歴史に対しては、できるだけ党派性を排除して向き合いたいものである。しかし、この「党派性を排除して」という言説は、多くの場合むしろ党派的に偏った立場から発言されることが多いので、難しい。
たとえば「南京大虐殺はあった」と言うと、すぐに「中国の主張を鵜呑みにしている!」と怒り出す人がやってくる。「党派性を排除して実証的に研究せよ!」と。ところが「南京大虐殺」は、世界中で研究されている。まさに「実証的」に。なぜ「虐殺があった」と主張することと、「中国の主張を鵜呑みにする」ことがすぐにイコールで結ばれるのだろうか。彼らの考えによれば単純なことである。ずなわち、世界は絶対的で不変な「国民」と呼ばれる集団に分かれている。*1「国民」は、それぞれ固有のただ一つの「歴史観」を持つ。*2あらゆる歴史論争はこの「歴史観」の違いに基づくものである。従って、歴史論争はアイデンティティの闘争でしかありえず、(彼らが考える)「国民」の「正史」から外れた歴史観は、売国的なものに間違いない。
しかし、こうした世界観のもとで、「党派性を排除して」という言説はどのような意味を持つのであろうか。あらゆる歴史観は党派的なものを背負っているのであれば、、歴史学から党派性を排除することは出来ないはずなのだが。「(中国の)党派性を排除して、日本の党派性を持て!」これならば、少なくとも整合性はある。良心的な研究者ならば、誰も相手にしないだろうが。

*1:ときどき、彼らの都合に応じて「国民」は「人種」や「宗教」に置換される。

*2:まあ、はっきりいって電波ですが。その電波な世界観に基づいて教科書をつくっている人たちがいるのさ。http://www.tsukurukai.com/02_about_us/03_move.html