民衆法廷 誠実性 議論の態度
「民衆法廷」が政治的な問題意識から発生しているというのは自明なわけでさ、重要なのはその内容に妥当性があるかどうかであって、その方法論の問題では無いと思うんだけどなあ。弁護士をつけるつけないの問題は結局は「民衆法廷」の誠実性が担保されるかされないかにすぎない。つまり、弁護士がいようがいまいが「民衆法廷」が誠実に行われていれば問題ない。そして「民衆法廷」が国家権力による裁判と箱となり正統性がないものである以上、その正当性の主張はまさに自らの誠実性に求めるしかないわけで、その点ではあらかじめ正統性を持ち、強制力を持つ国家権力による裁判に比べて「民衆法廷」が弁護士をつけねばならない理由は少ない。実際、「女性法廷」で弁護士がつかなかったのは、「つけなかった」のではなく、「つけられなかった」というテクニカルな問題だし。法廷が誠実に運営されていれば、最初の問題意識の政治性に関わり無く、それは公正なものだといえる。ただし、法廷が誠実だったかどうかはその内容を見なければ理解できず、また、誠実性は内容の正しさを担保しないので、その内容に関して批判が入るというのは理解できる。まあ、現状で、内容に踏み込んでいる批判は見たことが無いが。
ところで、こういう「民衆法廷」の意義とその批判の間のギャップは何なんだろうとか考えた。「民衆法廷」はあえて「法廷」という形をとることで、ある政治的問題を顕在化するのに、普通に主張するよりアピール力があって、また論点がよりクリアになるので、一種のパフォーマンスとしてやっているんだろうが、反発するほうはそれをベタに受け取ってしまっているような気がした。お前らは議論の態度がなっていない!という。ただ思うのは「民衆法廷」のようなやり方は今に始まったことではないわけだから、文脈を理解していればそれは議論の態度として容易に認められるということだ。議論の態度にこだわる人はたいてい自分の中に「正しい態度」というものを持っていて、自分の「正しい態度」と相手の「正しい態度」が一致しないとき、相手のはすべて「正しくない態度」になるのだろう。だから容易に「偏向した人民裁判」とか決め付けられるのだろうな。ともあれ、「民主法廷」アピールには成功したが、文脈が理解されずそれをベタにとってしまわれるのは政治的にはマイナスなんだろうなあとも思う。うーむ。でもこういう批判が起きるのは日本だけという気もしないでもないしなあ。