言説の土壌

「安倍政権を倒したいならば、左派は経済を語れ」

 これが、ネット上において国政野党に票を集めようとする運動のスローガンになって久しい。もちろん、野党が経済政策を充実させ、活発に支持を訴えることについては、大いにやればよいと思う。しかし2点ほど引っかかることはある。まず1つ目は、野党および左派はすでに経済について語っているということである。その状況についてこうしたスローガンをとなえるのは、左派は経済的に無策であるという右派・与党のプロパガンダへの加担ではないか。これは、すでに参議院選挙の1人区での一本化など野党共闘が進んでいるにも関わらず「野党はバラバラ」だと批判する野党支持者にもいえる。

 2つ目は、そもそも与党も経済を語ってはいないのではないか、ということである。与党は、財界や資産家や投資家を喜ばせるような政策について語っている。しかしそれは経済を語っていることにはならない。2012年の政権交代時に提示したリフレ政策のヴィジョンは、すべて破綻しており、それに代わる経済政策を与党は出してはいない。「リフレ 波及経路」で検索すると分かるが、かかる政策は、予想インフレ率の上昇によってあらゆる好循環が発生するはずであった。しかし、現政権はインフレ率2%を何年たっても達成できず、ついに日銀はその目標を断念するに至った。初動で失敗しているのだから、局地的な数値の改善を政権の経済政策に結びつけようとする御用学者の取り組みには無理があるというしかない。

 つまり、問題は、「与党(自民党)は経済を語り、野党は経済を語らない」ことなのではなく、「与党(自民党)は経済を語るイメージを持たれており、野党は経済を語らないイメージを持たれている」ということであって、政治文化の問題なのである。

 さらに、この「経済」の項には、「安全保障」や「社会福祉」など、様々な項を代入することができるだろう。ここで「社会福祉」が入るというのは感覚に反するかもしれない。しかし、選挙において有権者に関心があるテーマを調査すると、つねに「社会福祉」が1番にあがるにも関わらず、いざ選挙となると、公助を削って自助努力を奨励するという政治的イデオロギーのもとで、年金制度を徐々に改悪し、足りない分は投資で補えとする与党(自民党)が勝利するのである。

 したがって、問題は「与党は重要なことを語り、野党は重要なことを語らない」という政治的イメージだということがわかる。これは、野党がどれほど重要なことを語っており、与党がそれを無視しているのか(年金に関する金融庁報告書への態度ひとつとっても理解できる)、ということを十分知っているはずの野党支持者でさえ、多くの人が有している政治的イメージである。これは、事実の問題ではなく文化の問題である。このような政治的イメージを生む政治文化を変えなければいけないのである。

 

 今年(2019年)の1月に出たフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(長谷川晴生訳、新泉社)は、近年ドイツで急激な成長を続けている極右政党AfD(ドイツのための選択肢)および、新右翼と呼ばれる社会運動について、解説がなされた本である。

ドイツの新右翼

ドイツの新右翼

 

 ヴァイスによれば、ドイツの新右翼は、その思想的ルーツはアルミン・モーラーによって定義付けられたヴァイマル共和国時代の「保守革命運動」にあり、運動論的ルーツは1968年革命の経験にある。そして、この運動が結果として成功をおさめたのは、移民の増加や福祉国家の行き詰まりといった最近の情勢によるだけではなく、グラムシの理論を簒奪した「陣地戦」の一環としての「メタ政治」戦略のせいだという。彼らは社会の上層部にいるような保守主義者とも巧みに連携しながら、草の根運動として自分たちの言説が通用する土壌を少しずつつくりあげていったのである。

 「メタ政治」とは、直接的な現実の政治というよりは、エンターテイメントなどを駆使して、より基層的な、いわば文化(政治文化)の領域をまず自分たちの色に染めていこうとする運動である。政治的な言説を発する前にまずその土壌を開拓する戦略は、結果論としては正解だったというしかない。

 では左派はこのような政治文化の開拓は不可能なのだろうか。現在、ドイツではAfD以上に、緑の党の躍進が著しい。それは、部分的にはCDUやSPDといった二大政党をしのぐ勢いである。その理由は、ひとつには、経済や社会の問題を幅広く「語る」ことで、SPDを中心とする既存左派の行き詰まりを敬遠する人や、極右勢力の台頭などに危機感を持つ人々の受け皿となっていることがある。しかしそれだけではなく、看板商品である環境問題が、ドイツ社会において政治上の最重要問題となりうるような言説形成に成功したこともあるだろう。2018年、スウェーデンに端を発する地球温暖化防止を訴える高校生デモ「将来のための金曜日」は欧州に広がり、ドイツでも多数の参加者を集めている*1

 環境問題をテーマに高校生が数万人のデモを行うなどということは日本では考えられないことであり(インスパイアされた行動自体はあるようだが)、むしろ「現実主義者」を名乗る一群によって、鼻白まれたり攻撃を受けたりしてしまうだろう(これ自体が日本の悪しき政治文化のひとつであるのだが)。逆にいえば、ドイツでは環境問題を訴える人々が言説上の陣地戦に勝利したのである。さらに興味深いことなのは、緑の党もまた1968年運動の落とし子だということだが。

 

 『ドイツの新右翼』を読むと、政治的な言説を戦わせることは必要だが、その前に、政治的な言説を戦わせるべきアリーナはいかなる場所なのかを常に考え続けなければいけないことがわかる。改憲は防がなければいけない。少子高齢化社会についても、自助努力を煽るしかない無能な現政権を一刻も早く退陣させなければ本当に取り返しがつかなくなる。したがって左派が早急に支持されなければ意味がない、という気持ちは理解できる。しかし、それを急ぐあまり、左派の言説に説得力を持たせる空間自体を売り渡すような言説に飛びついてしまっては意味がない。ことに、経済の問題を重視するあまり、差別や人権の問題を後景化させてしまうような一部の運動は、長期的にみれば悪手を行っていると判断するしかない。

 左派への支持を訴えるために何かを語るとき、アクチュアルではありつつも、俗情とは結託せず、現在の政治文化の土壌には乗らない(むしろそれを書き換えていく)言説になるよう、つねに工夫していく思考が必要なのである。

*1:個人的は、こうした運動がラディカルな可能性を開きうるかについては慎重に判断したいが、少なくとも環境問題についての言説が社会に浸透している例としてあげられる。

『主戦場』を見た後に

 日本軍「慰安婦」問題を描いたドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督)が評判となっている。上映している場所が少ない(関東では2館。私が見てきた5月上旬の段階では1館)こともあるが、常に満席。事前予約は必須で、平日の午前中ならばなんとかなるだろうと当日訪れた私は、後日に出直しを迫られた。

 映画は、「慰安婦」に対する「支援派」と「否定派」、のインタビュー映像が交互に繰り返されることによって進んでいく。しかし、「否定派」の議論の稚拙さがすぐに明らかになる。誘導によってではない。かれらはカメラに向かってほとんど無防備に、普段から自分たちが主張していることを、主張している通りに喋る。だがその主張は、その後の「支援派」の主張やナレーションによって直ちに否定される。主張のそれ以外は、議論の余地なく嫌悪感をもよおすような、差別、明白なウソ、陰謀論である。

 この映画は双方の議論について、いわゆる「両論併記」をしていない。製作者の立場は明白である。それを理由に、この映画を批判する人も多い。だが、これまで「慰安婦」問題に多少関心を示したことがある者にとっては明らかなのであるが、「否定派」の議論はすべて議論に耐えうるものではないので、誠実に映画を撮ろうとすると「両論併記」になりえないのは仕方がない。「慰安婦」問題を全く知らないものにとっても、かれらのインタビューが、いかに聞くに堪えないウソやごまかしによって構成されているかが理解できるつくりになっている。

