「ヨーロッパ」における精神世界について

それだけに、キリスト教の教會が觀念の世界で支配者として途轍もなく横暴かつ專横で、無茶苦茶な觀念を平氣で押附けてゐた。それで中世と言ふ表面的には停滯の極みと言つて良い時代が長い事續いた訣ですが、キリスト教の教會の押附ける觀念に對する怨念が溜りに溜まる。さう云ふ情念に押されて、科学的・客觀的な觀念がカトリック教會に復讐したのです。

前者のこのへんに関して。
両氏は「西欧」という言葉を使っておられますが、どうやらこの「西欧」にはドストエフスキーも含まれるようなので、一般的には「西欧」よりは「西洋」もっといえば「ヨーロッパ」という言葉を使うのが適切かと思います。「ヨーロッパ」とは何でしょうか。よくわかりません。ジャック・ル=ゴフによれば、「ヨーロッパ」は「構想の状態」だそうです。要するに時代時代によって定義が変わり続ける概念なわけです。だから、僕はとりあえず扱う問題によってその都度「ヨーロッパ」を再定義していきたいと思います。
さて、精神世界についてです。これは時代によって大きく違ってくるし、どの身分の人々を扱うかでも全然異なります。少なくとも「中世ヨーロッパ(まあ、ここでいうヨーロッパはカトリック圏ということで)」においては、それはキリスト教一辺倒ではありませんでした。なにせ一部の上流身分を除いて、キリスト教の教義なんて基本的なこと以外みんな知らないわけです。村の神父でさえ知らない。その代わり、古くからのゲルマン的な世界観が人々の中にまだ強く残っていました。カルロ・ギンズブルグが救い上げてみせたような、そのままの形の異教信仰、あるいはキリスト教の皮を被った異教信仰(たとえば、地母神崇拝とキリスト教が結びついた「黒いマリア信仰」のような)は、中世ヨーロッパ精神世界を考える上でけして無視してはいけない一面であります。これらの信仰がほとんど消滅するのは、まあ17世紀くらいかなあ。宗教改革以後ですな。多分人々の内面性を規定したという点では、キリスト教の役割は、たとえば「告解」のシステムが近代市民社会に果たした影響などという議論を持ち出さずとも、14世紀よりも19世紀のほうがむしろ大きいのではないかと思う。キリスト教が社会に対してその抑圧性を存分に発揮したのは、中世においてではなくて、ルネサンス以降であったといったほうがより正しいでしょう。
キリスト教は確かにガリレオを弾圧したかもしれないけれど、他方で中世を通して人々の知的好奇心を育ててきたという事実もあるのですよ。「神様の創ったこの世界をもっと良く知りたい」という動機付けによって。たとえば「近代科学の父」ロジャー・ベーコンはフランチェスコ派の修道士でした。中世はけして表面的にも停滞の期間ではなくて、ゆっくりとではあるけれど、人々は少しずつその知の領域を広げていったのです。まあ、キリスト教の枠内ではあるかもしれないけれど、それよりも重要だったのは今まで超自然的なことであると考えられてきたことが、一応の「合理的」理由をもって根拠づけられることであったわけです。
だから、少なくとも中世のカトリック教会をヨーロッパにおける科学精神を抑圧したとして恨むのはちょっと不当かと。むしろ、科学が発達したことによって、人々は初めてカトリックの誤りに気づいた、と考えたほうが自然でしょう。かといって「キリスト教が近代科学の発達を促した。」と言うのももちろん違うけど。キリスト教に近代科学を生み出す内在的な力があるなら、もっと早くから近代化しているはずだし。結局、キリスト教とヨーロッパの近代性との因果関係は、あまり強くない気がするなあ。