努力教とハゲタカ教と最善説

http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080109/1199875970
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891
これらは本当に酷いです。本当に酷いと思っていたら、id:y_arimが何か書いていたので、私も便乗して何か書いておこうと思いました。
これらの記事は、いわゆる成功哲学とか自己啓発とかその手の分野に該当すると思いますが、こうした議論の前提にあるのは、何らかの楽天主義です。
上の記事は、自分が変われば世界はあなたにとって優しくなることを説いています。ネガティブはだめなのです。なるようになるのです。世界があなたを否定するのはあなたがさもしい心だからであって、あなたが心を入れ替えようと頑張ればきっと世界はあなたに報いるのです。灯里ちゃんが素敵だからこの世界は素敵なのです。そんなの僕らのARIAじゃない!!!
下の記事は、これはもう典型的な竹中平蔵主義です。優秀な人間が社会を引っ張っていくのです。ハゲタカ金融マンなどの優秀な人間は社会の人間みんなをハッピーにするのです。10分で直る機械を30万で買って3000万で売りさばいても、それはけして詐欺では無いのです。確かにそこで格差が生じるように見えるけど、それは格差では無いのです。格差が広がったのはけして彼らのせいでは無く、地道な努力に甘んじていたバカどもが悪いのです。最終的にはみんな幸せになるようになっているのです。だから、上げ潮なのです!みんなでアイデアを出し合えば、格差なんて解決するのです!ああ醜い!!!
さてこうした楽天主義は、17世紀にドイツで生まれた哲学者、ライプニッツの最善説を源流としていると言われています。
ライプニッツは「この世界はあらゆる可能な世界の中で最善の世界」であると言いました。その理屈はこうです。ライプニッツは、この世界に生じた事物・現象には、必ず何らかの理由があると考えました(充足理由律)。もちろん大部分の理由は人間には理解できませんが、神には理解できます。神はあらゆる可能性の中から、もっとも合理的な選択肢を選びつづけていきます。神はけして非合理な選択はしないのだから、いかに世の中に悲惨な事象が溢れようとも、それは大きな視点で見れば合理的な予定調和の中にあり、この世界は最善であるといえるわけです。つまり、最善の善ってのはこの世界は良いことで溢れてますよということではなくて、この世界がベストであるという意味ですが、まあぶっちゃけ酷い議論をしようと思えば出来なくも無い。
たとえば、あなたがワープアなのは、ニートなのは、非コミュなのは、みんな最善なのだ。ベストなのだ。だから現状に甘んじろという話にはなりません。しかし、少なくとも現状あなたがそうであるのは当然で、社会や世界に反感を持つのはお門違いなのです。
これはさすがにあんまりだ、と言った人物の一人に、18世紀のフランスで生まれた哲学者ヴォルテールがいます。ヴォルテールは、最初は最善説に対してそれほど否定的ではありませんでしたが、1755年のリスボン地震をきっかけに、一転して最善説を攻撃するようになります。これほどの悲惨を目の前にして、まだこの世界はベストであると物申すか、と。
ヴォルテールの最善説批判の哲学コントとして有名なのが、『カンディード』です。このコントでは、徹底的に最善説を揶揄した、パングロスという人物が登場します。主人公カンディードとパングロスは、ヨーロッパと新大陸を旅して廻り、行くところ行くところでとにかく酷い目に合うのですが、パングロスは一貫して「これがベストである」と言いつづけるのです。ジャックという商人の、戦争や財産を巡る争いを見るに人間は自然を堕落させたのではないか、という質問に、パングロスはこう答えます。

「そうしたことはすべて必要不可欠だった」と片目の博士はすかさず言い返した。「個々の不孝は全体の幸福をつくり出す。それゆえに、個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善なのだ」

ちなみにジャックはリスボン沖で溺死するのですが、パングロスは「リスボン沖の停泊地はあの再洗礼派の男(ジャック)が溺死するように特別につくられたのだと証明」するのです。
パングロスid:guri_2です。少なくとも、みんながありがたがっているあの記事をつきつめていけば、そうならざるを得ないのです。あのアドバイスは、世界の理不尽は見ないようにしようと言っているのみならず、そもそもあのアドバイス自体が、世界の理不尽は無いことにしないと成り立たないのですから。
もし、世界には理不尽があることを知っていて、あのようなアドバイスをしているとしたら、それはそのアドバイスが効果的かどうかに関わらず、欺瞞でしかありえません。id:fromdusktildawnならばそれでいいでしょう。竹中主義者に欺瞞以上のものを期待することは出来ません。勿論、それ以下は期待可能です。つまり本物のバカ野郎であるという期待ですが。ハゲタカに倫理は無いでしょう。そう装おうとはしていますが、もしそうでは無いこと、つまりハゲタカが他人の不幸の上に成り立つ成功であることを証明したとしても、彼らにとっては、つまりブクマで賞賛コメをつけている連中にとっては、成功すれば何だって良いのです。元々成功するためにはどうすればよいか書かれた記事であって、他人がどうなろうが知ったこっちゃ無いのです。3000万で売れると分っているものを30万で買うことは、世界が許しているから正当なのであって、倫理なんて知ったこっちゃ無いのです。ああ、つまりこれも理不尽ではありえない世界ですね。
でも、私は少なくともid:guri_2は倫理的であることを目指している、と思っています。だとすれば、あのアドバイスはけしてありがたがってはいけないのです。
同じヴォルテールの哲学コントに『ザディーグまたは運命』というものがあるのですが、そこで彼はサティーというインドの風習を紹介しています。サティーというのは、夫が死んで寡婦になった妻が、夫の葬式時に火葬するための炎に飛び込んで殉死する、という風習です。私達の感覚では、これは明らかに野蛮な行為です。ところが、id:guri_2式のアドバイスを前提にすると、これはどうしても認めざるを得ない。あのアドバイスには、世界の理不尽を許容するすべはあっても、世界の理不尽を弾劾するすべは無いからです。文化はそれぞれ。私達から見て理不尽でも、きっとその文化内では合理的なわけで、そういうものは見なければいことだ……。
ティーは遠い国の話です。しかし我々の社会にも、サティーは無いでしょうか。世の中の理不尽を気にしなくなることでその人が幸せになったとして、その代償として世の中の理不尽が当たり前のように許容されることになるとするならば、果たしてそれは倫理的にどうなのでしょう?もちろん、わたしこんな考え方でしあわせになったよーくらいのことだったら、ふーんですむ話です。しかし、そうした考え方があそこまでありがたがられるとは……少し恐怖を覚えてしまいます。
小市民的な生き方を行うことと、小市民的な生き方をありがたがることの間には、差があります。まさに19世紀前半のドイツは、小市民的な生き方がありがたがられた時代でした(ビーダーマイヤー時代)。ところが同時にそれは、ウィーン体制化で市民の政治的運動が強固に抑圧されていた時代でもありました。
別に世の中のことにもっと関心を持てよというつもりはありませんが、世の中に関心を持つなという考え方がありがたがられるのは、もう、ちょっと個人的にダメです。まして世の中の理不尽を正当とし、それに乗っかって成功するぜという考え方は、もう全然ダメなのです。