消極的自由は児童ポルノを擁護しうるか

http://d.hatena.ne.jp/demian/20080314
例えばなんとなく自分に近い感じの男性がレイプされる映像表現や文章表現を見た場合、わたしは恐らく生理的な嫌悪感を覚えます。また、わたしが自分の意思に沿わない相手から性的な接触を強く迫られた場合に非常に嫌な気持ちになることが想像されます。そうでなくとも性的な視線でジロジロ見られるのも嫌なものでしょう(そして多くの女性が社会の中で「性的な視線でジロジロ見られる」ことで非常にキツイことになっている、という指摘がありましたね)。

児童ポルノ法改正論者にとって、このあたりが感覚的な橋頭堡のような気がしますね。わたしがどこかで性の対象になっているかもしれない恐怖。彼らがあのマンガに向けている性的な欲望は、実はわたしに向けられるはずだったのかもしれない恐怖。大人だったら、まあある部分で折り合いをつけなきゃいけないところがあるとしても、子どもは?っていう部分で。
ゾーニング、という話はもちろん出るんだろうけど、オタクの広大な世界は既に知られているわけで、不可視化されたところで恐怖心は消えないというか、よけいに増幅されてしまう場合もあるかもしれない。
もちろん、だから規制すべきだとは思わないし、そもそもぼくは児童ポルノ法改正に反対なのだけれども、このへんの恐怖心は切り捨ててはダメなんじゃないかなあと思っている。
その点で、児童ポルノ法改正反対者が、「内心の自由」を持ち出すのは結構危ういとも思う。それはその欲望の対象者にとっては、「自分達を心の中で犯しても構わない自由」だよね。古典的な「消極的自由」の文脈ではアリなのかも分らんけど、どうなんですかそれは。
内心の自由」を持ち出す人は、「心の中でレイプしたらそれは実際にレイプしたのと一緒です」というキリスト教の格言に対しては勿論反対なのだろうしそれはいいのだけれど、じゃあこの格言を対象の視点から見た受動態にしてみると?「私があなたにあなたの心の中でレイプされるならば、それは私があなたに実際にレイプされるのと一緒です」これに反対するかどうかも考えてみるべきじゃないかと思うよ。
少なくともぼくは答えが出ていないので、児童ポルノ法の反対は法律のテクニカルな問題点(政治的な敵対者に対して、恣意的な運用がなされかねない、私的な家族写真まで対象になりかねないなど)を中心にしつつ、二次元規制に関しては対話を続けていくしかないんじゃないかなあと思ってたりする。

関連?
http://d.hatena.ne.jp/Domino-R/20080314/1205468793