「ホロコースト」は使ってはならないか?あるいは日曜歴史家

 「ホロコースト」と無冠詞でいえばふつうナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺のことを指し、シンティ・ロマの人々や障害者の虐殺については一般的にはこれを含めない*1。「ホロコースト/Holocaust」という言葉はそもそも、「完全に焼く」という意味のギリシア語「holokaustos」から来ており、旧約聖書に出てくる5つの犠牲の内のひとつ、つまり獣を丸焼きにして神に捧げるという宗教的な意味を持っている言葉である。ナチスのジェノサイドによって犠牲になったユダヤ人たちは収容所の焼却炉で最終的に焼かれたことから連想された言葉だが、それが一気に広まったのは1978年に放映されたアメリカのドラマ「ホロコースト」である。
 このドラマは、多くの実証的な研究を下敷きにしつつも、あるドイツ人とユダヤ人二つの家族がナチズムの時代にどのような運命をたどったかという、より物語性を重視したフィクションである。とはいえ「ふつうの人々」だったはずのドイツ人の青年が惨い虐殺を簡単に行えるように変質してしまう描写などは、実際の経験に即したものであり興味深い。いずれにせよ、このドラマにおいては単にユダヤ人の虐殺をして「ホロコースト」といっているようでおり、ドラマ自体がとくに宗教的というわけではない。
 ところで、「ホロコースト」という言葉を使うべきではないという議論が存在する。その理由のひとつは、「ホロコースト」という、ユダヤ教的な、したがってユダヤ人のみの虐殺をさす言葉は、同時におこなわれたシンティ・ロマ、共産主義者、あるいは障害者の虐殺を等閑視するものだからだというものである。確かに、ユダヤ人の虐殺だけがクローズアップされることで、他の虐殺が無視されるようなことがあってはないらない。しかし、研究動向を見ればわかるが、現在、ロマなどユダヤ人以外の少数派の虐殺について、少なくとも研究者が無視しているということはない。たとえば2006年の移動展示「ロマとスィンティに対するホロコーストと現代ヨーロッパにおける人種主義」*2はその成果であろう(ここでは、「ホロコースト」という言葉が拡大使用されている)。さらに、ベルリンには2008年、ユダヤ人犠牲者の碑とならんで、ロマ、そして同性愛者の犠牲者の碑も建てられたのである。
 もちろん、ナチズムによる犠牲者はこうして区別して扱うのではなく、みな同等に、ひとつの犠牲者集団として扱うべきであるとする声も存在する。記念碑などにおいては、確かにそうすべき理由はあるかもしれない。つまり全てのマイノリティを分節化して記念碑をつくるわけにはいかないからだ。しかし他方で、ユダヤ人の虐殺がナチスにとって特別なものであったという事実も無視してはいけないのである。虐殺は無差別に行われはしなかった。ナチズムの思想において、虐殺すべき対象はドイツ人以外なら誰でもよかったわけではない。あの、主にガス室という手段を用いることで600万人以上の死者を出した、ユダヤ人に対するジェノサイドは、まさにユダヤ人の人種戦争における敵対者という位置づけなくしては行われなかったのである。この意味において、「ホロコースト」は障害者・同性愛者の「人種改良」のための虐殺、あるいはロマの人々の虐殺とは、その性質が異なるのである*3。これらの問題などから、「ホロコースト」をユダヤ人限定的なものとして使うか、あるいは拡大したものとして使うかは研究者によっても分かれるが、この問題については、どちらが正しいかといことは一概には言えず、むしろ重要なのはその依拠している議論であろう。
 一番やってはいけないのは、この区別の原因は、ユダヤ人が「ホロコースト利権」のためにそうすることを望んでいるのだという陰謀論的な解釈に飛びつくことである。「ホロコースト利権」については、1990年代に、ノーマン・フィンケルシュタインというアメリカの政治学者が出版した『ホロコースト・インダストリー』という著作においてセンセーショナルに議論された。多くの研究者は、この本は資料の恣意的な引用が目立つなどの理由で、相手にすべき価値はないとみなしたのだが、多くの一般大衆は、本当に「ホロコースト利権」があるのではないかという錯覚を持つことになった。特にドイツにおいては、連邦政府が毎年ユダヤ人団体に払う補償金について、いつまでこれを続けるのかという思いが、「ホロコースト利権」への疑いと走らせたのである。これは、「ホロコースト」を「道徳的棍棒」であると主張した作家マルティン・ヴァルザーへの支持とも重なって、ドイツにおいて反ユダヤの運動を拡大させた。
