「歴史家論争」について

ずいぶん昔に長文を書いたのだが、アップするのを忘れていた。
「歴史家論争」は、ドイツ人の「国民の物語」を巡る問題と直結している。その発端は、1986年にフランクフルトで行われる予定になっていたエルンスト・ノルテの公演内容の講演と、同年に発表されたアンドレアス・ヒルグルーバーの著書『ふたつの没落』に対する、ユルゲン・ハーバーマスの批判であった。
 ノルテは、ユダヤ人の大量虐殺という「過去」は、ドイツ人にとって永遠に消えないスティグマとして刻印付けられており、そのことが過去の歴史に対する冷静な検証をかえって行うことを妨げていると述べる。ドイツ人が、「最終的解決」の問題にあまりにも注意を向け続けているあまり、ナチ時代に行われた他の諸問題、あるいは現代なお行われている他の虐殺の問題が、なおざりにされている、と。
このような動きに対して、ハーバーマスは「国民意識の再生」に対するドイツ国民のコンセンサスを創出しようとするための、「伝統的なアイデンティティーを国民の歴史を軸にして修復するという目的に、修正主義的な歴史記述を奉仕させようとする」試みであると指摘する。さしあたって、彼はヒルグルーバーを批判する。
ハーバーマスの、ヒルグルーバーの対する批判は以下のようなものである。すなわち、ヒルグルーバーは現在のドイツ国民が、第二次世界大戦当時の東部戦線における軍及び民衆とその視点を同一化するように要求する。彼は歴史家に、現在(1986年)の視点から過去を振り返るという「正常な」視覚を試みさせない。そして、ユダヤ人虐殺の責任をヒトラー個人の責任に押し付ける一方で、東部戦線において連合国による「ドイツの破壊」に立ち向かった人々の、英雄的で悲劇的な行為を描き出す。つまり、ヒルグルーバーは「個々の視点から見た」事件史を強調することによって、東部戦線での戦いとユダヤ人虐殺との結びつきから目をそむけようとしているのだ。
また、ハーバーマスは同時にノルテも批判する。ノルテは、(当該の講演以前に発表された論文において)ヒトラーがこの大虐殺を決断するにいたる、悲しむべき要因がユダヤ人の側にあったと述べ、またユダヤ人虐殺をポル・ポトスターリンのそれと並べることによって、ヒトラーの犯罪を相対化しようとしているというのである。
ハーバーマスは、このような国民アイデンティティーのための歴史学は、ドイツと西側世界との接点を破壊するものであるとし、「解釈の多元主義」に基づく、開かれた歴史学を主張している。
このような議論に対して、エーバーハルト・イェッケルなどハーバーマスに賛同するもの、あるいはクラウス・ヒルデブラントなど反発するものたちが、それぞれの立場から論考を発表し、所謂「歴史家論争」となった。
ハーバーマスのノルテらに対する指摘が、的確なものかどうか判断するのは難しい。ヒルグルーバーは再反論によって「歴史研究に禁じられた問いはない」と述べ、ヒルデブラントハーバーマスの議論を、既成の歴史認識とは異なる意見を「ドグマティックに」抹殺しようとするものであると指摘する。だが、ヒルデブラントヒルグルーバーも、また「その国の歴史も同じような問題を抱えていること」を指摘したにすぎないと再反論しているノルテも、全員が「共産主義」を過度に対置させて自らの議論を正当化しているのだが、それはいささか「シャドーボクシング」である感が否めない。ハーバーマスら批判者たちの議論は、共産主義ナチスよりましであったというものではなく、共産主義ナチスと対置することによって、ナチス時代の歴史が観念的な「国民の物語」として浮上してしまうことを問題視しているのであるから。彼らはヒルグルーバーやノルテがボルシェビキの強大化とナチスの虐殺に観念的な因果性を見出していることを批判しているのに、ヒルグルーバーやノルテはむしろ様々な虐殺を相対化することがいけないのだ、というように、問題を摩り替えてしまっているように見受けられる。その点で、ヒルグルーバーやノルテが、いくら「アウシュビッツの悲劇を矮小化しようとするものではない」と述べようとも、自身に当てられている「ホロコーストと東部戦線を秤にかけて釣り合わそうとしている」という批判を、共産主義の悲惨さを強調するという再反論をしてしまっている時点で、自らさらに裏付けてしまっているようにも見えるのである。
