>「西歐人がキリスト教的な物事を峻別する態度を身につけてゐる」と野嵜が言ふ歴史學的・文化史學的(その他)な根據・理由ではない。
歴史學的・文化史學的(その他)な根據・理由を聞いているのだよ。特に歴史学な。
ヤスパースニーチェの文章を分析した話、前にしましたよね?
読んだがそれは「ヤスパースニーチェキリスト教的に読んだ」というそれ以上でもそれ以外でもないでしょう。
ニーチェは自身のキリスト教的な意識を意識していたんでしょうか?かわいそうに。「作者の意図」に忠実に読んであげてくださいな。
というか、「キリスト教的な意識・態度」の反論として、はじめ僕が基層文化の話をすればあなたは「知識人が自分たちの社会、言説をキリスト教的だと意識していたことが大事」だという。しかし、今あなたは「キリスト教的な意識・態度」をニーチェ自身がどのように考えていたかではなくて、ニーチェの深層的な意識の上に見出している。どっちなんですか?さっぱりわからないよ。
さらに、ひとりの知識人がキリスト教を意識して、キリスト教的態度にのっとってモノを考えていたとして、ほかの知識人もそうであるという論証にはなりませんね。
>野嵜がどのやうな歴史哲学を持ってゐるかといふことと、野嵜の研究が正しいものかどうか、あるいは歴史学的に重要なものであるかどうか、を區別してゐない人が
区別しているから論拠を言え論拠を言えとずっと言ってるんでしょうが。いくら「個人的に」歴史哲学が優れた歴史家だと思っていようと、その論証がクソクソだったらその歴史家の研究はゴミだ。
>私は以前、日本人はキリスト教を完全には理解する事が出來ない、とは申しましたが、北守將軍の言ふやうな言ひ方をした事はありません。助詞の使ひ方にも気をつけて、文章を讀まなければいけません。
「完全に理解することができない」でも、別に「ある程度理解すること」を排除していないと思いますが、まあ誤解を招きかねないことも確かなので、では訂正しましょう。「完全には」。こう言い換えても別に僕のイイタイコトは変わらないですね。