歴史的事件の唯一無二性と『ホテル・ルワンダ』

「『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!」議論に関して。
経過は、
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225
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論点は大きく分けて二つある。一つはもちろん差別の問題で、町山氏に噛み付いた人間が愚劣なレイシストであることは議論するまでも無く明らかなことだ。
もうひとつの論点は多少厄介である。「町山氏が『ホテル・ルワンダ』のパンフレットで関東大震災朝鮮人虐殺問題を扱ったこと」すなわち、ある事件が普遍的な事例であることを主張するために別の事件を比較可能な事例として持ち出すことの問題であるが、これに対して多数の批判が寄せられているのである。
ある事件を普遍的なものとして扱うことは他方、その事件を相対化することであるという批判は昔からあって、たとえば一般的にユダヤ人はホロコーストアルメニア人虐殺などの別のジェノサイドと比較されることを嫌う。それはホロコーストの「唯一無二性」を犯すこととされるからである。1980年代のドイツ歴史家論争における争点のひとつがまさにこの問題であった。ノルテら「修正主義者」たちは、ホロコーストスターリンポルポトの虐殺と同様、普遍史的視座から捉えなおさなければいけないという議題を提出し、その反対者たちは、それはすなわちホロコーストの「相対化」であって、考慮されなければならない個々の虐殺の差異を排除し、ホロコーストの「恥ずべき特性」からドイツ人を免罪しようとするものであると強く批判した。
あらゆる比較史が不可能であるとは思わないが、比較によって失われる個々の事件の特有性があるというのは確かにその通りであろう。そして、『ホテル・ルワンダ』のような映画の場合、「ありふれた虐殺の一例」ではなく、まさにルワンダで行われたその事件事態に寄り添うことが求められているのだ、という主張は、確かに納得できるものではある。
しかし、だからこそ町山氏はパンフレットにおいて朝鮮人虐殺問題に触れなければいけなかったのではなかったか。

このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。
虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、
私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、
ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。

ノルテの「普遍化」が、ホロコーストの記憶からドイツ人を解放しようとする性格のものならば、町山氏の「普遍化」はその逆で、朝鮮人虐殺事件の、そのほか様々な事件の、記憶を要請するものである。言い換えれば、事件の「虐殺」という側面を単に「普遍化」しているのではなく、個々の事件が特有なものであって、それぞれがそれぞれ記憶されなければならない、ということを「普遍化」しているのだと思う。
他方、町山氏に対する批判者たちはもっぱら、氏の出自(元在日朝鮮人であること)を問題にする。つまり彼らは町山氏が彼らを(朝鮮人虐殺のことで)断罪していると感じているのであり、逆に言えば彼らは「もう断罪するな!」と言いたがっている。あるいは、彼らは『ホテル・ルワンダ』と朝鮮人虐殺の相違点を多く挙げ、事件の差異を主張する。しかし、だから何だと言うのだろう。そも町山氏はそうした差異−特異性を前提にしたうえで、その特異性がゆえに記憶せねばならない事件をあげていったのではなかったか。むしろこの文脈で差異を強調することこそ、「寄り添う」ことからかけ離れた、歴史的事件を類型化してよしとするような、最悪の相対化ではないか。
さらに、批判者たちは朝鮮人虐殺を記憶せよという町山氏の申し立てを排除したまま、では彼ら自身が朝鮮人虐殺についてどのように受け止めなければならないのか、という言及は、多くの場合無い。そのような者たちが、いくらルワンダの事件の比較不可能性を強調しても白々しいばかりである。「まず○○しないものに××はできない」という論法は本来嫌いなのだが、少なくとも一方で記憶への寄り添いを主張しておいて、他方で申し立てられた記憶を拒否することに正当性があるだろうか。「偽善」という評価が当てはまるのは、町山氏にではなくむしろその批判者たちのほうではないか。