 したがって、出演した「否定派」の人物たちがこの映画の上映停止を求めるほど怒り狂っているのも理解できる。また、その逆の立場にとっては、「否定派」の議論をわかりやすく「論破」した映画として痛快で、また初心者向けの啓蒙映画としてもすぐれているという評価が多いのもわからないことはない。

 

 しかし「支援派」の中には、この映画について手放しで評価できないという立場もある。2019年5月24日付の「週刊金曜日」において、『主戦場』のレビューを行っている能川元一氏もその一人である。

 能川氏は、この映画が「強制連行の有無」や「被害者の証言の信ぴょう性」などといった、「否定派」が設定した議論の土壌を受け入れてしまっていることに注意を促す。それらは確かに「論破」されるのだが、元「慰安婦」の体験や人生に対する視線を後景化させてしまうという代償を払っており、またそうしたディベート的な作法こそ、歴史修正主義者が歴史認識問題に持ち込んだものなのだ。

 

筆者はむしろ苦い思いでそうした場面を見ていた。映画に登場する否定派の主張に対する批判はこれまでも繰り返し提示されてきたものであるにもかかわらず、否定派は同じことを主張し続けているからだ。『主戦場』において否定派が「論破」されているように見えるのは、映画という場をデザキ監督がコントロールできるからだ、ということを忘れるべきではない。*1

 

 能川氏は、『主戦場』のラストが、「慰安婦」問題そのものではなく、「米国の戦争への加担」への警告で締められていることに違和感を覚えている。なぜなら「映画館の中とは違って、現実の言論空間ではむしろ否定派のほうが主導権を握っている」からだ。映画館の中では「慰安婦」問題は勝負ありに見えるかもしれないが、現実ではそうではないのだ。

 能川氏はここ10年以上、特にネット上において「否定派」と真正面から対峙してきた人物であり、そこでの彼自身の体験も踏まえて『主戦場』が、「否定派」が「論破」されてスッキリする映画として消費されていることに危機感を覚えているのだろう。私もその通りだと思う。われわれが考えなければならないのは、「否定派」の主張をそのまま垂れ流すとメチャクチャなのは明らかであるにも関わらず(それは当然である)、なぜそのメチャクチャな議論が日本においては政治の場でも、メディアの場でも、前提になるか、少なくも考慮に値する議論として扱われるのか、ということだ。

 『主戦場』に出てくる「否定派」の言っていることは確かにひどい。しかし、それでも「否定論」が日本社会でのみ一定の水準で受け入れられているのは、「否定派」と「日本社会」が一定の共犯関係にあるからだろう。そして、その問題はけして今に始まったことではない。

 

 だが彼らは、ただ「無知」なのだろうか? ただ間違っているのだろうか? あるいは、彼らと彼らの支持者との関係は、「騙す者」と「騙される者」の関係なんだろうか? 「事実」に対してどれだけ証拠をつきつけても、彼らは「もぐら叩き」のように新たな「事実」をでっち上げ続けるだろう。これは南京大虐殺についても、朝鮮半島からの強制連行についても、沖縄の「集団自決」についても、同じように繰り返されてきたことだ。彼らは、能動的に「無知」であることを選んでいる。証拠が出てくるたびに、「無知」であり続けようと積極的に粘り強い努力をしている。数十人の政治家や知識人によって署名された今回の意見広告(引用者註:2007年に日本の歴史修正主義者が『ワシントンポスト』に出した意見広告「THE FACTS」のこと。「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める下院決議案を阻止するために出されたが、むしろ可決を推進する結果に終わった)に致命的な論理矛盾があることも、ただ彼らが愚かであるということで片付けるべきではない。愚かであるとしても、それは選択されたものである。彼らは、「無知」で不合理で国辱的である。しかしそれが、彼らなりの知性で合理性で愛国なのだとしたら?*2

 

 これは、「嘘」や「無知」と社会システム(国家システム)の共犯関係の構造について、優れた論考を示した常野雄次郎氏の記事「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」の一節である。歴史修正主義者の言説に騙されるのは、無知な者ではなく、無知であることを望む者、(歴史修正主義に)騙されることを望む者である。

 『主戦場』では、歴史修正主義の「足止め効果」*3については、それに近い言及があった。だが、なぜあのような知性の欠片もない言説が日本では流通してしまっているのか、という点についての思考は十分ではない。単に知識をつければよいという「欠如モデル」的な考え方をしているようにも思える。

 しかし、「無知」のままでいることやあえて騙されること自体にメリットがある。当然動機が存在する。周辺諸国への蔑視感情(レイシズム)、セクシズム、日本スゴイナショナリズム、現在の権力者がとっている立場に対して明確に敵対することを嫌う権威主義、「国家は謝罪してはならぬ(藤岡信勝)」といった凡庸な「リアリズム」への信仰、等。かつて日本が戦争犯罪をしたことを認めてしまうと、上記のような世界観は傷つかざるをえないのである。

 動機が何であるにせよ、積極的に人々が騙されたがっている限り、「慰安婦」に対する「否定論者」は何度論破されても、自身の根拠を説得力があるものにアップデートする必要はない。すでに論破された話を繰り返しするだけで、それに騙されたがっている聴衆は、あたかも「否定論」が正しいものであるかのように振舞ってくれるからだ。

 Netflixのコメディ・ドラマ『アンブレイカブル・キミー・シュミット』の第一シーズンのクライマックスは、主人公であるキミーと、彼女たちを長年監禁していた新興宗教の教祖の、裁判所での対決である*4。犯罪の証拠は、どう考えてもすでに明らかである。しかし教祖は、本質とは関係ない証言の重箱の隅をつき、証言者の戸惑いを攻撃する。そして自分自身は余裕な態度をとり、本質とは関係ないジョークで、あたかも決定的な反証を行ったかのように振舞う。次第に傍聴人やキミーの弁護士さえ、相手の勝利を認めざるをえないと思わされる。

 もちろんこの作品はコメディなので、このシーンはシリアスなものというよりは、陪審員裁判についての風刺的な笑いが意図されている。しかし、「慰安婦」問題については、国会で、メディアで、ネットで、様々な場所で行われている議論をみていると、この裁判のシーンにおけるキミーのような気分になってしまう。

 なぜかれらは国際法における性的奴隷の定義をいつまでも無視するのか?奴隷の定義において「慰安婦」がピクニックに行ったということがなぜ重要だということになるのか?戦時性暴力に反対する象徴として建立された少女像を「反日」であるとして攻撃し続けるのか?それは、国会議員やテレビのコメンテーター、タレントがバカだからではない。かれらは意図的に騙しているし、騙されたがっている。いわば現実で壮大なコメディを繰り広げているのである。

 私は『主戦場』を「きっかけ」にして「慰安婦」問題に入ること自体を否定はしない。この映画を見て日本軍「慰安婦」問題を外交問題ではなく性暴力問題として理解したり、初めて「否定派」のおかしさに気づいた者も実際に存在するようだ。

 しかしまた、能川氏が警鐘を鳴らしているように、視聴者の認識が『主戦場』の地平にとどまり続けることもよくないだろう。日本軍「慰安婦」問題をめぐる日本の状況を変えるのは、知識を広めるだけではなく、レイシズムやセクシズムに手を付けなければいけない。『主戦場』からさらに日本社会の構造的問題に視線を向けてもらわなければ、せっかくの「ヒット」も意味がないだろう。

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

 

 

