3月前期西南ドイツ改革史の考察

特に古い概説書を読むと、しばしば「限界があった」と評価されている西南ドイツの改革だが、別に農地開放だけが改革ではないのだし、個人ではなくゲマインデを基礎とした憲法というのも、時代を考えればそれなりに合理的だったのではないかなあ、と思っている僕は、知らず知らずのうちにある種の「特殊な道」論に傾き始めているのかもしれない。まあ、従来言われている「特殊な道」論とは異なるし、むしろ「特殊な道」論を別の「特殊な道」論によって相殺しようとする議論だと思っているのだが。
しかし、そう考えるとW・モムゼンのようなビーレフェルト学派の大物が、3月前期における西南ドイツの改革を評価しないのも判る気がする。つまり、啓蒙主義に基づく「フランス・モデル」を、当時における社会改革の普遍的な理念型として捉えるならば、西南ドイツのそれが後進的であるのは明らかだからだ。だが、西南ドイツ諸国がナポレオンによってつくられたヴェストファーレン憲法を参照しつつも、国によって幅はあるが、全面的にそれを受け入れることをしなかったという事実は、重要である。単に当時の支配者、あるいは知識人たちの保守的性格に回収するのは、バイエルンはともかくとしてヴェルデンベルグやバーデンにおいては早計であろう。そこにはやはり西南ドイツ諸国それぞれの社会構造の差異があると考えるべきである。西南ドイツにおける改革は確かに「フランス・モデル」を全面的になぞっていはいないが、それをもってそれらの改革は啓蒙主義的精神に基づいていなかった、と評価するのは誤りである。さらに、モムゼンがドイツ初期自由主義を「階級無き市民社会」を前提にしているとして過小評価するのはいささか不当であると思う。その時代にはマルクスはまだ揺り籠の中にいたのだから。事実、その後の社会の産業構造の変化においてバーデンやヴェルデンベルグは比較的柔軟な対応を見せており、漸進的にしろ着実に近代国家として確立していく途上だったと評価できるはずである。