(フォルム)そのものなのである、とシュミットは言っています*1
 
 さて、「一般意志2.0」がほんとうに恐ろしいのは、まさにここにあるのです。東浩紀は、(おそらく意識的にではないと思いますが)一般意志の議論をある意味でこのうえなく「正しく」理解しています。東浩紀にとっての一般意志=民意は、定義により「善」です。もちろん、わたしたちは実際の「民意」とは、沖縄に基地を押し付け、犯罪者をつるせつるせと叫び、朝鮮学園いじめに喝采し、歴史修正主義者を政治家として当選させるものであることを知っています。しかし、東浩紀にとっての民意とは、一般意志としての民意であり、「国民」を代表しているのです(少なくとも、実際の民意との剥離に気づかないくらいにはマジョリティの匿名性に安住しているとはいえます)。かれにとって現在の日本政治における一番の問題は、政治家がそのような民意を捉えきれなくなったことにつきます。かれが希求する一般意志2.0のシステムとは、かれ自身何度も言っているようにグーグルやニコニコ動画そのもののことではなく、民意=一般意志を現前させるシステムのことであり、そのようなフォルムのことなのです。
 はて、みなさん。常識的に考えて、このようなシステムを「民主主義」とよぶことができるでしょうか。シュミットはできるといいます。彼は、独裁と民主主義は両立すると述べました。「投票の結果を国民意志とよぶか、「拍手と喝采」による独裁を国民意志とよぶか、その手続きは重要ではない。「国民意思は、当然つねに、国民意思である。意思がどのようにして形成されるのか、ということが重要なのである」。わたしたちは、このような考え方によって成立した政治体制を、何と呼ぶかすでに知っています。
 
 一般意志2.0については、ニコニコ動画国会中継したらいいとかそういうどうでもいいところ*2にばかり注目が集まっていますが、もっと根本的なやばさ(酷さ)はぜんぜん議論されていないのであって、あずまんが橋下と結びつくところなどはまさにこの点にあると思うのですが、総スルーってところにこの社会やべえと思います。
 
 

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)

社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

*1:ルソーとシュミットと東浩紀については前もかいたのだけれど全然反響がなかったので再掲載。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091226/p1

*2:まあ「アホか」という点でどうでもいいのですが。そんなことをすればどんな酷いことになるかkmiuraさんがすでに指摘しています。http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080707#p2