*1:能川元一「「論破」される否定派の姿を面白がるだけでいいのか」『週刊金曜日』2019.5.24, p50

*2:「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828

*3:すでに論破されたものであれ何であれ事実に対する疑問を矢継ぎ早に繰り出すことで、その事実について詳しくない人を宙吊りの状態に置くこと。歴史修正主義者にとって、人に対してある虐殺をなかったと信じさせる必要はなく、あったかわかったかわからない、という状態に持っていければとりあえず成功なのである。

*4:アンブレイカブル・キミー・シュミット』12話「キミー、裁判所に出頭」13話「キミー、最後まで諦めない!」https://www.netflix.com/jp/title/80025384

「反ヴィーガニズム」問題について

 5月に入ってから、twitter上ではヴィーガンを攻撃するようなツイートが、目立って増えてきている。なぜ突然そのような現象が起きたのか。一説では、まとめサイトアフィリエイトサイト)における仕掛けがあるという。

 

 

 真偽のほどはさだかではないが、たとえきっかけがまとめサイトのアクセス数稼ぎにあったとしても、けして彼らを「アフィブログに釣られた情弱」とバカにしてはいけない。むしろ日本twitterにはヴィーガンに対して進んで攻撃的な態度をとるようなユーザーが潜在的にそもそも多かったことが、こうした大きな動きにつながった理由だろう。

 私はヴィーガンではないし、菜食主義やヴィーガニズムについて特に専門的に勉強したこともない。しかし、ヴィーガンについてここまで偏ったイメージが流布され、攻撃されてしまう点については、「ネットの闇」を感じるほかはない。

 

 日本のネット文化においてヴィーガンが嫌悪される理由を考えるなら、まず「享楽の盗み」*1が第一候補にあげられるだろう。それを念頭に以下のツイートをしたところ、多くのリプライをいただいた。

 その多くははっきり言えばクソリプなのだが、そのクソリプを我慢してよく読んでみると、その傾向の中に、ヴィーガン蔑視の背後にある「享楽の盗み」の存在が、ますますにじみ出ているようにも思える。

 リプライの中で一番多い内容は、ヴィーガンこそが肉食者の生活スタイルを脅かしている、というものである。その証拠として、実際に起きたヴィーガンの直接行動をあげる人もいる。

 次に多いのは、ヴィーガンの肉を食べないというライフスタイルも享楽なのではないか、というものである。それに付随して、ヴィーガンのようなライフスタイルは先進国のセレブリティしか可能ではないという、事実に反する思い込みをしている者も多い(私の菜食主義者ヴィーガンの知人友人は、ほぼほぼ金のない人間ばかりである)。また、この主張のポイントは、肉を食べないというライフスタイルで享楽を得られるならその人もやればいいという話になるのだが、そうではなく、ヴィーガンの享楽は「彼らの」享楽であって肉食者の享楽ではないのだと、暗に述べているということである。

 直接行動の問題は後で述べるとして、ヴィーガンとは我々の知らない享楽を得ており、そのために我々のライフスタイル(肉食)を侵食してくる存在なのだ、という認識は*2レイシズムやセクシズムを支える思考と同一のものである。たとえば、排外主義者にとって移民は、マジョリティの文化とは異なる得体のしれない文化によって享楽を得ており、それをひっそりとではなく堂々と楽しんでいることによって、マジョリティの文化を破壊する存在なのである。

 ヴィーガンは、ベジタリアンの中でもさらに徹底した肉食を禁じる立場のことを指す。ベジタリアンは肉食を制限する人のことであり、魚類や鶏肉は食べるという人もいる。サベジタリアンヴィーガンになる理由については様々で、健康や宗教やその他ライフスタイルによって選択する人もいれば、動物の権利や農業畜産業の南北格差の観点(たとえば、先進国の食肉を生産するための牧畜により途上国の森林が伐採されている、生産された穀物が飼料になる一方で飢餓が放置されている、などの観点)からそれらを選択する人もいる。

 個人的なライフスタイルの問題よりも政治的な問題を重視するヴィーガンが、他者に対しても肉食をしないよう勧め、ときにその主張も告発的なものになるのはやむを得ない。もし動物に人間と同等の権利があるならば、その権利を守るためには自分が食べないだけでは済まないのだし、人間社会の格差や差別という構造的な問題を解消しようとするなら、個人のライフスタイル以上のことをやらなければならないからである。

 私は、人間と動物の完全なる平等という意味でのアニマルライツについては、現時点では支持してはいない。だが、人間の動物に対する「非人道的な」行為については、世界的には食肉産業の現場含めて革新的なスピードで規制されつつある。おそらくこの動きは不可逆的だろう。たとえばEUでは経済性を犠牲にしてでも鶏のケージ飼育を規制する動きが拡大しており、遅かれ早かれ日本に対してもこの圧力が強まっていくと思われる(ここでどう対応するかは議論が分かれるところであろうが)。動物に対して人間が行ってよい行為は、けして今なお自明ではないのである。したがって、人間と動物の完全なる平等という主張について、荒唐無稽なものとはしない。

 また、食肉産業にともなう経済格差や差別についても、肉食を維持しながら解消することも論理的に可能だとは思うが、それは私が不勉強なだけなのかもしれず、肉食を廃止しなければそうした構造的問題を解消できないという可能性については排除しない。

 したがって、菜食主義・ヴィーガニズムに賛成するかどうかはともかく、またそのことによって個人的に罪悪感をもつかどうかはともかく、は肉食を続ける以上、われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。問われることすら個人の自由の侵害だとするのは、民主社会に生きる人間として筋がよい態度とはいえない(もちろん、菜食主義者ヴィーガンの主張の中に差別的なものがあるのであれば、その意見については個別的に批判すべきである)。

 ヴィーガン批判者の自意識は、自分たちはただ肉を食べているだけの無垢な庶民である、というものだろう。したがって、かれらの政治的な主張に巻き込まれるいわれはないと。しかし、無垢だろうが何だろうが否応なしに巻き込んでいく、また巻き込まれてしまうのが政治の力である。これまでそうしたことに気づかずに生きていけていたとすれば、それはマジョリティの特権にすぎない。そして「享楽の盗み」の妄想は、外部からの告発から、そうした居心地の良いマジョリティの世界を救うのである。

 

 さて、そうはいっても、ヴィーガンは現に直接的な行動を行っている。それは妄想ではないのではないか、という声もあろう。実際ヴィーガンの一部が(たとえ一部にせよ)、肉屋などを「襲撃」するといった実力行使を行なっていることについては、どう考えればいいのか。

 もちろん、そうした事実は存在していて、ニュースにもなっている。しかしそのことをもって、ヴィーガンが「我々」の生活様式を脅かしている、と主張するなら、やはりかれは妄想的なのである。それは、日本やアメリカのレイシストが、自らのレイシズムを正当化するために、黒人や在日コリアンの「実際の」犯罪を取り上げたニュースを探してきてあげつらうやり方と同じだからだ。

 映画『デトロイト』は、一発のおもちゃの銃声から、白人警官が黒人たちに対して凄惨なリンチを行う。

hokusyu.hatenablog.com

 このとき、銃が本物かおもちゃかは問題にならない。白人警官は銃の存在を過剰に恐れる一方で、銃声が聞こえたことを巧みに利用して黒人に暴力をふるう。銃声は暴力の原因ではなく、暴力の原因は白人警官のレイシズムにある。事件があって差別があるのではなく、差別者が事件を利用する。それ以上でも以下でもない*3

 海の向こうで、アクティビストたちがいくつかのパフォーマンスを行ったからといって、直ちに日本中の肉屋や焼肉店が襲われることはありえない。しかしその妄想に取り憑かれ、ヴィーガンに対してTwitterで愚にもつかない揶揄を行うという「反撃」に手を染めたというのなら、それは極めて恥ずかしいことを言っているということを自覚するべきだ。

