自然界の厳しい掟です/GSV/ホームレス
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200410.html#12_1
セレンゲティ国立公園。生まれたばかりのシマウマの子供を、ジャッカルたちが執拗に狙う。シマウマの母親の懸命な努力にも関わらず、ついに子供はジャッカルに捕らえられ食べられてしまう。
あるいは、河を渡ろうとするヌーたちの大混雑の様子。力の衰えたヌーが他の個体にのしかかられ、押しつぶされ、河底へと沈んでいく。と、そこで入るナレーション。「――大自然の厳しい掟です」
…以前から不思議に思っていたのだけど、このナレーションって一体何だろう。思想教育の一環だったりするのかしら。他の国でこの手の映像が流されるときには、どんなナレーションが入っているんだろう。
(・・・)
そんな僕とは別のところで、「大自然の厳しい掟です」という言葉を聴くと絶頂を感じてしまうひとというのが世の中には居るらしい。シートン動物記や戸川幸夫動物文学などを読むと、つまるところこれは、読者が「大自然の厳しい掟」を満喫するためにあるのでは、という気がするんだけど。
せっかくなので、前のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080910/p1
で紹介した「しくみ」の話を少しします。
強大な「しくみ」の力というものはすなわち、ただの「しくみ」であったものを「掟」に変えてしまうような力ではないかと思うのです。ジャッカルはシマウマをエサにする。それはただ「そうなっている」というだけの「しくみ」です。しかし、それを見ているわれわれはそこに「掟」を見出してしまう。ジャッカルはシマウマをエサにすべきである、否、しなければならない。そして、シマウマはジャッカルのエサになるべきでる、否、ならなければならない。かわいそうかもしれないけど、なにせ弱肉強食の世の中ですからな。
でも、当の逃げているシマウマは、そんな「掟」のことなんて気にかけてはいない。群れの中で一番足が遅いシマウマだって、まあ自分は一番弱いですからなといって甘んじてジャッカルに襲われるわけではない。全力で逃げるわけです。「人間の都合」ならぬ「シマウマの都合」です。確かに多くのシマウマはジャッカルに食われているね。でも、オレは食われるのイヤだよ。
まあ、サバンナのことはサバンナに任せてやればよろしいのですが、これが人間社会となるとどういうことになるか。「人間の都合」はたぶん「シマウマの都合」よりも守られていない。シマウマの人間が団結してジャッカルの人間に立ち向かうことは、シマウマがジャッカルに立ち向かうよりも容易ではないかと思うのですが、そしてそれが「人間の都合」を「しくみ」から守ることだと思うのですが、逆に一番足が遅いシマウマが逃げようとすると、お前が食われるのが掟なんだといって他のシマウマに押さえつけられてしまいます。まさに「しくみ」が「掟」になってしまっている*1。
誤解しないでほしいのは、ぼくは別に「しくみ」の陰にジャッカルありといいたいのではない。もちろんそういうことはごまんとあるでしょうが、別に誰が何かしなくてもなんとなく出来上がった「しくみ」というのももちろんごまんとあります。ただ、そうであっても「しくみ」は「しくみ」であって「掟」ではありません。
Googleストリートビューの話をしましょう。Googleストリートビューはプライバシーの侵害ではないか、少なくとも今まで自宅が体系化されたかたちで地図上に公開されたことはなかった、という批判があります。あるいは、Googleストリートビューに自宅が載っているのは気持ち悪いという「感情的」な拒否も。
こうした反発はまっとうだと思うのですが、一部の「擁護派/推進派」は―ネットに「先進」的な人が多いようですが―Googleストリートビューはプライバシーの概念を変えるんだ、あるいはそうした気持ち悪さというものもいずれ超越していくんだ、「パラダイムシフト」なんだと反論します。別にネット「先進」ユーザーが勝手に可能性を感じるのは良いけれども、ぼくやぼくのじーさまばーさまのようなネット「後進」ユーザーのあずかり知らぬところで勝手に変えて勝手に巻き込むのはどうなのよと思うのですが、彼らはもちろんちゃんと反論を用意しています。
