「未来の被害」という詐術―マイケル・ウォルツァーの「均衡」論批判―

 「正戦論」の主張者として知られるマイケル・ウォルツァーは、自ら編集する『Dissent』誌のオンライン版で、イスラエルによるガザ攻撃は「不均衡/disproportinate」であるという議論に対して批判を行っている。
■The Gaza War and Proportionality
http://www.dissentmagazine.org/online.php?id=191
ウォルツァーが指摘するのは、「均衡/proportionality」という概念のあいまいさである。彼は、戦争においては「均衡」という概念は単なる「やったらやり返す/tit for tat」式の(被害の)対称性を意味しないという。戦争には常に目標がある。たとえば第二次大戦時のドイツへの空爆は、その後の想定しうるドイツの攻撃による被害を阻止するために行われた。その攻撃は多くの市民に被害を出したが、その数がどれだけなら「不均衡」であるのか、という限界の数は決められるのだろうか?と彼は問いかける。「均衡」の議論はけして明白ではない未来についての展望や推論のみに基づいた予測的なものであるのだから、「均衡」の議論の正しさについては我々は慎重になる必要がある。しかし、最近の「不均衡な」攻撃を非難する者たちは、単に自分の嫌いなものを「不均衡な」攻撃だとしているにすぎないと彼は言う。
 だが、ウォルツァーのように「均衡」の概念を未来の予測にまで拡大することは、ひとつの危険をもたらす。将来的に発生しかねない最悪の事態を「慎重に」吟味した結果、一般的には「不均衡」とされるような過度な暴力であっても「不均衡とは言えない」と結論づけることは、暴力を制限することを目的とした国内法や国際法を骨抜きにしかねないのである。もし、それを放置することで甚大なる被害が起こりうると判断されたならば、法を破ってでもそれを防止することに、なぜ躊躇する必要があろうか?少なくともそれは「不均衡」ではない。この考え方を採用することによって、たとえばアムネスティなどによるイスラエル国際法違反、あるいは人道に反する攻撃を追及する試みは無意味なものにされるのである。なるほど、確かに国際法違反はあったかもしれないし、攻撃は悲惨かもしれない。しかし「仮にそうだとしても」、イスラエルは自分達の安全を守らなければいけない――悪いのはハマスだ!
 これに関連して真っ先に思い起こされるのは、イラクアブグレイブ刑務所において行われた拷問に対する、ブッシュ政権の態度であろう。アメリカの市民の安全を脅かす「テロリスト」は、ジュネーブ条約の「外」に置かれている。そこでは拷問が常態化しているのは、メディアの報道などによってもはや、なかば公然のものになっている。しかし、ブッシュはそれを公式には認めることは無い。彼はかわりに、いかに「敵」が凶悪であるかを強調するのである。

■「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070727/1185459989

ブッシュ:マット、私はこう言っているだけだよ。この政府[=アメリカ]がやってきたことは、君や君の家族を守るために対策をとるということだよ。 君は家族のことを私に尋ねた――君は他にもたくさんの人を代表している。そして、最良の情報は戦場で捕らえた者たちから引き出したものなんだ。だから、陰 謀が実行される前に阻止するために、我々はその情報に基づいて行動するんだ。そして、我々がやってきたことはどんなことであれ、合法的なのだよ。私の言っ ている「法の範囲内で」というのはそういうことだ。弁護士たちが検討して、「大統領、これは適法です」と言ったんだ。私が言えるのはそれだけだ。私は、何 がなされているのかを具体的に君に教えるつもりはない。なぜならば、敵を順応させたくないからだ。これはね、我々は、戦争中なんだ。これは、君や君の家族 を殺しに来ようとしている者たちがいるということだよ。あなたがたを守る最良の方法は情報を得ることだ。だから、アメリカ国民は我々がなぜそうしたのかを 理解しているということに私は自信を持っている。わかるかい、我々は、彼らから得た情報に基づいて行動して、攻撃を防いだのだ。そしてこの攻撃はリアルな ものだ。これは空想じゃない。再びアメリカ国民を傷つけようとする攻撃が計画されていたんだ。

 このブッシュは、アブグレイブ事件に対する責任から「無知」に逃避したブッシュとは、少し様子が違う。彼は、「テクニックについて話すつもりはない」と言いながら、ウォーターボーディングの使用を否定しない。彼は、アメリカ国民を守るために必要なことをやっているのだということを繰り返し強調する。彼は脅威に対処するためなら「法の範囲内」で何でもやってみせる。逆に言えば、彼が何をやろうともそれは「法の範囲内」なのだ。
  ブッシュは、尋問テクニックを明らかにしない理由として、敵が順応してしまうのではないかという懸念を挙げている。だが、彼が守ろうとしているのは、アメリカ国民の「無知」である。このインタビューで、ブッシュは国民に対して二重のメッセージを送っている。まず、テロの脅威と戦うために必要なあらゆることを実行しているということ。そしてしかし同時に、あなたがたはそれを知る必要はないのだということ。必要なことは私が泥をかぶって引き受けるので、皆さんは安心して目をつむっていてくれ――これがブッシュがこの意味不明瞭なインタビューで語ろうとしていることであり、そしておそらくそれはちゃんと相手に伝わっているのだ。

