「聖なる」街と「引き裂かれた」街

「オタク」は加藤智大を切断処理なんてしてないと思うよ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080613/p1

『普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしない』というのが「単なる事実」であると言い切ってしまえるところに問題があると思います。「普通の」オタクがいるということは、「普通じゃない」オタクがいるということです。でも、加藤容疑者のそれまでの書き込みなどを読む限り、よくあるオタクの書き込みであって「普通じゃない」点は特に感じませんでした。境遇にしてもたとえば学歴あって期間工というのは、いまどき珍しくないわけです。ではどこで「普通」と「普通じゃない」点が分かれるかというと、それはやったかやってないかでしか区別できません。でも、やったかどうかに「普通」と「普通じゃない」の分水嶺を置いておいて、やったのは彼が「普通じゃなかった」からだと言うなら、それはトートロジーです。そしてトートロジーであることに意味があるのです。つまり、やってしまったオタクを「普通」のカテゴリから切り離していけば、永遠に「普通」のオタクは犯罪を、少なくとも通り魔などの重大事件を犯さないことになります。この切り離しは犯罪だけでなく、路上パフォーマーの切り離し、ロリペドの切り離しなど、いたるところで見られます*1
でも、そんなカテゴリは実際には無いんです。『「切断」どころか彼(加藤容疑者)と自分との明確な差異が分からずに苦悩してる人も少なくないのに。』という苦悩は、理解はしますが、苦悩するポイントが間違っていると言わざるをえません。明確な差異が無いなんてことは自明で、やったかやってないかだけが核心です。いくら明確な差異なるものを導出しようと、その次の日にはどこかで通り魔をしているかもしれないし、路上パフォーマーになっているかもしれないし、児童ポルノを購入しているかもしれないのです。そして内心みんなそのことには気づいているはずです。
にもかかわらず、「自分と彼は違う」と問わなければいけないのは何故か。ここで登場するのが、「政治的なもの(the political)」のカテゴリーです。「自分と彼は違う」という問いそのものが政治的な問いです。言い換えれば、やったかやってないかという、事実としてはほんのちっぽけな差異の間に存在する大きな剰余をめぐる争いです。
しかし「聖地の浄化」という現象は*2、この剰余を弔うことで隠匿し、「政治的なもの」の出現を抑圧します。もちろん靖国神社を想起すべきです。映画『靖国』を観てもわかるように、靖国神社には様々な「政治」が集うにも関わらず、その場所は不思議にも脱-政治化されています。聖性が付与されることで政治的なものが抑圧されるのです。映画『靖国』の息苦しさはそこにあります。
でも、ほんとうは靖国神社は、脱-政治化なんてされていません。首相の公式参拝を支持する人などからは、靖国への攻撃は常に「特定アジア」あるいはそれと結託した左翼による「外部からの」攻撃だとみなされています。しかし、実際はそうではなくて、靖国神社自体がそもそも引き裂かれた場所なんです。
「聖性」の付与は、こうしたあらかじめ引き裂かれている場所に統一をもたらしますが、その統一は政治的なものを抑圧した結果であって解決ではありません。たとえば加藤典洋が『敗戦後論』によって示した、まず日本人の死者を弔うことによってアジアの死者を弔う責任主体を立ち上げるのだという考え方がありますが、これは既に多くの批判者によって指摘されているように、欺瞞です。もし「日本人」が引き裂かれているとしても、われわれはその引き裂かれた中において戦争責任を考えなければいけません。まさに「連続と切断、内なる歴史をどうするか。」*3です。
倫理において「責任」を我々自身が内包するのでもなく、かといって「切り離し」によって、「責任」をすべて行為者そのものに押し付けるのでもなく、ということが問われています。ですから、オタクがゆえに加藤容疑者が通り魔をしたかどうかなんて、この場合どうでもいいんです。彼がオタクであったことと、秋葉原で通り魔を起こしたことの因果性は程度の差はあれ指摘できないことはないと思いますが、だからといってそこから「すべてのオタクは通り魔をする」ということは、構造論的因果性なんて持ち出すまでもなく導けないわけですから。
重要なのは、彼がオタクであったということです。彼もオタなりわれもオタなりです。ところが、もしあなたが通り魔を許せない犯罪行為であると思うならば、あなたと彼の間には敵対性があります。つまりオタクは引き裂かれています。同様に、秋葉原も引き裂かれた場所なのです。通り魔は一角に過ぎません。路上パフォーマーにしろ児童ポルノにしろ、敵対性(antagonism)はそこかしこに存在していたのです。にもかかわらず、献花や慰霊*4秋葉原の日常を復活させよう」という浄化、あるいは「日曜日の秋葉原を歩く。歩行者天国はもう存在しない」というノスタルジー。ぼくはちょっとこの欺瞞に絶えられないので、明確な悪意を持って提案するわけです。「加藤智大通り」をつくれ。つまり、「聖地」秋葉原を敵対性の刃によって象徴的に貫けと。

参考
http://d.hatena.ne.jp/flurry/180012
http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000103.html
http://d.hatena.ne.jp/madashan/20080616/1213635096

*1:これは欺瞞というよりはむしろ不幸。オタクは日本においては被差別集団であり、そして被差別集団は差別しているマジョリティよりも常に「品行方正」で「良識的」であれという抑圧を受けている。

*2:秋葉原が「聖地」であるという言い方は、もちろん出展を示すまでもなくありふれたアナロジーである。

*3:http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20041029

*4:むろんこの行為自体の純粋性を疑うべきではない。念の為。しかし、非-関係者によるこうした行為に欺瞞があることは明らかである。