 すでに述べたように、政治的な問題意識を有するヴィーガンが、他者に肉食の禁止を勧めるのは当然のことである。その上で、その政治的主張をいかなる手法によって訴えるかはヴィーガニズムの問題ではなく運動論の問題である。日本に比べて直接行動を志向するアクティビストが多く、また理解者も多い国で、ヴィーガニズムの一部がより先鋭的な立場をとるのは、その運動論において理解しなければいけない。

 もちろんその行為に賛成するか反対するかは別の話である。直接行動のパフォーマンスのやり方はもちろん、戦略的な有効性についても吟味されるべきだろう。個人的には、あらゆる政治的直接行動は原則としてなしとはしないが、小さな商店をターゲットにすることはやるべきではないと思っている。

 

 最後に、ヴィーガンの不徹底性を批判する主張について言及しておこう。つまり、ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。個人的には、こうしたことを言ってくる手合いに対しては、相手が不誠実だと指摘するだけで、直接的には答える必要はないと思う。

 「掌の中の小鳥」という寓話がある。ある盲目の賢者をやりこめてやろうと、ある少年が自分の掌の中に小鳥を握って問う。「小鳥は生きているか死んでいるか」と。「生きている」と答えれば、彼は小鳥を握りつぶすつもりである。「死んでいる」と答えれば、彼は小鳥を飛び立たせるつもりである。賢者は答える。「生きているか、死んでいるか、それは君の掌の上にある」他者をダブルバインドの状況において弄って遊ぶものは、そうやって遊んでいる自分自身が主体として際立ってしまったとたん、自分自身の不誠実さに恥じ入るしかなくなる。もっとも、恥の感情があればの話だが。

 恥の感覚の有無は、「柏原発」だけが知っている。

 

否定的なもののもとへの滞留    ちくま学芸文庫
 

 

*1:端的に言えば、資本主義社会においては、自らが享楽するためには、享楽を盗んでいると想定される他者を必要とするということ。詳しくはスラヴォイ・ジジェク酒井隆史田崎英明訳『否定的なもののもとへの滞留』筑摩書房、二〇〇六年、三八五頁以下。

*2:個人のライフスタイルとしては干渉しないといいながら、ヴィーガンが肉を食べて肉食主義者に転向した話とか、豚を積極的に食べるムスリムの話がウケるのは、彼らが禁欲を享楽と認識し、自分たちの快楽的生活を脅かすものとして認識しているからである。「やっと彼らも、楽しむ方法を学び、「私たちの同類になりつつある」、というわけなのである。」前掲書、三九三頁。

*3:差別主義者の恐怖と暴力の関係については、アクチュアルな話題としては「痴漢に対して安全ピンで自衛するのは是か非か」というトピックについても通用するだろう。安全ピンの恐怖におびえた男たちはレイプによって報復すると脅迫し、自らのセクシズムを暴露するのである。

映画『デトロイト』あるいは人種妄想をめぐるグレートゲーム

 映画『デトロイト』を見てきた。

 見る前に知人から胸糞映画だと言われて覚悟していたのだが、実際、胸がスッとするようなカタルシスは最後まで訪れず(史実に沿っているのだから仕方がないが)、見た後も頭痛がしてしばらく落ち込んだままだった。
 この映画は黒人差別を扱ったものだが、その描き方については様々な観点から批判がなされている。たとえば古谷有希子は、この映画は公民権運動の一部としてのデトロイト暴動の背景や意味について触れることなく、ただその暴力性にスポットを当てており、黒人に対してネガティヴなイメージを喚起する差別助長映画であると喝破している*1。また、Shenequa Goldingも、この映画は「ホラー映画」の演出を用いてしまったことで、それぞれの人物の個性が埋没してしまったことを指摘する*2。やはりここでも問題になっているのは、センセーショナルな暴力にスポットが当たっているため、本質的な問題であるところの人種差別の構造について描ききれてないということである。
 こうした批判について、私は異論を述べるつもりはない。私個人は暴動や略奪をそれ自体悪だと考えていないので、この映画から黒人に対するいかなるネガティヴさも読み取ることはできなかったが、おそらく一般世間ではそうではないわけであり、当事者にしてみればセンシティヴな問題になるのだろう。また、特に日本のような人種差別の背景についてほとんどの人間が何の前提知識ももたない国で、いきなりこの映画に触れた場合、あまり建設的ではない読み取り方をされるのではないか、という懸念はある。
 ただし、たとえ現実の運動に対して直接的に寄与するところが少ないとしても、一方で私は、差別問題をホラーの技法で扱ったことによって、人種差別妄想のある種の本質を描くことに成功していると思う(意図的かどうかについては留保する)。私はそのことについては積極的な意義を見出したい。もちろん、差別を一部の特殊な、妄想に取りつかれた病理的な人間のせいにしてはいけない。しかし差別の妄想的性格を解題することは、この世界の人種扇動を押さえ込み、人々の理性を保つための手段として、けして無意味ではあるまい。
 
 クトゥルフ神話で有名なホラー作家ラヴクラフトが、一方でスラヴ系やセム系、アフリカ系に対する人種偏見の持ち主だったことは残された書簡などから分かっているが、ラヴクラフトの生前に唯一出版されたことで知られる代表作「インスマウスの影」は、彼の人種的な偏見をホラーに転嫁させたものであるという議論がある*3インスマウスの住民は、何か得体のしれない種族との「混血種」であり、何やら訳の分からない言葉で訳の分からない神々を崇拝し、静謐な漁村を乗っ取り、恐るべき陰謀を企てている。このような「深きもの」についての叙述は、1930年代のアメリカにおける非白人系移民に対する妄想とパラレルに考えることもできるだろう。彼らはのちに官憲の手によって文字通り一掃される。彼らが誰にも知られないように超法規的にひっそりと処分されていくさまは、ナチスホロコーストをも思い起こさせるものだ。
 Jägerも指摘している通りこの話には最後にどんでん返しがあるので、単なる人種偏見のアレゴリーには還元できないにせよ、この物語の舞台設定がラヴクラフトの人種的妄想と分かちがたく密接しているという解釈は、けして否定できるものではないだろう。
 得体の知れない奴らがこの町にやってきてわれわれの生活を脅かしている、という人種的妄想は、ホラーの構造と相性が良い。しかしその妄想がいったん妄想だと明らかになったとき、その構図は逆転する。そこにいるのは、もはや得体の知れない者の陰謀によって生活を脅かされる被害者ではない。ただただ狂ったようにマイノリティを痛めつけ続けているマジョリティにすぎない。だが、その構造が逆転したとしても、ホラーの構造そのものは消えることは無い。世界を病理的に解釈する人種妄想は、それがいったんマジョリティの間に広まるやいなや、世界そのものを病理的・妄想的な舞台に変えてしまう。したがって、人種妄想に加担しないもの・あるいはその妄想から奇跡的に正気に戻った者に対しては、今度はより絶望的な、覚めない悪夢が待ち受けているにすぎないのだ。
 
