寛容は不寛容を寛容しない

http://macska.org/article/225
講演中、かれは「原理主義無神論者」を批判するクリス・ヘッジズ『I Don’t Believe in Atheists』に言及しながら、「無神論原理主義なんて誰も怖がりはしないだろう、『もっと理性的に話をしよう』と言うだけなんだから」と嘲笑した。しかし現実に「新しい無神論」の代表的論客の何人かが、機会があるごとに米国のイラク侵攻を熱烈に支持する発言を続けている(ばかりか、イランが核兵器を持つ前に核で先制攻撃をしろとまで言っている人もいる)ことや、西欧におけるイスラム系移民排斥の口実がもはや「キリスト教文明を守るためにイスラム教徒を追い出せ」ではなく「女性や同性愛者の権利、言論の自由など近代リベラリズムの原則を理解しようとしないやつらを追い出せ、入れるな」となっているーーそれは要するに、近代リベラリズムの原則がイスラム系移民ら「市民」とみなされない人たちには完全に適用されないまま、体制への忠誠だけを求められていることを示しているがーーことを考えれば、楽観的に過ぎるのではないかと思う。

フランスの中世史家ジャック・ル=ゴフは、ドイツの大衆紙ツァイトの1999年のインタビューにおいて、統合ヨーロッパが「キリスト教道徳」によって結びついた共同体であることを実証的に退け、ヨーロッパには多様性があることを強調しつつも、それを結び付けている紐帯として人権思想や寛容の理念をあげた。そして、彼はそれゆえにトルコのEU加盟に反対するのである。トルコはイスラム国家だからではなく、アルメニア問題など人権思想を十分に理解していないから排除されなければならない。統合の紐帯としての人権思想を理解していない国の加盟は、統合そのものを脅かすからである。アナール第三世代の重鎮たるル=ゴフが、寛容の理念を十分に理解していないはずはない。にもかかわらず、その彼でさえ寛容を理解していない国家に対しては不寛容にならざるを得ない。このことは、寛容の理念のひとつの限界を示している。
確かに、ル=ゴフの立場も理解できないわけではないのである。つまり、アルメニア人虐殺問題のような人権侵害にさえ寛容を通すことは、結局はポストモダンの不毛な相対主義に陥ってしまうのではないかという危惧である。まして彼は歴史家であり、歴史家はポモ思想が大嫌いと相場は決まっている。確かに我々は異なる他者とどのように共存すべきかの解決策をいまだ見出せていないし、その答えは相対主義ではないことは事実であるだろう。しかし、だからといって寛容の理念を帝国主義的に押し付けることもまた答えではないのではないか。
2005年に発生したムハンマド風刺漫画掲載問題は、寛容の理念の暴力性を露にした。デンマークのユランズ・ポステン紙にのったムハンマド風刺画へのイスラム諸国の非難に対して、ヨーロッパ諸国の雑誌や新聞は「表現の自由」を守るためと称し、その風刺画を転載したのである。これは事態の収拾という点においてはまったく意味の無い挑発であった。しかし、他方でこの事実は必然であったともいえる。つまり寛容の理念は、不寛容を「敵」として退け敵対的な態度を取ることによってしか確保しえないということを示しているのである。
文化や政治における敵対関係を、理性的な討議の場に解消することが寛容の理念の根幹であったはずなのだが、しかしムハンマド風刺画事件においては寛容の理念を守るために、討議を遮断する装置として「表現の自由」が主張された。つまりそれを認めるかどうかで敵か味方かが決まり、認めない立場の主張はノイズとしてしか見なされないのである。これは理屈の矛盾であるばかりか、寛容の理念の正当性すら危険にさらすのではないか。
ヨーロッパの極右政党のロジックは、何度も紹介しているが、まさにこの寛容の理念の裏返しである。つまり、寛容を理解できない移民には帰っていただこうと言うのだ。こうなってしまえばただの相対主義であり、唾棄すべき「ポモ思想」となんら変わらなくなってしまう。
そればかりか、その相対主義がさらに反転して全体主義に陥ることがある。たとえば「ここはみんなの場所であってあなただけの場所ではない」という、不快感至上主義者様が好んで使いそうなフレーズを考えてみよう。まず前半部分では寛容を説いている。ところが後半では一転不寛容を説いているのである。ある人々は後半が不寛容であるとは認めないかもしれない。しかし、このフレーズが実際に適用される場合を考えてみればいい。たとえば公園で寝ているホームレスが排除されるとき、このフレーズは盛んに用いられる。しかし、「みんなの場所である」ということは「あなたの場所でもある」ということでもある。しかし公園で寝ることは許されない。それは「あなただけの場所」として公園を使用したことになるからである。そのタブーにふれた「あなた」は排除されるのである。ところで、「あなたの場所」と「あなただけの場所」の境界線はどこにあるか?境界線を決めるのは誰か?「みんな」の「対話」だろうか?しかし、「対話」のテーブルにつくことが出来るのは「寛容」の理念に同意したものだけであって、「寛容」を犯したとされるホームレスは、どうやってそのテーブルにつく権利を勝ち取ればいいのか?ここまで考えると、おのずと寛容の皮を被ったグロテスクな全体主義にたどりつくはずだ。
それでもなお寛容と不寛容の間に線を引かなければいけないとするなら、我々はその線は流動的なものであることを認識しなければいけないのではないか。自分が寛容だと思っていることは明日は不寛容かもしれないし、昨日不寛容だったことが今日寛容になったかもしれないという、そのような視角を常に持つべきなのかもしれない。