「民民関係」と排除の論理

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080131-OYT1T00411.htm
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080203/1202024491
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080203/1202024491
この話がややこしくなっているのは、ホテル側が日教組と一回契約をしてしまったことにある。
「相手に落ち度が無いのに契約を破棄しちゃいけないだろ常考」という考えにおいて出された高裁判断であるし、日教組を叩きたくてたまらない人たちが「自称中立」を決め込まなければならなくなっているのも、契約破棄はさすがにまずいという良心である。
ただ、もしこの事例が、ホテル側が、明らかに日教組の思想を理由としているのだけど何か別の理由をこさえあげて、はじめから契約も結ばなかった、というものであったとしたら、もちろんこのような高裁判断も出ないし、「民民関係なんだから別に契約しなくたってよいだろ」というブクマコメントがだらだら付いたことであろう。
我々の社会は、少なくとも現在の日本社会は、「民民関係」という建前のもと、または「私的自由の尊重」という建前のもと、ある個人またはある集団を排除することを肯定する社会である。それは例のビラ巻き事件で証明されたはずだ。ビラ巻き事件では、明らかに共産党のビラを恣意的に排除しようとする意図があったが、あたかもそこが論点では無いような建前(住居侵入)を持ち出すことに成功した。ホテルの例も同じで、ホテル側は日教組を排除しようとした。ただ、ビラ巻き事件では建前の構築に成功したが、このホテルの事件では失敗した。それだけのことだ*1
この事件はホテル側の「失態」のおかげで排除される側に対してある程度の同情が向いているが、これははっきりいえばかなりラッキーなことで、普通は排除される側が排除されることは当然とされる。それは政治団体に関わらず、どこぞの狭いナントカの大先生がおっしゃっていたホームレスもそうだし、村八分なんてのもまあ当てはまるし、当然外国人も。もちろん、「この銭湯外国人お断り」など露骨にやればそれは差別だと言われてしまうが*2、何らかの別の建前を用意しておけば、それは「民民(ry」のもと正当化されるのである。
ホテル側のコンプライアンスどーなってんのという論点は、確かに一番ツッコミどころがあるし、恐らくそこに的を絞って議論すれば負けはしないだろう。ただし、それは「じゃあ最初から契約しなければよかったんですよねー」という逃げ道を用意するという点で、次の排除に対して荷担することになる。契約を破ったホテルは「商売人として」問題があるというなら、白人と黒人の席を分けたバス会社は「商売人として」正しい。根本的な価値の問題をなおざりにして「やり方がまずかった」ことを問題にすることは、逆に言えば「やり方」が良ければどんな価値だろうが良いということになってしまう*3。たとえば橋下陣営の選挙戦術の巧さと熊谷陣営の選挙戦術の稚拙さを指摘して、橋下の勝利を「当然」*4と言い切る人々にもいえることだが。
もちろん、この事件に関して法曹の方々が法律的なホテルの誤りを指摘しているのは心強いと思うが、それだけではなく、むしろ本質は、やはり日教組という特定の集団の、カジュアルな排除という意図にあると言うべきだと思う。

*1:ホテル側は日教組の思想自体を理由にせず、右翼団体のせいにした。もし建前の理由がもっとそれらしいものであったとすれば結果はどうなっていたか。

*2:まあ逆に言えばそれくらいの防波堤はあるということではあるが、しかし。

*3:それこそ「やり方がまずい」ことになってしまう

*4:理由がある、という以上の強い価値判断を含んだ