 映画『デトロイト』におけるホテルの悲劇は、一発の銃声をめぐる妄想から始まる。その銃声はオモチャの銃によるもので、ホテルに本物の銃が無いことを観客は知っている。白人の警官たちは、ありもしない銃のありかを吐かせるために、黒人や「黒人と寝た」白人の女性たちを拷問する。当時のデトロイトには実際に狙撃者がいて、またリーダー格の警官は警察上層部でさえ手を焼くほどの根っからの人種主義者である。
 しかしここで問題になるのは、銃に対する妄想・デトロイト暴動の最中という背景・彼らの人種的偏見のどれが、ホテルにおける拷問のプライマリーな動機であったか、ではない。そのすべては密接に絡み合って、区別はつかない。白人警官は、射殺した黒人がナイフを持っていたという証拠を捏造するなど、一見冷静に黒人たちをハメようとしているようにみえる。だが彼は、ありもしない銃に対する妄想にも固執している。けして「遊び」で暴力を振るっているわけではない。かれらは根っからの警察で、銃が見つからないことに対するかれらの議論は真剣そのものである。その妄想はけして、黒人を痛めつけるための口実にすぎない、とはいえない。
 問題は、銃が見つからないということである。妄想の原因となった件のオモチャの銃は、映画の中ではけして発見されることはない。このあたり史実ではどうだったのかは知らないが、映画では妄想の原因が見つからないために、彼らはずっと銃=テロリストの妄想のうちに囚われ続けることになっている。
 さて、観客は、本物の銃がどこにもないことを知っている。しかしそのことは、いったいどのような効果があるのだろうか?拷問を受ける被害者たちの悲惨さを、より強める効果を持つのだろうか?もし銃声が本物だった場合、あるいは、銃が存在するのかしないのか観客も不可知だった場合、観客はどう考えるのだろうか?警官たちの行為に、多少なりとも正当性が出てくるのだろうか?いずれにせよ、結局最後まで銃は見つからないのである。オモチャだろうが本物だろうが、それが見つからないのであれば、あの場所で行われる行為に対して、何一つ影響を与えてはいなかっただろう。すなわち、銃に対する妄想によって暴力が振るわれることには変わりないのだ。
 しかし、もし本物の銃が撃たれたのであれば、警官の行為もある程度は仕方がない。安全を守るためなのだから――少しでもそう思ってしまった瞬間、われわれは人種的妄想に憑りつかれ始めるのだ。その思考は、まさに武器と権力を振りかざして無抵抗な黒人を殴りつけていた白人警官の思考そのものだからである(どこが違うというのだろうか?)。銃声はしたが銃は存在しない。あるのは妄想だけなのである。
 私は、デトロイト暴動およびアメリカの黒人差別問題を扱った映画としての『デトロイト』については、評価を保留したい。しかし、あのホテルの一夜については、人種妄想(警察がいかにそうした妄想に憑りつかれやすいか、ということも重要である)と暴力の関係を扱ったアレゴリーとしては、非常に示唆に富む映画だったと思う。冷静な妄想などというものはない。妄想と暴力との間には、境界線は無いのだ。
 
 大阪にスリーパー・セルなる「北朝鮮」の工作員が潜んでいて、金正恩が死んだら行動を起こす――そのような内容を、ある国際政治学者が公共の電波を使って発信したそうだ*4。彼女の頭の中には、あの白人警官と同じ、見つからない銃があるのだろう。銃が存在するかしないかは問題ではない。どのみちその銃は発見されることはなく、ただ暴力が行われるのだ。
 大阪には、「われわれ」の存在を脅かす「敵」が潜んでいる――「かれら」は、インスマウスの住民のように、やがて処理されるだろう。妄想と暴力の距離はない。差別扇動は良くないが――と前置きをしながら、「北朝鮮」の工作員の存在の蓋然性についてあれこれ語る者も同じだ。彼らはあの警官と同様、妄想を口にしているのに、自分自身はそのことに気づいていない。「安全のため」という理由をかざせば、自分たちは正気だと思っているのである(もちろん、あの警官たちとまったく同じように。もっと言えば、そのように考えている「国民」が多いこと自体がホラーだ!)。そして最後には、かの国際政治学者とともに、「かれら」の焼き討ちにまわるだろう。妄想の帳尻を合わせるためのナイフは、そこら中に転がっている。それに、仮に告発されたとしても、陪審員が無罪にしてくれるに違いない。日本国民という陪審員が。

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

*1:「映画『デトロイト』が「白人視点で黒人を描く」ことの問題点」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20180207-00081338/

*2:"‘DETROIT’ Gives Very Little To The Black Community To Hold On To" https://www.vibe.com/2017/07/detroit-film-review/

*3:Lorenz Jäger, "Amerikanischer Holocaust: H. P. Lovecraft", Das Hakenkreuz Zeichen im Weltbürgerkrieg, Karolinger Verlag, 2006, S.161ff.

*4:「三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論」http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/?utm_hp_ref=jp-homepage

無縁なるフレンズ

 けものは居てものけものは居ない――だが、「けもの」とは「のけもの」である。
 ワーウルフ、すなわち人狼の伝説は、ネウロイ人――かのイキリ軍事オタク御用達のアニメにおいて、それが敵対者として刻印づけられた名前であるのは示唆的であろう――に関する記述として、既にヘロドトスの時代から知られていた。一方、中世において人狼は具体的な人間の形象を取る。すなわち、彼らは非人間つまり教会や共同体の裁判において追放された「のけもの」たちのことなのだ。
 近代国家は暴力を独占するが、中世の国家はそうではない。自力救済が当たり前だった時代で、共同体は罪ある者とされた人間に対するいっさいの保護を停止し、排除する。すなわち「縁を切る」。排除された人間に対しては、生命を奪うことを含め、何をしてもよいのである。何となれば、「のけもの」は人間ではなく、「けもの」なのだから。
 共同体におけるあらゆる権利を剥奪され、「のけもの」とされた人間たちの避難所をアジールという。いったん彼らがそこに逃げ込んでしまえば、身内を殺され、自力救済のために彼の命を奪わんとする追手たちはけして手出しできない。アジールにおいて、「のけもの」は安全を保障されるのである。アジールとされた領域の多くは、寺院や、神殿や、教会といった聖なる場所であった。それは世俗の領域と区別された場所であり、なまなましい流血沙汰は文字通り場違いなのである。
 ただし、アジールは宗教的というよりもむしろ法的・制度的な性格を持つ。19世紀の詩人ヘルダーリンは、アジールを法の女神テミスの娘として解釈した。逆説的なことではあるが、いったん下された共同体の判決が通用しないような法の例外たる領域において、人間の例外たる「けもの」は、法的な保障を受けられるのである。アジールとは従って、法を超越する法といえよう。自力救済の弊害は、復讐の連鎖が起こりうることである。とくに戦士としての名誉が重視されていたゲルマン系の諸民族にとっては、復讐は義務のようなものであった。しかし、手出ししたくても手出しできない領域があったならば、いったん頭を冷やして話し合うこともできよう。アジールは、暴力を回避して平和を志向するための、ひとつの知恵でもあるのである。
 けものは居てものけものは居ない――ただし、「けもの」とは「のけもの」である。「けもの」が「のけもの」でなくなれるのは「けもの」たちの共同体においてのみであろう。「けもの」が人間の姿でいられるのは、アジールにおいてのみであろう。
 中世日本列島の、無縁の場所としてのアジールに生きる、無縁の人々の有様をいきいきと描いたのが網野善彦であった。一方、アジールの自立性は、その一身にすべての権力を集める支配者たちにとっては、鴨川の水やサイコロの目と並んで苦々しいものと映る。そして近代国民国家はすべての暴力を独占しようとする。リヴァイアサン――究極の「獣」の登場によって、各地にあった「のけもの」たちのための自立的な領域、アジールは、ヨーロッパでも日本でも、近代化とともに次第に消滅していく運命にあった。網野はそれを感傷をもって語り、平泉澄は当然のこととして語る。
 アニメ版『けものフレンズ』において、フレンズの敵対者であるセルリアンの正体については最後まで謎めいたものに留まった。一方、筆者は未体験であるが、アプリ版のストーリーの中には、その動機があらゆる情報を保存することであるという示唆もあるらしい。いずれにせよ、その情報を取り込みフレンズをただの獣に戻すセルリアンは、「けもの」の中の「のけもの」というよりは、アジールを自らの支配下に加えんとする近代国家の隠喩として捉えることもできよう。
 けものは居てものけものは居ない――だが、それが成り立つ領域が存在することは、けして自明ではない。そのような場所は、ひとつの例外としてのみ存在する。ときに我々は、そのことをまざまざと見せつけられるのである。