ボルシェビキの脅威は、当時のナチス政府が、戦争遂行を煽るプロパガンダとして最も良く用いられていたものだった。それを信じて戦った人々もいただろう。しかし、ユルゲン・コッカが指摘するように、こうした「歴史工房」の「日常史派」の立場は、歴史を全体的に、総合的に俯瞰することを危うくする。つまり、ある事象に対して当時多くの人々がある意識を持っていたからといって、その事象を歴史的に位置づけるとき、当時の人々の意識にコミットしなければいけないということはない。むしろ両者は別物として扱われるべきなのである。
しかし、こうしたノルテらの立場は、80年代のドイツに急に登場したものでは無かった。戦後ドイツを支配してきた、「ナチスは悪かったが国防軍は悪くなかった」という「国防軍神話」は、彼らの議論とまさしく同じ理路―東からのボルシェビキの脅威に立ち向かった―を辿っているのである。また、1985年のレーガン大統領によるビットブルク戦没者墓地訪問の問題においても(ノルテはこの訪問を「もしドイツ連邦共和国大統領が、ドイツを攻撃した人間もそこにいるからという理由で参拝を拒否したならばどうなっていただろうか?」という理路で擁護しているのだが。) 、ユダヤ人団体やリベラル左派勢力による大きな反発とともに、それを歓迎する向きもドイツ国民の中にあったこと―コール首相の場合に関しては特にそうだったこと―は、ドイツ国民の多くが、過去の「負債」から逃れた「ドイツの誇り」と「ドイツ国民の再統合」といった、ある種の「国民の物語」を求めているということを示している。
だが、こうした立場を単にナショナリズムの問題として切り捨てることは出来ない。ドイツ国民にとって国防軍とはすなわち親兄弟、あるいは自身に直結する問題であるし、戦没者追悼とはつまり自分の身近にいる人間をどのように追悼するかという問題でもあるからだ。ここでまた、「日常史」へのコミット―自分のルーツをめぐる―が「国民の物語」の通奏低音として存在してしまうという問題が再浮上してくるのである。戦争の記憶をどう扱うかは、非常にデリケートなものなのだ。近年でも、ナチス・ドイツ政権下における社会史―たとえば戦時下の国民の生活について―が盛んになっており、大きな成果をあげている。しかし、こうした社会史は常に「=国民の物語」となりかねない危険性があり、注意していかなければいけないのだろうと思う。
さて、これは、日本においても他人事ではない。たとえば日本では、ドイツ国民がビットブルク問題の際、「レーガンには反発したがコールには反発しなかった」ということが、靖国神社に対する首相の公式参拝を推進しようとする人々を中心に、むしろ肯定的に捉える傾向が強いのである。過去の歴史の「負債」を過度に意識しているために、「自国の国民の」追悼がおろそかになっている。それではいけない、と(これはたとえば加藤典洋氏の議論にも通じるところがある)。特にある政治的傾向を持っていなくても、自分の親兄弟を追悼したいという思いが、「国民の物語」を構築しようとしている。そしてそれは、多くの国民が気づいていないのである。
「歴史家論争」は、このような国民的な意識の問題を議論の俎上に載せたという点では意義のあることだったのかもしれない。この論争がひとつのきっかけとなって、「国防軍神話」やホロコーストを巡る修正主義的な議論に対してより実証的な研究が深まり、また「国民の物語」をめぐる問題に対する見直しもなされることになったのである。ととえば「ノイエ・ヴァッヘ」の追悼文などは、確かに問題を孕みつつも、ひとつの成果といえるのではないだろうか。
日本でこのような議論が行われうるのかどうかは分からない。左右の間での「戦争の記憶」を巡る問題が、いまだ南京大虐殺や強制連行のある無しでしか議論できていない日本から見れば、この「歴史家論争」はむしろ「高尚」な話をしているような気もする。だが、我々もそろそろ「国民の物語」そのものを巡る議論をしていかなければいけないのだと思う。