敵対関係について

http://d.hatena.ne.jp/oredoco/20080512/1210591521

敵というのは、利害関係が一致しないもの同士のことをさすと仮定しよう。厳密に言葉の定義をしたほうが良いのだが省略する。で、貧乏人の敵は貧乏人、貧乏人の敵は金持ち、金持ちの敵は貧乏人、金持ちの敵は金持ちと4種類できるが、どれも真理であって間違いがない

むしろ言葉の定義をするべきです。というのは、まさにこれはカール・シュミットが『政治的なものの概念』で述べた「(自由主義は)精神と経済とのジレンマにおいて、敵を、取引の面からは競争相手に、精神の面からは論争相手に、解消しようとする」事例に他ならないからです。ダンコーガイが小市民の敵は小市民であるというとき、それは資本主義的な社会関係の中でお互いが「足を引っ張り合う」ことを指して言っているのであり、資本主義弱者であるウィンプから資本主義強者であるマッチョになれと言っているのです。すなわち彼が言う「敵」とは、ただの「競争相手」に過ぎないのです。これはただ「君達は資本主義の制度の中でせいぜい踊っていたまえふはは」と言っているに過ぎないのであり、即刻ギロチンにかけるべき物言いなわけですが、こうしたプロパガンダにだまされる人が多いのは悲しいことです。
貧乏人の敵は金持ちであって、貧乏人ではありえません。この伝統的な敵対関係が解消されうるような社会的変化はおこっていないので、現状においては金持ちと貧乏人は敵対しているという事実を認めなければいけません。では、この対立は本質的なものでしょうか。もちろん違います。敵対関係とはいかなる場合でも偶有的なものなのです。しかし、間違えてはいけないのは、だからといってその敵対関係が、「対話」による「合意」によって解決するものではないということです、敵対する相手を単なる「論争相手」に解消することは、シュミットが述べているように「経済的競争相手」に解消するのと同様の過ちであると考えなければいけません。なぜならば、いくら議論しても合意に至ることが無いような敵対関係というものは存在するからです。
たとえば、何がなんでも卒業式は君が代/卒業式では国歌を歌うべきだが君が代は別のものにするべき/卒業式はすべきだが国歌は歌うべきではない/卒業式いらない/学校いらない、というそれぞれの立場があったとき、中間にある「卒業式はすべきだが国歌は歌うべきではない」は、それぞれの立場を納得させるものでしょうか。そんなわけ無いですよね。「卒業式では国歌を歌うべきだが君が代は別のものにするべき」派が「卒業式いらない」派に、「じゃあ卒業式で何をするんだ対案を出せ」っていうのは滑稽ですよね。いやそもそも卒業式いらないって言ってるんですけど。唯一、対話で解決しうる可能性としては、一つの派閥が驚異的な弁舌で他の派閥を洗脳して取り込んでしまうことですが、議論は「相手の立場を尊重」とかしなければならないらしいので、ハードルは高いわけです。だいいち、そんなことが出来ると信じられていれば左翼が「自分たちの立場が唯一の正義だと思っている」「上から目線」などと罵られることは無いわけですから、まあ非現実的と言ってよいでしょう。
シャンタル・ムフ自由主義者ながらシュミットの議論を受け止めつつ、ハーバーマスの「討議民主主義」のような自由主義的な民主主義を批判します*1

実際今日、人道主義というレトリックは、政治的な力関係に取って代わりつつある。そして西洋自由主義は、共産主義の衰退とともに、敵対関係(antagonism)が根絶されたと考える。「再帰的な近代」(reflexive modernity)の段階に達するとき、倫理は政治に取って代わりうる。友と敵という政治の伝統的な形態が、「旧来の友・敵関係を超えた同一性」の発展によって、終焉を迎えつつあると言われる。国際的に行使されうる民主主義の「審議的」あるいは「対話的」形態の諸条件がすでに整ったと主張されるのである。しかし残念なことに、「政治的なもの」に固有の闘争が根絶できないこと、また政治的なものが法の「外部者」であること、こういったシュミットの主張は、これら全てが希望的観測にすぎないことを暴露するのである*2

ムフは、(それは必ず達成しうる)最終的な合意を目指して討議を続けていくという民主社会ではなくて、けして合意しえない複数の集団が存在することを認めることこそ、民主社会の大前提だというのです。自由主義が「敵対関係」を排除してきたことによって何が起こったでしょうか。テロリズムや暴動―もちろん2005年パリ暴動が参照されるべきです―つまり、自由主義者たちが「非合理的なもの」の突発的現象と呼んできたものの表出であって、これはスラヴォイ・ジジェクが主張する「ポスト政治的な」自由主義的寛容の行き詰まりなのです。
では、我々にはいかなる方策があるのかという問題があって、たとえばムフの言う克服も本当に克服なのかという点でちょっと吟味しなければいけないのですけど、まあこの場合、一番簡単なのは革命を起こしてダンコーガイをギロチンにかけることなわけです。ただもし我々がそのような解決策を望まないとすれば、かえって我々は安直に「対話可能性」について言及するべきでは無いし、逆に合意が不可能な敵対関係が存在する*3という事実を可視的なものにしておかなければいけないのではないでしょうか。

*1:シャンタル・ムフ編『脱構築プラグマティズム』一章「脱構築およびプラグマティズムと民主政治」、シャンタル・ムフ編『カール・シュミットの挑戦』序章「シュミットの挑戦」など

*2:「シュミットの挑戦」より

*3:一見、敵対しているように見えるものが実は敵対関係ではないという場合ももちろん多くありますが、だからといって全て敵対関係は敵対関係ではないということにはなりません