 結論からいえば、「ホロコースト利権」への関心は、日本で言えば、植民地支配に対して「謝罪と賠償」を要求し、その罪悪感につけこんで日本から金をむさぼりとろうとする「在日利権」があるのだと主張する右翼のそれとかわりはない。たとえば、日本政府がチベットなどの人権問題に関して中国を批判しないことを非難することは可能である。しかし、その理由を過去の戦争責任の問題に関連づけ、日本は戦争にたいする過剰な罪悪感を押し付けられているがゆえに中国政府を非難できないのだ、という主張にたいしては、皆ネトウヨの被害妄想と一笑に付すに違いない。同様に、ドイツ政府が政治的にいって、過去の経験において、はやくからイスラエルを承認し、イスラエルとの良好な関係を築こうとしているのは事実であり、パレスチナ問題を考えればそれは非難することが可能である。だが、その政治政策は、「ホロコースト」の記憶化・ナチ犯罪追及の永続化になるべく反対してきたアデナウアー政権から一貫して行われてきた外交政策であって、ホロコーストの過剰な記憶化が―あるいは、歴史修正主義にたいする抑圧が―ドイツ政府に対してそうさせているのだ、と主張するのは、事実において何ら根拠をもたないし、イスラエル政策を転換するためにドイツ―あるいは世界―「ホロコースト」の記憶化の動きに対して抵抗すべきだ、と主張するならば、それは「歴史家論争」においてクルト・ゾントハイマーが「メーキャプ師たちが新たなアイデンティティーに化粧を施す」と批判したような、誤ったやり方であろう。それは、ベルサイユ体制打破のために、ユダヤ人らの陰謀によってドイツに押し付けられている第一次世界大戦の贖罪意識からの解放を主張したヒトラーのそれとどこが違うというのだろうか。イスラエル憎しにとって、それは安易な道である。が、ほんとうの解決策はそこには無い。われわれは構造の中にいて、その責任から逃れることはできない。「壁」は批判すべきだ。しかし、われわれのまわりにこそ「壁」がある。村上春樹の演説は結果としてまったく評価できないが、誠実なものであった、とぼくが評価するのはこの意味においてである。そして、「ホロコースト」に寄り添いながら−「ホロコースト」の記憶化におけるユダヤ人の正当性を認めながら−イスラエルを批判していくのは、村上春樹エルサレム賞における「詰み」状態から脱却することよりもずっと容易なはずである。もし、ほんとうにパレスチナのことを思っているのならば、逆に、それ自体として固有の虐殺事件はいくら記憶してもしすぎることがない。その立場においてのみ、はじめて、自分達がジェノサイドを行っていることを認めないイスラエルを批判できるのである*4
 たとえば、スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」が、「ホロコースト」とシオニズムを必然としてむすびつけるような演出をしていることを批判することはできる、しかし、その理由は「シンドラーのリスト」がプロパガンダだからではなく、「ホロコースト」による死が何か運命的な、必然としてとらえることは、真に「ホロコースト」を理解することを妨げるからなのだ。「ホロコースト」に寄り添うからこそ、「シンドラーのリスト」を批判できるのである。
