分裂した「われわれ」の戦争責任、あるいは天皇制廃止論

 3週間ほど前、ネトウヨの気が限りなく強いと個人的には思っている、ミスター・イースト元門下生としておなじみの某F氏とチャットで一晩話したのだが、彼は自分はネトウヨだと思っていないという。なぜかと問うと、「自分は日本を憎んでいる」という。「アイヌを虐殺した*1日本が憎い。(北海道出身である自分は)そう(日本を憎めと)教育された」と。ぼくも北海道出身ではあるのだが、もちろんそんな教育は受けていないし、そんな教育をする教師など聞いたことがない。まあともあれ、彼の言っていることが事実であるとして、「アイヌを虐殺した日本を憎む」ことを、すんなりと受け入れることができる彼の心性がぼくは不思議でならなかったのだった。
 つまり、ぼくも恐らく彼も「血統的には」3代続いた日本人の家系であるし、いやそれ以前にわれわれが今この時点で「日本国民」であるのだから、いやおうなしに(それはパスポートを見るだけでわかる)「日本国民」という政治的身体を持っている、ということになる。これは、「アイヌの虐殺」を、政治的・倫理的視線においては、たとえば「ネイティブアメリカンの虐殺」と同じような視線では、けしてみることができないということを意味する。たとえば、「われわれ(「日本人」)」が「アイヌ」にたいして同情することはたやすいし、同情することは間違った行為ではない。しかし、だからといって「われわれ」が「アイヌ」に完全にコミットし*2、「日本」を完全に客体化して憎む、ということは、パスポートを捨てる覚悟があればまた別であるが、それは欺瞞である。もちろん「日本国民」ならば「アイヌの虐殺」を矮小化すべきであるという意味ではまったく無い。問題は、虐殺やあらゆる抑圧への「憎しみ」の対象たる「日本」は、われわれがその政治的身体の中に保持しているということである。「われわれ」が「日本」を憎むというとき、それは他方で自らの内なる「日本」にたいする憎しみでもあるのだが、彼がそのような分裂を認識しているとははっきり言ってまったく思えなかった。
 本題はここからである。「日本」を客体化して批判する主体と「日本」を内包する主体の分裂の緊張は避けられえないものである。しかし、「われわれ」の戦争責任にたいする倫理は、まさにその緊張の上に成り立っているのではないだろうか?*3たとえば、しばしばサヨクにたいする非難として、「日本」をまったくのワルモノとして「純真無垢な」立場で「日本」の戦争責任を追及している、というものがある。その議論が正しいかどうかは別として、つまりこれは「日本」を客体化して批判する主体のみが前面に出ているという批判である。では、「日本」を内包する主体ならばどういうことになるか。確かに「日本」は過ちを犯した。しかし、「われわれ」は「日本」を非難することができない。なぜならば「われわれ」も「日本」の一部であって「われわれ」皆に戦争責任があるのだ・・・。つまり「一億総懺悔」である。*4
 この分裂は、いわゆる「チャールズ王の名においてチャールズ王を死刑にする」*5ときの分裂と似ているかもしれない。自然的身体としての「われわれ(の多く)」は直接の戦争犯罪を行ったわけではない。「われわれ」に戦争責任があるというとき、その「われわれ」とは「政治的身体」(つまり、死刑を命令するチャールズ王)の「われわれ」のことである。しかし、この両者が、「わたし」という主体の中で同居しているのだ。
 この分裂の間に立たねばならない、ということは非常に困難を極めることで、今のところ何かすっきりした道筋を示すことは、ぼくにはできない。しかし、戦争責任の倫理において、なおぼくがその分裂の間に立たねばならないと考えるのは、この緊張の中においてしか、「われわれ」以外の主体、たとえばアジアの犠牲者・被害者たちの主体が、入り込むことはできないと考えるからである。すなわち、「日本」を客体化して完全な他者として「日本」の犯罪を追及する行為は、まさにその犯罪の犠牲者・被害者の視線が「われわれ」に向いているということを無視している。また、「一億総懺悔」にしても、ではその懺悔によって、いかなる責任を果たしたといいうるのか?

