何故かジジェクを読んでいるのだが、

われわれがここで直面しているのは。二つのものが完全に類似しているとき、それらの属性にまったく差がないとき、その二つのものは数学的な意味で等しい―つまり、同じものである―という有名なライプニッツの原理の裏返しである。反-ライプニッツ的原理を説くラカンシニフィアンの論理からすれば、ものはそれ自身と似ていないがゆえに、類似はライプニッツとは反対に非―同一性を保障するのである。あるいは、ヘーゲル風にいいなおせばこうなる。ものの「同一性」の根拠は、そのものの属性にあるのではなく、あらゆる実定的な属性を排除した(あらゆる実定的な属性を否定する立場にある)純粋な「大文字の一者」による否定的総合にあるのだ、と。(スラヴォイ・ジジェク「脆弱なる絶対」第四章)

ここらへんのくだりを読んでいて、不意に安部公房の「赤い繭」を思い出してしまった。つまり、「俺」は「あの家は俺の家じゃない、この家は俺の家じゃない」という「否定」によって、「俺」を形成する本質的要素を空虚なものにおくことによって自分自身を形成してきたのだけれど、いざ自分自身を直接的に表象する「繭」と同一化してみると、「俺」の「同一性」の根拠は失われ、「俺」は空虚なものになってしまうという。初めて読んだ中学生のころは、「あー、要するに自分を囲っているもの=表現しているものと自分自身が同一化出来たんだから、むしろ良かったんじゃん?」とか単純に思っていたけれど、それは自己イメージと他者が持つイメージの同一化ができると無邪気に信じていた時代だったからだろうか。