「野蛮な」文化について

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080110/1199954666
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080111/1200043013
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080115/1200386784
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080117/1200559138
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080118/1200645505
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080120/p1
文化という面から商業捕鯨を再開するべきだとする人に、「ある文化をよそから批判し、禁止することは是か非か」と問うたならば、そのほとんどが「否」と答えるでしょう。それは、「捕鯨は文化なのであって、よそからどうこう言われる筋合いは無い」とする自らの見解に反することになるからです。
しかし、そうであるとするならば、そもそも生態系の問題を論点にすること自体が不必要な行為なはずです。なぜなら、「ある文化をよそから批判し、禁止すること」が否ならば、生態系にどんな影響があろうが、そもそもそれに対する批判は出来ないことになるからです。現に、先住民捕鯨枠では、絶滅しかねない鯨の捕鯨が許されています。
もちろんそう指摘すると、「一定の条件(たとえば生態系に影響があるような)においては、ある文化を批判し、禁止することは是なのだ」と大した抵抗も無く返答されると思います。しかし日本の捕鯨は(科学的データによれば)生態系を犯していないのであって、許される文化であると。
けれども、そうなると今度は先住民捕鯨のほうが禁止されるべきということになります。「絶滅しかねない鯨を捕る」という条件の前に、文化は免罪符では無くなるからです。実際、先住民捕鯨枠も廃止しするべきであるという声は、捕鯨賛成派・反対派の両方に一定量存在していたはずです。
先住民捕鯨を尊重しようとするならば、さらに条件を加える必要があります。「ただし、その条件を満たしていなくても、保護されるべき文化がある」と。
すると今度は、その「条件を満たしていなくても、保護されるべき文化」の条件を設定しなければいけなくなり、最早「文化」という錦の御旗を立てること自体が無意味に思えてきます。
それでもやはり「文化」という観点は重要だ、と言うかもしれません。実際、反捕鯨の奴らは「捕鯨という文化」自体を攻撃しているじゃないか、と。
もちろん既に「一定の条件(たとえば生態系に影響があるような)においては、ある文化を批判し、禁止することは是」ということは認められているので、文化への攻撃自体を批判することは出来ません。ここで問題になるのは、価値基準の問題です。反捕鯨派は、捕鯨派とは異なるそれ自体「ある文化」に過ぎない価値基準でもって捕鯨派を攻撃しているが、それは不当である、と。
確かに、本当にある個別的な価値基準(たとえば知性のある鯨は捕獲してはならない)をもって捕鯨を攻撃している人もいるでしょう。しかし、多くの反捕鯨派、日本の捕鯨派が槍玉に挙げるところの欧米の反捕鯨派の考えは、「ある文化」に過ぎない価値基準(欧米的価値観)をもってしているとは、必ずしも限らないと思います。
たとえば

http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/2020/161/
−最後に、このいわゆる捕鯨問題は、クジラを食べる習慣を持たない国々による日本に対する文化侵略だとの声があります。こういった意見を聞いてどう思われますか。
英国はかつて、日本よりもずっと強い捕鯨文化を持っていました。今から200年程前、日本が捕鯨を本格的に開始する以前から、英国を含めた欧州諸国は捕鯨活動を行っていたのです。*1日本にクジラを撃つための大砲の使い方を教えたのもノルウェーです。(クジラ生物学者ヴァシリ・パパスタブルさんの主張)

つまり、「我々もかつては野蛮な文化を持っていたが既に廃止した。日本も廃止するべきだ」ということなのです。これは、安易に文化侵略と決め付けることは出来ません。たとえば、「我々もかつては奴隷制度という野蛮な文化を持っていたが既に廃止した。××も廃止するべきだ」というケースを考えれば分るでしょう。
これは啓蒙主義的で鼻持ちならない「西洋」合理主義の産物たる理屈であることは確かであって、実際文化侵略に繋がる危険な側面も持ち合わせています。まさに19世紀以降の植民地では、こうした理屈がまかり通っていたのですから。
しかし、前々回のエントリで紹介したサティーは、イギリス支配下において、かなり純粋に人道的な理由から禁止され廃れていったのも事実です。もしイギリスに『嫌韓流』ならぬ『嫌印流』があったとするならば、まっさきにこの事実が喜々として書かれているたぐいの。
奴隷制度やサティー捕鯨を比較されることに抵抗があるならば、このような例はどうでしょうか。
蒸気機関車を今なお走らせている国Aがあるとします。環境面からそれを批判する国Bに対してAは「蒸気機関車は文化である」と反論します。それに対するBの返答はこうです。

「われわれの国もかつては蒸気機関車を走らせてきた。しかし、今はしていない。文化保護の面から蒸気機関車を走らせる地域があってもかまわないし、財力などの面で蒸気機関車を電車に代えることが出来ない場合はやむをえないかもしれない。しかし、A国は財力などの面において余裕はあるし、蒸気機関車はA国の伝統文化ではない。また、A国の乗客も特に蒸気機関車に乗りたがっているわけではない。あえて蒸気機関車である必要は無いのではないか?

私は何も捕鯨が野蛮な文化であると言う気はありませんが、「食わなくて良いものを食う必要は無いだろう」と言われたときに、「我々の文化に口を出すな」と反論することは、むしろそう反論すること自体が「野蛮であること」を認めたことにもなりかねません。我々は既に文化は免罪符にならないことを知っています。そうした中で文化を錦の御旗にしようとする行為は、(つまり、理由はいかんせん「文化」なのだから文句言うなと言っているに等しいので)自ら弁解の機会を失っているとも言えます。
文化を理由に反捕鯨に対抗しようとする事は、一般に考えているよりは分が悪いのです。

*1:強調部引用者