石橋湛山がすごい

今更?いや、すごいとは聞かされていたが。
100年前にしてはリベラルですねすごいなあじゃない。むしろネオリベが跋扈する今だからこそ、アクチュアルな問題として全然読めてしまう。
昔の文献を読んで、ああこれ今とそっくりだなあということはよくあるけども、固有名を入れ替えただけでロジックからレトリックまで含めてそっくりそのまま今でもいけるんじゃねと思わせるような文章は少ない。
「古きよき」自由主義者の洗練されたレトリックと、「小国主義」のようなラディカルな視点が融合して、かなりクリティカルな社会批判になっていると思う。
たとえば、「素朴な反国民国家世界市民主義ってネオリベを利するだけだから批判したいけど、かといってナショナリズムぽくなるのも嫌だし、俺リベラルだからリベラルっぽい批判したいなあ」ってときあるじゃない。
明治45年の時点で、石橋湛山も(ネオリベはともかく)同じようなことを思っていたらしい。

近頃私はしばしば文芸家とか哲学者とかいう側の人から、我々は国民として生きる前に個人として生きたいとか、あるいは、我々は国民として存在する以上に(もしくは共に)人類として存在するとかいう種類の言葉をきく。

これに対して湛山はこう答える。

人が国家を形作り国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。人の形づくり、人の一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである。

されば「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」という言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に人は人として生きねばならぬのである。否、生きざるを得ないのである。何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。

つまり「人は人として生きねばならぬ」ことを前提にして、それがゆえに国家の問題や社会の問題に関わっていかなければいけないと説く。今でも、リベラルとしての模範解答ではないだろうか。
ついでに、彼は教科書問題についても一言いいたいようです。長いけど引用すると

しかるに右の教育について、また我が国人は非難を浴せる。支那が、その国民教育において、排外思想、殊に排日思想を鼓吹するが不都合だというんである。満鉄付属の東亜経済調査局が近頃発表せる『支那定排日読本』なる調査によるに、なるほど支那教科書の排日記事は、随分露骨で、また多数である。しかしこれも支那の今日の立場から考えれば、一概に非難し難い。前にもちょっと触れたる如く、支那は今日何事を差し置いても、国民の愛国心を鼓舞し、国家の統一を図らねばならぬ時期にある。これはあたかも我が国が、明治維新の大業を完成するために、国民の間に極端なる国家主義を鼓吹する必要のあったと同様だ。而して今日支那が、国民の間に国家主義を鼓吹するには、いかなる教育者が考えたとて、支那清朝末期以来、諸外国に圧迫せられ、国力の衰微するに至った歴史を以てする以上に、有力なる教材を発見することは困難であろう。それは例えば我が国の小学校教科書に、日清戦争日露戦争の記事の多きと比すべきもの。ただ不幸にして支那には近年外国と事を構えて、敗退の歴史のみあって、光栄ある勝利の記録がないからにして、自然その記事が悲憤慷慨的なるはやむをえない。記者は敢えて支那を弁護するではないが、自ら省みて、彼の立場に同情せざるを得ない。
しかもそれらの支那教科書のいわゆる排日記事が、或る人々の説く如く、全く虚構の事実に拠れるやというに、なるほど事を若干過大に取り扱える節は往々認められる。しかしさすがにいずれも新しい歴史の事実であるだけに、全然虚偽と見なされるべきものはない。のみならず彼はまた善く自国の欠点も認め、過去の政治の誤りを説いている。仔細にそれらを読めば、彼らのいわゆる排外排日記事が、単なる排外排日を目的とせるものにあらざることが解せられる。

稲田朋美先生!ここに反日主義者がいますよ!あんたの党の元首相ですけども!

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)