公然と行われている「不法」な事態が―それはけして公式には認められることはないが―指導者と大衆の共犯関係によって常態化すること、これを常野さんは「永遠の嘘」という*1。しかし、「永遠の嘘」には必ず「共同体」を脅かす「敵」の存在がつきものである。市民の安全を脅かす"テロリスト"、職を奪い、あるいは犯罪を犯す"外国人"、ミサイルをこちらに向けている"ならず者国家"、安い人件費によって市場を狙う"外国企業"…。絶対的な「敵」の脅威に突き動かされて、我々は「永遠の嘘」を信じることができる。
 そして、まさにこの点において、ウォルツァーの最大の詐術があるのだ。ウォルツァーは、ハマスのロケット攻撃に対して、イスラエルはさまざまな政策の試行錯誤を行ってきたことを強調する。

http://www.dissentmagazine.org/online.php?id=191
First, before the war begins: Are there other ways of achieving the end-in-view? In the Israeli case, this question has shaped the intense political arguments that have been going on since the withdrawal from Gaza: What is the right way to stop the rocket attacks? How do you guarantee that Hamas won’t acquire more and more advanced rocketry? Many policies have been advocated, and many have been tried.
第一に、戦争が始まる前、その目的を達成できる方法が他にあっただろうか?イスラエルの場合、「何がロケット攻撃を止める正しい方法だろうか?」「どのようにすればハマスがより進歩したロケットを手にいれないことが保証されるのか?」という疑問が、ガザ後退以降激しく続けられてきた政治の議論を方向付けてきたのである。多くの政策が主張され、また試みられてきたのである。

ここでウォルツァーが強調しているのは、イスラエルを攻撃するハマスハマスから身を守るイスラエルという構図であって、たとえばイスラエルのガザ封鎖、あるいは選挙に勝利したハマスを政権から引きずりおろすためのさまざまな工作や脅迫についてはまったく触れていない。さらに、ハマスは幾度と無くイスラエルと交渉する用意があるという声明を出し、それをイスラエルが黙殺してきたことにも触れていない。ウォルツァーは、「ハマスはどうすればロケット攻撃を止めえたのか?」とは問わない。戦争が開始される前に行われたさまざまな試行錯誤はイスラエルの側から行われるものであり、ハマスは主体性を持ったイスラエルの敵対者としては描かれていないのだ。ハマスはあくまでイスラエルを脅かす絶対的な「敵」でなければいけない。なぜか?その限りにおいてのみ、イスラエルの圧倒的な暴力に対して、将来的にイスラエルが受けるかもしれない被害によって「均衡」を成立させることが可能であるからだ。そしてそのことによって、今、現実に発生している非人道的な攻撃や国際法違反に対して目をつむることが可能になるのである。
 結局のところ、ウォルツァーのいう「均衡」とは、つまるところイスラエルに対する一方的な肩入れに過ぎない。カール・シュミットが、例外状態は「誰がそれを決定するのか?」の問題であるといったように、起こりうる最悪の事態をとめるための止むを得ない過度な暴力といったとき、誰が「止むを得ない」と決めるのかは重要な論点なはずである。ウォルツァーは、おそらく意図的にその問題をぼかしている。そして、議論の中でそれとなく主語をイスラエルと重ね合わせてみるのである。イスラエルを主語に置いた上で「慎重に」出された結論がイスラエルの攻撃は「不均衡」ではないだとしても、それは当たり前である。つまりただの循環論法に過ぎない。
 今日のガザ攻撃に関して、将来的に起こりうる被害も予測したうえで俯瞰的に検討するというのは一見「中立」的に見え、「評論家」的立場を取りたがる人々によって好まれる作法である。しかし、ぼくはこうした立場を取る人で、ウォルツァーのように意識的に、あるいは無意識的に主語をイスラエルにおいていない人を見たことが無い。当たり前の話であるが、現実に、今、パレスチナ側が圧倒的な暴力にさらされている以上、将来的な被害というのはイスラエル側にしか設定しえない。しかし、その設定にはパレスチナハマス)を絶対的な「敵」に置かなければならず、それはイスラエルに法的・人道的なフリーハンドを必然的に与えるのである。こうして、ガザの圧倒的な悲惨を見聞しているにもかかわらず、ガザ攻撃を正当化する世論というものはつくられるのだ。
<参考>
■正戦論の倫理思想家マイケル・ウォルツァーのガザ攻撃正当化について
http://palestine-heiwa.org/note2/200901130036.htm

*1:ウォルツァーの「正戦論」は、まさにこの「永遠の嘘」そのものである。杉田敦によれば(杉田敦『境界線の政治学』p164-165)、ウォルツァーは究極の緊急事態において一切の戦争法規の無視を容認するが、にもかかわらず、一方でその実行者を「顕彰しない」ことで(あるいは誰かが「泥を被る」)、道徳の権威と共同体の維持は同時に両立しうるとするのだ。