テロリストのようなムハンマドの絵を描くことと、国旗を焼くこと

例のムハンマドの絵問題で、一部のイスラム教徒が、デンマーク国旗を焼くなどの抗議行動をしているらしいが、いろいろ考えてしまった。
「国旗を焼く」という行為について、単に国旗を焼いたという理由だけで怒る人はいる。それは反日デモのときの、日本の保守系論壇を思い出せば分かることだ。
ところで、当の反日デモのとき、僕はこう書いていた。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040804#p1
空気嫁っていうのは、あくまでも相手に期待するものであって、当然のこととして相手に要求していいことではないと思うんだけど。だから、中国のブーイングしてる人に対してやるべきなのは「説得」であって、「説教」ではないと思うし、少なくとも自分が不快に思ったことを理由に、見下すような言い方をしてはいけないだろう。ブーイングをする側の「反日感情」が、彼らの勝手でしかないのと同様に、ブーイングに不快感を感じる側の「不快感」も、彼らの勝手でしかない。もちろん、直接的な暴力や妨害行為などはまったく別。

この考えは基本的に今でも変わっていない。「国旗を焼く」という行為は単なる行為ではなく、そこには様々な政治的なメッセージは含まれており、大事なのはそこを読み取ることであると思っている。
確かに、国旗を焼くという行為に対して不快感を得る人もいるだろう。しかし考えてみてほしい。彼らが国旗を焼くことでその人物に不快感を与えなければ、果たしてその人物は彼らの怒りに対して向き合うことをしたであろうか?

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051210/p1
「そっちが聞きたくなくても、こっちには話があるんだよ」。異議申し立てとは、概してそういうものだ。だから、その道を閉ざすことは、民主政治の死を意味する。

不快感を与えなければ、届かないメッセージだってある。相手を怒らせることで生まれるコミュニケーションもあるのだ。
では、「ムハンマドの絵」にも同じことが言えるのだろうか。「ムハンマドの絵」そのもので怒るのはイスラム教徒の勝手であり、もっと重要な政治的メッセージをその絵から読み取るべきだった、と。本質的には「イエス」だと思う。しかし、ヨーロッパ側は「表現の自由」の問題に落とし込むことで、イスラム教徒に政治的メッセージを読み取らせる契機と、対話のチャンスを自ら失ったのだと思う。それは最初からヨーロッパ側にイスラム教徒に対する侮蔑の感情があったからではないか。怒りはコミュニケーションを発生させるが、侮蔑はコミュニケーションを閉ざす。表現の自由とは、本来19世紀に市民革命を起こしたような人々が持っていた、怒りの政治的コミュニケーションを擁護するために用いられた思想ではなかったか。表現の自由によって、怒りのメッセージが届かずに捨てられてしまうとしたら、それは本末転倒ではないか。