「殺すな!」と「殺せ!」

光市母子殺害事件チベット問題に関するはてな村*1の反応は、サヨク批判はまあ一緒だが、他に関しては一見異なるように見える。だが、実はコインの裏表の関係にすぎないと思う。
ネットを巡回したところ、チベット問題に対して共通して掲げるべき唯一のスローガンは「殺すな!」であるらしい。確かに、複雑な歴史や政治の問題が絡み合ったチベット暴動に対して、「殺すな!」だけがあらゆる正義を体現しているかに見えた。それ以上は「蛇足」として扱われた。「殺すな!」に同意してさえ、それ以上の問題について深く言及することは非難の対象になる。自明の正義たる「殺すな!」の貫徹が、最優先事項であったのだ。
しかし、果たして「殺すな!」は自明では無かった。いまやはてな村では「殺せ!」のスローガンで溢れ返っている。ここにおいても持ち出されているのは「社会正義」つまり「正義」の概念であった。「社会正義」のためには、人間を二人も殺した凶悪殺人犯は、殺されなければいけない。「殺せ!」のメッセージはゆえに自明であって、それに大して懐疑を示すことは批判の対象になるか、あるいは「殺せ!」と叫ぶついでに槍玉にあげられるのである。
しかし、我々がある「社会正義」を「自明」であると認識するとはどういうことだろうか。「自明」性は何によって理解されるのか。「民意」だろうか。「民意」だとするならば「民」の範囲はどこか。たとえばチベットにおいては「殺すな!」を社会正義と決めるのは誰か。チベット人か?あるいはチベット居住の非チベット人も入るのか?中国人全体か?あるいは「国際世論」か?あるいは光市事件における「死刑」の民意はどこか。被害者の遺族か?日本人全体か?日本人だとするならば、死刑廃止が多数をしめる国際社会の「民意」を反映しなくてよいのは何故か?
たとえば、「自明(ア・プリオリ)」をカント的な意味で解釈するならば、我々が時と場合において「殺せ!」と「殺すな!」を使い分けること自体、それらが自明でない証拠に他ならない。「自明」であるということは、いつ、どこでもそれが先立って妥当するということであり、時と場合において妥当したり妥当しなかったりするならば、それはまったく自明では無いのだ。
ぼくは、あらゆる「社会正義」がこうした厳しい自明性を有していなければいけないとは思わないが、そもそも「殺すな!」を小田実が最初に唱えたときは、「いかなる理由であれ殺すな!」という、かなりラディカルなものであって、だからこそ党派を超えた連帯を可能にするような、強烈なインパクトを持っていたのだと思われる。
おそらく、今チベット問題において「殺すな!」を唱えている人で、「いかなる理由であれ」と前置きできる人間は少数だと思う*2。そして、中国に対して「殺すな!」を唱えている人間の多くは恐らく、光市事件においては「殺せ!」と叫んでいるのではないかと思われる。「殺せ!」を留保した「殺すな!」のメッセージは、もはや正当性の根拠を自明性に置くことができない。代わりに正当性の根拠として立ち上がってくるのが、自分達の「殺せ!」と「殺すな!」の使い分けの基準に賛同を示す味方の存在である。ゆえに、それに賛同しない「敵」が叩かれるのである。
彼らは言う。チベット問題はサヨクにとって「売名」のチャンスであったのに、みすみすその好機を逃してしまっていると。他方で彼らはこうも言う。安田弁護士などの「サヨク」弁護士は、光市事件の差し戻しをチャンスとして「売名」に走った卑劣な人間であると。いったい「売名」は良いことなの悪いことなのどっち?と思うわけだが、彼らにしてみればこれは一貫していて、つまり彼らの基準においてチベットでは「殺すな!」が正当であり従ってそれに即した売名は良いことだが、光市では「殺せ!」が正当でありそれに反した売名は悪い。
彼らはなおも言う。自分達は「戦略」を批判しているだけであると。しかし、その「戦略」はいかなる基準によってなされるのか。もちろん、彼らの「殺せ!」と「殺すな!」の基準に即してである。つまり、「戦略」を批判しているのではなく、要は「味方」になれと言っているにすぎない。「味方」にならなければつまり「敵」であるので非難をする。
確かに彼らは多数派であるので、それぐらいの態度を取る余裕は十分にあるのかもしれないと思うのだが、しかしこうも思うのである。「殺せ!」と「殺すな!」の使い分けの基準において「味方」と「敵」が区別されることを当然と思うことが、まさにチベットパレスチナやその他、世界のどこかで起きている抑圧や虐殺の要因ではないか、と。
(追記)
誰か日本語に不特定動作主の概念と接続法Ⅰ式の概念を導入してください。

*1:キモい

*2:ぼくの立場としても、ちょっと分らない。そう言いたいとは思っているし、もちろん死刑廃止派なので光市事件には「殺すな!」と言っているわけだけど。