天皇は、むしろ、あの宣言によって自分もひとりの人間である。したがって、日本人のひとりである、この戦争に日本人はすべて責任があり罪がある、したがって、一億総ザンゲしなければならないし、自分もする、しかし、それはあくまで一億人のひとりとしてのザンゲであって……というふうに論理は展開して行って、つまるところ、彼の戦争責任の追及が人びとの心のなかでウヤムヤにされてしまった。これもまた実にたくみな論理と倫理の展開だったと思うのですが、それとともに、彼の「人間天皇」の顔(それは、さっきも言いましたが、「天皇さま」の現代版です)がいやが上にも強く押し出されて来て、人びとのほうでも、あの人もかわいそうな人やな、まあ言うてみれば、被害者や、とうことになってしまうのですが、戦争の最高責任者である彼がそれほどかわいそうな被害者であるなら、他のえらいさんすべてがそうであることは言うまでもないことにちがいない。そして、人びとのほうも、たとえ、ひとりひとりがどのように戦争に協力していようと、ひたすら被害者ということになって、一億総被害者――ここで忘れ去られてしまうのは、ひとりひとりの戦争責任の追及とともに、天皇の命令のもとに人びとが侵略したアジアのいろんな地域の人びとのことです。
小田実『世直しの倫理と論理(上)』p179

小田実が指摘するように、「一億総懺悔」はまたたくまに「一億総被害者」ということになって、責任の問題はうやむやになり、結果的に内向きの、はてしなく内向きの論理の中で、他者に目を向けることなく完結してしまうのだ*6
 事態はより複雑であると思うのだ。たとえば、「日本」という政治的主体をさらに細かくわけることができる。つまり「大日本帝国」と「日本国」である。この意味では、1945年を境に二つの「日本」があると言う議論が可能である。前者は天皇主権を国是とし自由主義・民主主義に敵対的であったが、後者は国民主権を国是とし、自由主義・民主主義を理念型として保持する*7。両者は決定的に断絶しているのであり、「日本国」の政治的身体にコミットするからこそ「大日本帝国」の責任追及が可能である。この立場は、いわゆる戦争責任の議論においてオーソドックスなものであり、「政治的」にはまったく正当である。
 ただ、ぼくが問題だと考えている分裂はこの間には無い。確かに上の議論は当たり前なものであり、タモさん氏のように「大日本帝国」をほめて「日本国」をけなすことがすなわち「愛国」だと思っているような倒錯した人々が跋扈する現在においては、「大日本帝国」と「日本国」の断絶を強調してしすぎることはない。だが、政治的身体の連続性を否定することはできても、自然的身体の連続性は否定できるだろうか?もちろんぼくは血統主義者ではないし、「親の因果が子に報い」的な発想は断固として拒否したいと思っているが、それでもぼくは祖父が戦場に立ったということを知ってしまっているのである。その事実をまったく自分とは関係ないものとして扱い、アジア・太平洋戦争の歴史を客体化してしまうことは、大きな欺瞞であると思う。
 自然的身体の連続性をもう少し広い意味での歴史の連続性と考えてみよう。確かに「大日本帝国」と「日本国」は政治的には断絶している。しかし、実態はどうだろうか?その官僚機構は1945年をへてなお揺らぐことはないし、政党・政治家ははっきりと戦前の党派を引き継いでいる。そして、いまなおその頂点には、同じように天皇がいるのだ。
 政治的身体とは、カントロヴィッチによれば、自然的身体の死を超えてなお生き残るものである。だとすれば、これは逆のことも言えるのではないだろうか?つまり、政治的身体の死を超えてなお生き残る自然的身体である。「大日本帝国」の消滅は「大日本帝国臣民」の消滅を意味した。しかし、それは個々の身体の生物的な消滅を意味しなかった。戦争責任とは、政治的身体=「大日本帝国」の死を超えてなお「生き残って」しまった「われわれ」が背負わされているもののこととは言えないだろうか?たとえば、8月15日の記憶が、「玉音放送と涙」という表象でしばしば語られるのは、それが「生き残る」という体験において非常に受け入れられやすい象徴的なエピソードであるからではないか?*8
 「大日本帝国」ではなく「日本国」にコミットすることにおいて「大日本帝国」の戦争犯罪を追及するのは、何度も言うが間違いではない。しかし、その理路からは「なぜわれわれは「日本国」にコミットすべきなのか」という問いの答えはけしてでてはこない*9。戦争責任を背負いうる主体は、死んでしまった「大日本帝国」と今ある「日本国」のあいだではなく、死んでしまった「大日本帝国(臣民)」と「生き残って」しまった「われわれ(日本人)」とのあいだのみに存在しているのであり、そのあいだに主体があるからこそ、「わたしは戦争責任を背負う」という倫理的なあり方が可能になるのである。
 加藤典洋は「敗戦後論」において戦後における「日本人」の「ねじれ」を憂い、まず「自国の死者」を弔うことで戦争責任を負う主体としての「日本人」を立ち上げるべきだといった。それに対し、高橋哲哉は加藤は共同体の本質的な矛盾や、対立を考えていないと批判し*10、戦争責任とは「侵略者」としての「自国の死者」に代わって、また彼らとともに、謝罪や補償を実行するということであると主張する。先日議論したように*11、「主体を破壊された者」=「侵略者」としての「自国の死者」に成り代わって何かを証言する主体は、「脱主体化の主体」として分裂している。だが、他方でそれが完全に切り離しえない、不可分な連続性を持っているからこそ(自然的身体の連続性)、その応答には倫理的な根拠が生じるのである。逆に言えば、その連続性と分裂性を見ずして「日本人」としての「責任主体」を立ち上げをというのは欺瞞であるということなのだ。
 しかし、考えてみれば、われわれは既に「天皇制」というかたちで、その欺瞞を放置し続けているのではないだろうか?「玉音放送」における「恥じ入りの涙」は、戦後直後の巡幸などにおいて、結局は「天皇にたいする恥じ入り」として回収されてしまったように、「生き残り」の「日本人」が持つ分裂性を隠匿し、「われわれ」が「戦争責任」にたいして真正面から向き合うことを回避させるシステムとして「天皇制」はあるのではないか。
 戦争責任を負う主体は、政治的主体としての「大日本帝国臣民」の死と自然的主体としての「日本人」の「生き残り」のあいだにある。しかし、天皇がいるかぎり、「われわれ」は「生き残り」を自覚することなく「臣民」でいられるのである。それは、アジアの被害者・犠牲者との対話を拒否するということに他ならない。政治的主体の拠りどころとしての「国家」が連続したままで戦争責任を負うとはどういうことか?「次は負けないために過去を反省する」「日本人を無謀な戦争に追いやった責任者として戦争犯罪人を問う」といった、あの愚劣な、悲しいほど内向きの論理が持ち出されてくるのである。
 以前、秋葉原通り魔事件において、このような文章を書いたことがある。

