アレゴリー化する悲惨体験

http://d.hatena.ne.jp/sync_sync/20080226
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51009734.html
sync_sync氏は、自己責任を痛感すべきだ。もちろん、小飼弾なんかに教えてコールしたことをだが。
ぼくが診断するに、この人は末期の自己責任病患者である。

まずは、「責任」という言葉を一端忘れて、「権利」を行使しているのだと考えてみてはどうか。「私はこの会社で働く責任がある」のではなく、「私はこの会社で働く権利を行使している」のだと。それだけで、世の中の見え方がだいぶ変わってくるはず。自己責任ではなく自己権利。「やむなく」でなく「あえて」、「余儀なくされる」のではなくて「踏み切る」。

いやまさにそれこそ、(人質事件以降)一般的に理解されている意味での自己責任ですから!この考え方が身体に染み付いてしまうと、どんな体験談であっても、その人の心を一ミリも動かすことは出来ない。なぜならば、すべての悲劇的な体験談は、「適切なときに適切な判断を行わなかった話」というアレゴリーとしてしか理解されなくなるからだ。転職適齢期に転職しなかった。いびつなシステム(常識!)を見抜けなかった。まさに冬が来ると分っていてもキリギリスさんは遊んでいましたねと説明するような口ぶりで。小飼弾にとってsync_sync氏の体験談は、イソップの「アリとキリギリス」の話と同じくらいの価値しか無い。
「転居の自由」があるから、地域格差がイヤなら都会に引っ越せば良いだって!この人は、ブラジルやフィリピンや、その他世界中の発展途上国で地方から都市に出てきてスラムを形成している人々をどう思っているのだろう。彼らは自己権利を行使した「賢明な」人々なんでしょうかね。
日本の話をしてもいい。商店街がありましたジャスコできました商店街潰れました商店街は努力が足りなかったのだ嫌なら都会出て行け。もっと酷い例もある。この町に米軍基地をつくることが決まりましたよ嫌な人は転居の自由があるので出て行ってね。
自己権利、選択の権利という美しい言葉が覆い隠すのは、まさにこうした、選択する人々とその人々が置かれている環境の、圧倒的な非対称性である。彼らは銃を突きつけられながら契約書にサインをするかどうかの「選択」をしているようなものだ。そして、大多数の人々にはとっさの機転で銃を奪う身体能力も無いし、勘違いするなお前を倒すのは俺だと言って助けに来るシナイダー様もいないのだ。
仕事の選択だって似たようなものだ。労使関係というものが対等だと本気で思っていなければ、この会社で働く権利なんていう寒々しい言葉を吐けるはずが無い。
さて、こうした状況をふまえて、「俺は自己権利を行使しているのだ」とつぶやいてみよう。
・・・腑に落ちない。
当たり前である。だって「自己権利の行使」は自己責任神学のアレゴリーの中でしかリアリティを持ち得ないものだから。まあ確かにそれは喜劇に変わる。「あなたが今、辛い思いをしているのは周りに強いられたからじゃなくてあなたの選択のせいなのですよ」と、ロープに吊るされている男の前で言うたぐいの喜劇だが。
このグロテスクな喜劇はどこから生まれるのか。キリギリスが死んだと告げる紙芝居屋は紙芝居の中の世界について語っている。しかし、ジャスコのせいでつぶれる商店街は自己責任だと語る我々はどうか。なぜ我々がジャスコで物を買い商店街で買わなかったかといえば、小飼弾に言わせればジャスコのサービスが良かったからあるいは商店街の品物が高かったからではなく、我々が商店街で買わずジャスコで買うことを選択したからだ。小飼弾アフィリエイトで儲けたお金をアマゾンのせいで苦しんでいる地方の本屋に寄付しないのかと言えば、それが本屋の自己責任だからではなく子飼弾が寄付をしないことを選択したからだ。
しかるに、あなたが今不幸なのは世間が悪いのではなくあなたの選択なのだと言われたときは、太宰治よろしくこう言わなければいけない。世間とはつまりあなたのことでしょうと。
なんのことは無い。アレゴリー化を必要としているのはまさに小飼弾自身なのだ。あなたは適切な選択をしなかったのが悪いのであって私のせいではない。正確に言えば、私がそのシステムを利用して儲けさせてもらっているところの社会のせいではない。
こうして、世の中の人々の悲惨な体験談は、すべて自己責任神学を保証するためのアレゴリーとして再生産される。どんなに結果が痛烈なものであろうと、むしろそれは歓迎される。酷い結末であればあるほど、教訓にはふさわしいものだ。
まだ自己責任教をこじらせていなければこちらをどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/repon/20080227#1204119760