いわく、なるほど確かにGoogleストリートビューに同意なしに巻き込まれてしまう人々は気の毒かもしれない。しかし、人間の歴史とはそのようなものでなかったかね?たとえばラジオやテレビの発明はプライバシーの概念を変えなかったか?あるいは、自動車だ。あれもいやおうなしに人を巻き込んでいく道具だろう?まさかラッダイト運動を認めるつもりではないよね?この反論はたしかにもっともらしく聞こえてしまわなくもなくて、もちろん彼らも完璧な反論であると思っているらしくて、Googleストリートビュー気持ち悪いという人は明治時代にカメラで魂が抜かれると思ってた人みたいですね、といってフフンとやったりする*2。
でも、そのフフンは、言ってしまえばある種の詐術に由来していて、その詐術とはつまり「しくみ」の「掟」化です。たかが一私企業にプライバシー概念とか、人の考え方まで勝手にいじられたらたまりませんわなというのはまさに真っ当すぎる「人間の都合」であります。ところが、彼らが「しくみ」の話をはじめるとき、今まで論点にあがっていたはずの「人間の都合」はどこかへ消えてしまっている。そして、ひとしきり「しくみ」の説明が終わったところで、だからもうこれは避けられないことなんですよあきらめなさいと言われてしまう。「人間の都合」はいつのまにか棄却され、それを持ち出すのが何か悪いことのようにされてしまっているのです。
まあこう言うと、ストリートビューに反対なら勝手に署名なんかを集めたりして運動するとよろしい。私?参加しませんよ。私はGoogleストリートビューに賛成ですからなと言われます。もちろん、Googleストリートビュー使いたいという人だって個人的にはある種の「人間の都合」ではあるかもしれません。ただし、私は反対運動はやりませんよと言う一方で、これは避けられない事態なんですよ、かわいそうだけどあきらめなさいというのは、あまりにも欺瞞的にすぎるんじゃありませんか。
まあぼくが腹立たしいのは、というか危険だなと思っているのは、こうした「しくみ」は「掟」であるという詐術を使う人は(本人もそう思い込んでいるのかもしれませんが)、まさにいつでも、ホームレスなんて排除していいのだとか言い出しかねないからです。ホームレス?ああ、あれは悲惨だね。でも途上国を見るともっと悲惨な人がごまんといて、先進国はその上になりたっているんだ。それが世の中のしくみであって、つまり弱肉強食なんだよ。その中でホームレスを助けるなんて偽善じゃないか。殺してしまうのが摂理だよ*3。
まさに殺される側の都合なんて一切排除した論理展開であって、これはもちろん世の中の「しくみ」が「掟」であるとみなしてしまっていることから来るわけです。ホームレスの都合?あんなの掟違反だよ。掟に反した都合なんて認められないよ。でもこうした発想をしている人は意外と多くて、たとえば「生−権力」が、だからホームレスは排除してよいのだという論拠に使われたりする*4。なるほど今の世の中は「生−権力」の社会なのですか。じゃあそうしなければいけませんね。
まさに小田実が言うように、根本的に考え直したほうが良いと思うのです。世の中、あまりにも「しくみ」の都合が優先させられるのが当たり前になりすぎている。「人間の都合」は「しくみ」の都合に反するのであって(当たり前!)、それは掟違反ですね、わがままですよと屈託無く言われてしまうのです。でも、それだと本当に何のための「しくみ」か、何のための社会かわからなくなってしまいます。それでは意味無いのではないか。もっと「人間の都合」を前面に押し出していい。否、押し出さなければいけないと思います。たとえば、労働者の経営参画も、本当は俺は経営なんて考える筋合いは無いんだけれどな、から出発しないとひどいことになるのではないか。
*1:もちろんジャッカルだって狡猾ですから、お前を食わないと俺が死ぬんだよ。そうなると結局お前たちも死ぬんだよと「しくみ」によって脅迫してくる。
*2:http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/28/news032.html