■参考

ようこそジャパリパークへ

ようこそジャパリパークへ

アジール―その歴史と諸形態

アジール―その歴史と諸形態

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

国家/内戦/シン・ゴジラ

 
地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた
                                  ――ヨブ記41.33
 
 近代国家を聖書に出てくる大怪獣リヴァイアサンに喩えたのはホッブズであった。ホッブズによれば、人間の自然状態は万人の万人に対する闘争であり、そこに安息は無い。従って人間たちは自らの権利を国家へと委譲する契約を結び、国家の保護を得る。保護と服従の関係が、国家と国民の関係を規定する。国家はその領域において唯一の主権的共同体である。
 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』において、国際社会を複数のリヴァイアサンが競合する多元的な空間として考えている。国際間においては、国家の国民に対する保護は、他の国家からの保護でもある。むしろ国民は他の国民に対抗するために国家をつくる。国民の結集は、「政治的なもの」によって行われる。つまり、友と敵の存在論的な区別によって行われる。国家の主権者は、政治の概念に即して、国家の敵を正しく識別しなければならない。
 シュミットの最晩年の著書『パルチザンの理論』は、「政治的なものの概念の中間的論考」という副題がついでいる。国家の領域内単一性は、人々が友と敵の区別によってそれぞれの国民へと結集することによって成り立っている。ゆえに、国家は友と敵を正しく区別する力を失ってしまったとき、単一の主権者としてのリヴァイアサンたることをやめてしまう。その際、国家を救うのは誰か?シュミットはその役割を土地に根ざしたパルチザンに託した。土地に根ざしたパルチザンは、侵入者を国土から追い出すという明解な目的を持つことによって、友と敵の正しい区別のもとに闘い、既存の国家にかわって国家の単一性を回復するのである。
 しかし、パルチザンは他方で、既存の権力とっては、自らを打ち倒す力ともなりうる諸刃の剣でもある。国民の中でも「意識の高い」人々の集まりであるパルチザンは、国家と国民を守る潜勢力であると同時に、内戦の原動力となる潜勢力でもあるのだ。プロイセン国家は対ナポレオンのために非正規兵を招集したが、途中で解散させた。非正規兵を利用することによって、プロイセンは自らの体制が脅かされると考えたからだ、と『パルチザンの理論』の著者は述べている。
 
 国家に決断する能力を再び与え、政治的なものを回復するパルチザンと、内戦の原動力たるパルチザンは双極的な関係をもつ。それは近代科学文明における技術的なものの双極性と関連している。その双極性とは、陶酔と制御である*1。技術とは人間のために人間が制御し使役する手段である。しかしその技術が発展と改良を重ね、人間の制御不可能な地点まで極まったとき、人間はむしろ技術によって駆り立てられる。スマートフォンは「感性を疎外しない透明なメディウム*2として、人間の生活を利便化させるために発明された。しかし、今や人間はスマートフォンに駆り立てられている。外出先でポケモンGOを楽しむのではなく、ポケモンGOを楽しむために外出する。近代技術は人間の制御を離れ、自律的に運動し、人間を陶酔のうちに巻き込んでいく。『技術への問い』の著者は、近代技術の本質をゲシュテル(総駆り立て体制)とよんだ。ゲシュテルとしての技術は、人間を道具として使役し、その本来あるべき場所を喪失させる。
 ゲシュテルとしての技術の際たるものは、原子力技術だろう。それは過去には「明るい未来のエネルギー」として、人間社会にただ幸福をもたらすものと考えられてきた。しかし実際には、人間はその技術を制御できず、電力を取り出せたとしてもその後はただ最悪のカタストロフを防ぐためだけに10万年もの間、技術を管理し続けなければいけない*3。もはやそれは原子力技術に人間が駆り立てられているといわざるをえない。そして、この原子力技術が制御を離れ、自律的に運動するようになるとどうなるか。もちろんそれは答えるまでもなく、チェルノブイリやフクシマの現状を見ればはっきりと分かるのである。制御を離れた原子力技術の暴走はカタストロフを生む。そして、そのような技術から誕生した生物がゴジラである。
 
 作中でも指摘されているように、ゴジラは水と空気さえあれば半永久的にエネルギーを取り出すことができ、文明が滅びるまで世界を破壊しつくす可能性がある「人類の敵」である。しかし、『シン・ゴジラ』の世界の中ではむしろゴジラは「国家の敵」であって「人類の敵」ではない。ゴジラを「人類の敵」とみなす国際連合は、日本国家を犠牲にゴジラを抹殺しようとする。しかし、東京もろともゴジラを核攻撃するという判断は、きわめて「政治的」である。この決定に対して、日本政府のあらゆる構成員は反発の色を隠そうとはしない。彼らは「人類」ではなく、「日本」へと結集するのである。世界を救うために一つの国(国民)を犠牲にせよという命令には、誰も従わせることはできない。
 一方、矢口はヤシオリ作戦を発動させる際、自衛隊員を前に演説を行う。彼の命令は、自衛隊員自らの命を代償に国家(国民)を救えというものである*4。『政治的なものの概念』の著者は次のように言っている。すなわち、敵を殺すために人に死を要求できるのは、「政治的なもの」つまり「国家」だけだと*5
 ゴジラという最悪の脅威に立ち向かう中で、日本「国家」は政治的なものの強度を高めていく。ゴジラの攻撃で、それまでの政府要人はほぼ全滅する。代わってゴジラ対策の主導権を握るのは、若手の政治家や官僚たちである。彼らはそれまでの世代とは異なり、ゴジラという例外状態において「決断」する能力を持っているのである。
 彼らは一体何者なのだろうか?ゴジラは正攻法では倒すことができない。ゴジラを倒すために必要なのは、叡智と技術と「地の利」(ビルや線路も彼らの武器なのである)である。したがってゴジラ対策チーム及びその支援者たちには、「パルチザン」の名を与えてもいいだろう。彼らは日本という土地に張り巡らされたネットワークを駆使して、ゴジラを倒す。そして国家に決断する能力を再び与え、新しい体制をつくりあげるのである。国家とは怪獣「リヴァイアサン」である。ゴジラという怪獣に対抗するために、日本もまた一匹の怪獣となる。国際社会の多元性の中で、戦争がリヴァイアサンの必要性を自覚させるように、ゴジラもまたリヴァイアサンの必要性を自覚させる。ゴジラは戦争の象徴であり、ゴジラ対策チームは「政治的なもの」を再興するパルチザンの象徴である。
 しかし我々は、ここで考察の歩みを止めるわけにはいかない。ゴジラが単に「外敵」の象徴であるならば、この物語が2011年の大地震および原発事故を反復しようとしていることの説明はつかない。ゴジラが、震災の被害者のみならず東京の犠牲となった地方の怨念をあからさまに体現しており、実際にそのような観点からゴジラを支持する人もいることを考えなければならぬ。
 
