メモ

「新しい歴史運動」(メディアの用語を用いるなら)のなかには種々雑多な潮流が存在するとはいえ、「歴史工房」の「日常史派」はこのような我々のイメージとの修正と原則的には何の関係も無い。

彼らはむしろ国民史的な伝統に批判的であり、多くの点で左派的なのである。

にもかかわらず、彼らもまたしばしばアイデンティティを得る目的のために歴史をやっている。きみらの足元を掘りたまえ(何のためにだろうか?――自分自身の根っこを発見するために)。

ここでは、この形態のミクロな歴史学がたいてい支払わなければならないひとつの代価だけを指摘しておこう。すなわち、さまざまな連関の認識の放棄、言い換えれば「大きな問い」、たとえば国家形成と階級形成、宗教と教会、産業化と資本主義、国民と革命、ナチズムの根本的な原因と結果、国際的な比較におけるドイツの特殊性、といった、「大きな問い」の黙殺である。
このような問いは要するに、ショッキングな個人史や口承の歴史を経由しては解明されえない。これらの問いに答えるためには、複雑な概念と幅広い読書、さまざまな理論と粘り強い根気が必要である。すなわち、大学の自由な空間と道具を用い、手間ひまかけた専門教育過程の蓄積を生かし、分業の利点を利用することができる専門的な歴史学こそがまず第一に提供しうるもの、が必要なのだ。経済、社会、文化、政治の長期にわたる連関を認識するための、直接的で迅速な非専門的方法といったものは、残念ながら存在しないのである。
ユルゲン・コッカ「ヒトラーの記憶は、スターリンポル・ポトを持ち出すことによって抑圧・排除されてはならない」