■「聖なる」街と「引き裂かれた」街
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080615/p1
 しかし「聖地の浄化」という現象は*2、この剰余を弔うことで隠匿し、「政治的なもの」の出現を抑圧します。もちろん靖国神社を想起すべきです。映画『靖国』を観てもわかるように、靖国神社には様々な「政治」が集うにも関わらず、その場所は不思議にも脱-政治化されています。聖性が付与されることで政治的なものが抑圧されるのです。映画『靖国』の息苦しさはそこにあります。
 でも、ほんとうは靖国神社は、脱-政治化なんてされていません。首相の公式参拝を支持する人などからは、靖国への攻撃は常に「特定アジア」あるいはそれと結託した左翼による「外部からの」攻撃だとみなされています。しかし、実際はそうではなくて、靖国神社自体がそもそも引き裂かれた場所なんです。

聖性の付与によって脱-政治化し、引き裂かれた主体をを隠匿する装置として天皇制があるとすれば*12、もし「われわれ」が真に戦争責任を負おうとするならば、「天皇制」廃止以外に選択肢は無い。「天皇制」を残したままで「日本国」へのコミットを要求するということは、すなわちそれは「われわれ」のみの論理から一歩も外に出ていないということになる。「われわれ」は、「天皇制」を撃つことによってはじめて、「われわれ」が分裂した「われわれ」に向き合うことが可能になり、他者と向き合えるのではないだろうか。

*1:この表現もやや乱暴ではある。実際の会話ではもう少し詳しい説明があったと思う。

*2:彼は「アイヌ」の運動には興味ないと言っていたが。

*3:ああ、「ナシオン主権」と「プープル主権」だよね、というブコメが今脳内で見えたので先回りしておく。そういう話ではない。

*4:ちなみに、この構図にはもうひとつのパターンがあって、戦後生まれのボクには戦争責任は無いという「日本」という政治的身体を完全に無視したものと、「日本人」ならばあの戦争を美化すべきであるという身内の論理との対比である。

*5:カントロヴィッチ『王の二つの身体』

*6:http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20081224/1230008037も参照。「だれも責任をとらない。主体もなにもない。そんな ふざけた ご都合主義のためだけに、天皇制は存在するのではありませんか。」

*7:国家の基盤、constitutionが違うということである。

*8:あるいは、太宰治の「トカトントン」である。8月15日を境に聞こえてくる「トカトントン」は、まさしく「生き残った」者の「恥ずかしさ」であろう。

*9:それこそ「ポストモダニズム系リベラル」が鬼の首を取ったように決断!決断!とシュミットを誤読しながら叫ぶであろう。

*10:「汚辱の記憶をめぐって」(『群像』95月3月号)

*11:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081218/p1

*12:そういえば、あのときの「オタク」の議論も徹底的に内向きであった。