 ゴジラを東京の権力に対する地方の反乱(荒ぶる神)として考えるなら。ゴジラは「内敵」ということになろう。「外敵」と「内敵」、双極的な概念をゴジラが一匹で体現していることに驚きはない。シュミットにとって、「外敵」がリヴァイアサンたる国家に必要であったのと同様に、ジョルジョ・アガンベンによれば、「内敵」(内戦)もリヴァイアサンたる国家には必要だったのである。
 アガンベンの著作『スタシス』には、古代ギリシアにおいて内戦は国家がポリス(都市)からオイコス(家族)へと成長するために必要な過程であったことが書かれている。当時のギリシア人にとって、内戦は近代人がそう考えるようにけして忌み嫌われるべきものではなかった。結果に対する訴訟や復讐は許されないにせよ、内戦の記憶自体は将来にわたって想起されるものだったのである。
 アガンベンは、『リヴァイアサン』の著者にとっても、新たな主権を打ち立てるためには内戦は必要だったとしている。ホッブズによれば、個々の人間ひとりひとりの「群がり」は「人民」ではない。「人民」とは単一の概念であり、けしてそれ自体を可視化することはできず、代表されることによってのみ可視化されうる。社会契約を結び、単一の人民となれるのは「統一されてないない群がり(disunited multitude)」である。それに対して、社会契約を結んだはいいが単一の人民たる力を失ってしまった群がりは「解体された群がり(disunita multitudo)」である。このふたつの群がりは違うものであり、後者がまた新たな主権契約を結ぶためには、いったんまた前者に戻る必要がある。しかし「解体された群がり」の一度結んでしまった主権契約は変更できないので、それを破壊するために必要な作業が内戦なのである。
 内戦の勝者が主権者として新たな国家をつくる。『シン・ゴジラ』において勝者は「外敵」であると同時に地方人の怨念としての「内敵」たるゴジラではなく、下っ端とはいえ東京の政府の一員であった矢口たちであった。彼らはパルチザンとしてこの戦いを戦った。そして「解体された群がり」からゴジラ=内戦によって「統一されていない群がり」となった日本の人々を再び「人民」へと高め、選挙に勝利するよって主権契約を結ぶのだろう*6。だが一方で、内戦の敗者たるゴジラは用済みとなってしまったのか?そうではない。ゴジラは冷却されただけで死んではいない。怪物はその姿を保ったまま眠っている。人々がいなくなった東京の中心部で。
 
 『リヴァイアサン』の有名な表紙*7――人間たちがひとつの人格を構成している――で、描かれている都市に人々がいないことについて、『スタシス』の著者は、次のように解釈している。すなわち、統一された「人民」は都市に住む群衆とは違う。群衆はいったん「人民」として代表されてしまうやいなや、いなくなってしまう。逆に「人民」は都市には住まず、君臨するだけなのである。
 『シン・ゴジラ』の群衆は、序盤から中盤にかけて描写されている。ゴジラから逃げ惑う人々であったり、野次馬としてスマホ撮影やSNSの書き込みをする人々であったり、脅威が一度鎮静化すればすぐに忘れ去る人々であったりする。だが、旧政府の指導者たちが死に、日本が次第にひとつの「人民」=リヴァイアサンとして立ち上がっていくにつれて、その描写は少なくなっていく。そしてゴジラがついにその活動をやめたとき、もはや群衆の姿は無い。
 群衆はどこへ行ったのか?もちろん作中では疎開が完了している設定なので、彼らはきっと地方のどこかの避難所に分散して避難しているのだろう。だが、この問いはより根源的に考えられるべきだ。「群衆」はどこへ行ったのか?「解体された群衆」は「統一されていない群衆」を経て、「人民」となる。かの冊子の表紙を思い出してほしい。「人民」となった群衆はリヴァイアサンの中へと入るのである。ホッブズがその著書において国家をひとつの神話的形象によって象徴したように、群衆がいない東京の中心にもリヴァイアサンに並び立つ神話的象徴がある。「呉爾羅」と言う名の。
 ここで、ゴジラという存在をもう一度整理してみる必要がある。ゴジラは「外敵」であり、日本というリヴァイアサンと戦う。しかし、そこには二匹の怪獣がいるのだろうか?ゴジラは「外敵」であると同時に「内敵」でもある。そしてそれは日本国家がリヴァイアサンたるためには必要な存在である。この意味で、ゴジラは日本国家に対する単なる「対手」ということはできない。むしろそれは日本国家に対する影のような存在である。ゴジラの成長に合わせて、日本国家もまた「成長」していく、という劇中での言及を考慮すると、むしろ「鏡」というのが良いのかもしれない。日本国家はゴジラを敵として見ることによって、自らの姿を顧みるのである。
 
 いまや我々は、『シン・ゴジラ』に天皇が登場しない真の理由を理解することができる。日本国憲法下の天皇制に制度体保障*8以上の法的意味を求めるとするなら、ノモス(法)としての天皇という以外にない。『天皇制と国民主権』の著者は、真の主権は国民にではなく国民がより良き政治を志向するというノモス(法)にあり、その象徴が天皇だとして、宮沢俊義の八月革命説に対抗しようとした。国民が天皇をよりよき政治の鏡として仰ぎ見ることによって*9天皇制の国民統合機能は保たれる*10
 この法哲学者の天皇論は当然ながら主流派憲法学によって一蹴された。しかしそれは、「イン・エゴイストス」の著者の言を借りれば、「我々の法学の中に、いわば「不発弾」として埋め込まれている」*11。『シン・ゴジラ』の世界には天皇の姿はなく、代わりにゴジラがいる。
 ゴジラは「人民」となった日本国民の象徴であり、鏡である。そしてまたパルチザンの神話的な拠り所となる「大地のノモス」でもある。ゴジラの尻尾にはグロテスクな人間の姿が浮き出ている。それが単一化され代表された「人民」の姿なのか、内戦の敗者の姿なのかは問題ではない。いずれにせよ、それらはゴジラの中に統合されている。ゴジラがそれを象徴していることが決定的に重要なのである。「統合理論(R・スメント)」*12を引き合いに出せば、解釈が何であれ、皆がゴジラを鏡として見ているということが重要なのであるから。ゴジラは東京の中心に鎮座し続ける。ゴジラがいることにより、日本国民は「内敵」の可能性と「外敵」の可能性を忘れない。ゴジラは国家と人民を仲介する。それがある限り、日本というリヴァイアサンの政治的なものの強度は高いままに保たれるであろう。
 
 いずれにせよ、『シン・ゴジラ』はヒットした。驚くようなことではないだろう。少なくともここ20年、日本のオタクの多くは「強い国家」を希求してきた。この映画はその欲求にこたえる力がある。それは『リヴァイアサン』の表象そのものがもつ力と同じような「神話的な力」といえるだろう。
 ところで、政治的なものの強度の高い国家は何ができるのか?いまいちど、『政治的なものの概念』の著者の述べるところをおさらいしておこう。それは決断できるのである。危急の場合には自らの生命を犠牲にして、他国民を殺せと構成員に命令できる決断を。
 さらに付け加えると、そのような強度の高い国家を、いつまでも「冷却」して「制御」し続けることができるとは限らないのではないだろうか。いかなる方向性での統合であれ、「陶酔」へと至る道は内容の問題ではなく強度の問題なのであるから。
 

参考

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

*1:G・シュトゥンプ「陶酔と制御」(鍛治哲郎・竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学』青土社、二〇一四年 参照。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kanose/20080820/sensibility

*3:http://www.asahi.com/articles/ASJ807DWVJ80ULBJ017.html

*4:確かに犠牲を最小限にする努力は行われているが、それでも薬品の注入は彼らに死を覚悟させねばならない代物だし、実際に犠牲も出ている。

*5:Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen, Berlin, 2009, S.43

*6:赤坂はこれから総選挙だと言っていたが、与党が圧勝するにきまっている。

*7:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Leviathan_by_Thomas_Hobbes.jpg

*8:制度体保障については、石川健治『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』日本評論社、二〇〇七年 参照。

*9:大御心!

