「非日常」への投企

この話はかなり盛大なブーメランがかえってきそうで怖いんですが。

「観客になる」のは「非日常」から自己を守るための儀式みたいなものでは。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080608/p1

逆じゃないかなあ、と思う。「現場の動画や写真を撮」った人たちは、「非日常」から自己を守ろうとしたんじゃなくて、むしろ積極的に「非日常」の中に自己を投企させていったのでは。つまり、彼は(言葉の定義にもよるのだが)ただそこにいるだけでは「観客」である(ようにみえる)。しかし、動画や写真を撮ることによって、彼はまさにネットの前で待ち構えている我々(あえて我々という)「観客」に対する「当事者」になろうとしたのではないか。
youtubeやニコ動において、みんなが賞賛してきたインタラクティブ性というのはつまりこういうことなんだと思う。偶然センセーショナルな事件の現場に遭遇しました、という事態は、自分が(受容者ではなく)「一次コンテンツ」の発信者になるチャンスに他ならない。これはやはりプロのジャーナリズムとは異なっていて、まあもちろんジャーナリズムにそのような性質が無いとは言わないけど、少なくともコンテンツの発信者と受信者が相互的なものであることによって生じた関係性・コミュニケーションそのものが情報発信の動機となり得る、ということはやはり特徴的であって区別されてよいと思う。もちろんこのような動機付け自体は昔からあって、井戸端会議的な場所で発散されてきたのかもしれないけれど、技術の進歩によってそれが広範囲の人に伝えられるようになりましたということ。

http://recently.sakura.ne.jp/wp/?p=41
たしかに最初は面白そうだし、映像のネタになるだろうから。。。というのが配信をした動機だし、配信初めて視聴者が1000人超えた当りでかなり興奮しててただ撮ることに必死でした。

これはかなり楽しんでいたと思います。

これが全てだし、まさにこうした心性を誘発させるようにネットに未来を求めていたみなさんはがんばってきたわけでしょう?
あたりまえだけど、ニコ動にせよyoutubeにせよ、もっといえばブログにせよ、そうした欲望って多かれすくなかれみんなあるわけじゃん。書くこと自体がアイデンティティになるっていう。だから「不謹慎」という人には、ブログのコメント欄にわざわざ出張って書いてるお前も同じことしてんだよと言いたい。まあとはいえ、個人的にはこうした「祭り」的な価値観から事件を発信することを、こうやってどっちもどっちな開き直りみたいな態度で正当化するのも魂に悪いので嫌。どうしようかしら。そもそも、この事件ってあまたの犯罪報道と同じでワイドショー的にやんやん騒いでも何か意味あることは出てこないだろうし、怖くて秋葉原行けないって人もいるけど秋葉原でこのような通り魔事件なんて確率的にはこの先50年は起きないんじゃねRK*1と思わないでもないから*2、特別な事件として深刻にいろいろ考えること自体が何かの罠な気もする*3。少なくともブログ論壇(かっこわらい)がこぞって取り上げなくてもいいんじゃないかなあ。

*1:冷静に考えて

*2:まあ、わかっていても怖くなる「剰余」のようなものもあるのはわかるけど

*3:もちろん、犯罪や「社会的」背景などむしろ大きな文脈で議論するときの事例にはなるだろう