「他人は他人、自分は自分」か?

■だれでも ない あなたへ(ベジタリアンには名前がある。では、あなたは?)。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20081215/1229343507
「社会に埋没(まいぼつ)できる」状態に ある ひとが、名前のある少数派を 非難するとき、それはすでに個人と個人の対立などではなく、多数派が少数派を 抑圧する言論になってしまっているのです。わたしは、この非対称な関係のありかたがゆるせません。そして、その非対称性に よりかかって 少数派を 非難する 多数派が ゆるせないのです。べつに、いつもいつも そんなことをかんがえているわけではありません。けれども、やっぱり気になりますよ。

■オメラス再訪。
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200405.html#25_2
 オメラスにおける通過儀礼の効果は、非常に強力なのだと思う。オメラスの少年少女にとって通過儀礼はトラウマ的なものとなる。彼らは悲惨な子供のことについて、一人で考え一人で悩み苦しむ。
 通過儀礼が少年少女たちから奪うのは、他者と交流するための言葉だと言ってもいい。そして、オメラスを出る人々は複数ではなく常に一人で町を出る。旅立ちを誰かに告げることは無い。無言のままで旅立っていく。
 だから、オメラスから旅立つ人々が制度から逃れられたと考えるのは間違っているのかも。彼らから言葉は奪われたままなんだし。

私が考えるに、自由民主主義が今日直面する諸問題を解決し、社会主義的な目的と自由民主主義原理とを効果的に接合するためには、個人主義の枠組みは放棄されなければならない。私は、明らかに前近代的であって近代民主主義には不適合な、有機体論的・全体論的な社会の構想に戻ることを、要求しているのではない。私はたんに、そうした前近代的な観点に対するオルタナーティヴは自由主義的な理論に支配的な個人主義的構想しかない、という考えを受け入れないだけである。個人を単子(モナド)として、つまり社会に先立って存在し社会から独立して存在する「負荷なき」自己として理論化するのではなく、むしろ「主体位置」の集合によって構成され、多種多様な社会関係のうちに深く定位されるひとつの場として理論化する必要がある。
シャンタル・ムフ『政治的なものの再興』p193-194