*10:別儀ではあるが、憲法に定められた国事行為以外のグレーゾーンをこなすことこそがむしろ天皇の本来の仕事であると天皇自身が信じており、それをゆゆしきことだと思わない日本国民の多さも想起されたし。

*11:石川健治「イン・エゴイストス」長谷部恭男・金泰昌編『法律から考える公共性』東京大学出版会、二〇〇四年、一九四頁

*12:シュミットが政治的なものをはかる尺度に「強度」を選んだのは、スメントの動態として国家を捉える国法理論の影響があるといわれている。

弾圧と大衆運動

 5月28日、経済産業省の前で抗議行動を行っていた3名が、警察によって不当にも逮捕された。ある公官庁が関わる社会問題に対して市民が当該官庁の前で直接抗議を行うことは、憲法により保障された市民的権利の一部であるし、その際、抗議者が敷地の境界線を超えたかどうかという些細な事実は*1、市民の身体的自由を侵害するに足る正当な理由にはあたらないことは明白である。これは政治弾圧である。
 したがって、このような極めて深刻な市民的権利の侵害に対して、救援会を中心に多くの人々が不当な逮捕を行った当局に対して抗議を行い、逮捕された3名の支援に尽力しているのは当然である。ところが、それにも関わらず、あろうことか弾圧の被害者である逮捕された3名に対してバッシングを行う市民も一定数いるのである。当局がやることなすことすべて正当化し、政治的な抵抗者を嘲笑する権力の犬と呼ぶしかない人々についてはもはや論ずることはない。問題は、平和や人権、環境といったテーマにおいて積極的に政府を批判する運動を行っている者たちの中に、そのような人々がいることである。
 彼らの主張はすなわち、以下のようなものである。運動とは逮捕されないことがもっとも重要である。なぜなら、逮捕されることによって運動に負のレッテルをはられてしまい、一般の人々は怖くて参加できなくなるのだから。一般の人々も参加できるような大衆運動が組織できてこそ政治的目的は達成可能なのであって、不用意に逮捕されるような行為をする者はそのような運動の形成を阻害している。そのような者は運動に政治的目的の実現ではなく自己実現を求めているとみなされ、大いに批難されなければいけない。
 しかし、このような主張の妥当性は検証されるべきである。まず、警察によって逮捕されるような行動とそうでない行動を明確に峻別できるのだろうか?運動の現場に置いてなされる逮捕とは、ある不法行為の事実があってそれに対して行われるのではなく、警察(公安)が、ある行為が不法であるかどうかを恣意的に決めることによって行われるのである。法に従って逮捕が行われるのではなく、いわば警察が法をつくる。そのような条件下で、何が逮捕に値する行為であるのか、市民があらかじめ判断することはできない*2。せいぜい警察が不法だと考えるであろう行為について予期することができるだけであり、そのような予期は市民的自由を最小限の領域に制約しようとする当局の思想を内面化することに他ならないから、予期に基づいた自己制約は、運動の自由を極めて小さい範囲に狭めることになるだろう。
 千歩譲って、逮捕されるような行為とそうでない行為をあらかじめ弁別できたとしよう。しかし、そもそも逮捕を注意深く避けることによって運動が大衆運動へと発展し、それによって政治的目的が達成されるという仮定は正しいのだろうか。救援会のブログにもあるとおり、逮捕された3人は特段に過激な行為をしていたわけではない。一方、世界各国、たとえばドイツでは市民運動においてより過激な行為も珍しくはない。警察と殴り合いになったり、発煙筒をたいたり、物を破壊したり、それで逮捕されたりといったことも普通にある。上記の仮定が正しければ、ドイツでは大衆運動は成立しえないことになる。しかし周知のとおり、ドイツは原発ゼロを明言しており、また社会的差別の取り組みに関しても少なくとも日本よりはマシな国のひとつである。これは日本よりも反原発や反差別の大衆運動が成立している証拠ではないだろうか?もちろん、かかる政治的進歩が大衆運動の結果ではなく別の要因に基づくと言うことも可能であろう。しかしその場合、大衆運動自体が無意味ということになってしまう。
 予想される反論は、ドイツのような欧米諸国と日本では逮捕の重みが違う、というものであろう。確かに日本の刑事司法は「中世並み」であると評され、逮捕は一瞬でその人の生活を破壊する事態になりうる。だが、日本よりもより刑事司法が過酷な国、たとえば軍事政権によって支配されている国でも、民主化のための大衆的な運動が存在するし、実際にそのような運動の力は政権を打倒し民主化を実現させてきた。人は次のように言うかもしれない。いかなるものを失ってでも手に入れるべきものがそうした国々にはあるが、日本は「ほどよく」満たされているから、大衆運動が生じないのだ、と。だがそのように適度な恩恵と適度な弾圧が日本における大衆運動を阻害していると結論づけるならば、大衆運動が発展するかどうかは運動の問題ではなく当局の統治の問題になってしまう。当局が統治に失敗したときのみ、恩恵と弾圧のバランスが崩れ、大衆運動が発展するのである。そうなると、社会を変えるために活動家にできることは唯一、少人数による英雄的行為(管理社会SF物でよくあるストーリーのような)しかない。しかしそれはむしろより過激な行為を正当化することになるだろう。
 逮捕によって政治運動が負のレッテルをはられる、という点についてはどうだろうか。確かに日本は逮捕に対するスティグマ化が強い。しかしこの点については、そのスティグマ化を追認するのではなく、人民を信頼して、逮捕に対する認識を地道にでも変えていくしかないだろう。どんな正当な市民的権利でも、逮捕によって遡及的に悪しきものとされ続けるならば、当局にとって運動を社会に受け入れさせないためのコストは無限に安くなり、運動にとっては無限に高くなるのだから。もちろん逮捕された者への批難は、かかる現状を変える力になるどころかそれを強化することに寄与する。
 逮捕された者への人物批判に至っては、目も当てられない頽廃であるというしかない。行為者の意図ではなく現象を見るべきである。冒頭に書いた通り、この件が政治弾圧であることに議論の余地はない。逮捕された者がどのような動機に基づいていたか、あるいは過去にどのような言動・振る舞いをしたかによって、当局による市民的権利の不当な侵害がそうでなくなるわけではないのである。
 このように、簡単に考察してみただけでも、逮捕されるような人物を切り離し、逮捕されない運動をつくることで大衆運動は発展するという仮定には無理があることがわかる。むろん、私はどんどん逮捕される運動がよい運動だと言っているわけではない。不当逮捕はされた当人に対して大きな苦痛と被害を与える。また、逮捕救援はそれ自体コストがかかり、関わっている者たちを消耗させる。その消耗は、様々な政治的課題に対する運動の機動力も奪うだろう。不当逮捕をさせないような努力は運動にとって必要である。しかしそれは、運動の自己制約によってではなく、市民的自由の拡大のために人々が団結し、かかる不当弾圧に対してしっかりと抗議し、仲間を取り戻す意思表示をしめすことによって実現させていくしかないだろう。

*1:事実関係については救援ブログを参照https://528kyuen.wordpress.com/2015/05/31/statement/

*2:もし、実際にあらかじめ判断したことによって防げた、と思っている者がいたとしたら、それは大きな思い上がりである。外見的にそう見える状況に遭遇することもあるので勘違いしやすいのだが。運動側は当然ながら不当な逮捕に対して一定の警戒を行う。だが、いかなる警戒をしたとしても、そこで逮捕を強行するかどうかの判断は当局の手の中にある。