 そもそも、被害者たちがその被害の記憶化を求めることは、きわめて当たり前のことである。それに対して、「ホロコースト」のような、ある特定のジェノサイドを表したものとして、広く認知されている言葉を今になって使うべきではないと表明する”真の意味”は何かを考えなければならない。「ホロコースト」という言葉が今、どのような機能を持っていて、それが使われなくなることがどのような意味を持つか、という問題である。ここで想起されるべきは、「従軍慰安婦」という言葉を使うべきではないという言説である。「従軍慰安婦」という言葉は当時使われていなかったから現在も使うべきではないというあの無意味な言説は、いったい何を意図しているのだろうか?「従軍慰安婦」という名称において重要なことは、「従軍慰安婦」という名において戦争中に酷い性暴力にさらされた被害者たちが主体化されているということである。ある対象に名前をつけるという行為は、その対象を特定の枠に嵌める・位置づけるという点でそれ自体暴力的なものである。しかし、一方で名前をつけられた側は、まさにサルトルが「黒いオルフェ」で論じたように、その名のもとに主体化されることで(主体を獲得することで)名付けた側、つまり彼らをまなざしていた側をまなざし返すのである。それは、まなざされる側にとっては恐怖を呼び起こす。「従軍慰安婦」という言葉に異議を唱えることは、その名によって形成された主体によるまなざしを恐れる者たちが、彼女たちから主体を剥奪しようとする行為に他ならない*5
 「ホロコースト」という言葉を使うべきではない、とする主張も、その多くはこれに似たものである。「ホロコースト」はそれ自体、宗教的な意味を含んだことばとして、祭り上げられている。そして、ユダヤ人以外の虐殺が軽視されている*6。ケシカラン!しかし、たいてい、彼らは「ホロコースト」という特権化された(ようにみえる)被害者の勲章を、ユダヤ人が負うことが気に入らないだけのだ。これに関連して、例の「ホロコースト利権」の問題が関わってくる。「ホロコースト」の称号をほどこすことで、ユダヤ人は悲惨なジェノサイド事件を不当に奪っているのである。ゆえに、われわれはそれを取り戻さねばならない!彼らは純粋な学問的興味からそう主張しているだけというかもしれない。しかし、現実の学問においては、「ホロコースト」という言葉はそれぞれの論者によって若干の定義の差異はありつつも利用されているのである。「ホロコースト」(という言葉を使用する)研究者は全てあのジェノサイドにたいする認識を欠いているとでも主張するつもりだろうか?そして、誓って言うが、そうした人間にかぎって、ほとんどが「ホロコースト」についての書物に取り組んだことが無い「素人」である。それ相応の知識と根拠なしに、「ホロコースト」という言葉が問題であると主張することは、学問的にはなんら説得性をもたない。たんに、反ユダヤ主義的な心性からそういっているのだと結論付けるに十分なのだ。
 ただし、「ホロコースト」を使うべきではないとする全ての議論がこうしたものであるわけではない。岡真理さんは、『記憶/物語』のなかで、ブルーノ・ベッテルハイムの議論を紹介している。

ベッテルハイムが「ホロコースト」という名でこの出来事を呼ぶことに異議を唱えるのは、絶滅収容所で虐殺されたユダヤ人は、ただユダヤ人であるというだけで理不尽にも殺されたのであり―なかには世俗化し、ユダヤ教とは無縁な生活をしていた同化ユダヤ人も多数いた―彼らの死には何の宗教的な意味あいもない、それを「ホロコースト」という、元来、宗教的な含意のある言葉でもって呼ぶことは、これらユダヤ人の死に偽りの宗教的神聖さを与え、そうすることで彼らから、彼らが無意味な死を死んだという<真実>に直面する最後の尊厳さえも奪ってしまうからである、と。
不条理な死、人間が理解可能な意味世界のなかに位置づけることができない<出来事>の暴力に直面することこそが、そのような不条理な死を死なねばならなかった者たちに残された、最後の、人間としての尊厳であるとベッテルハイムは言う。
(・・・)
自分が生き残ったのは、収容所で殺された者たちに代わって、自分自身がより良く残された命を生きる使命を負っているからだと考えるようにしている。
(・・・)
自分が生きのびてしまったという出来事の暴力を、そのように自分に言い聞かせることでかろうじて生を支えることも、ベッテルハイムにとっては、自己欺瞞として斥けなければいけないものとしてある。その倫理的命令の厳しさに、わたしはたじろがずにはおれない。
 出来事の暴力を生きのびるために、そのような方便でもって自分を納得させざるを得ない者に向かって<真実>に直面せよと語ることの、もうひとつの暴力性にわたしは打たれる。しかし、また、想像の絶する大量虐殺という<出来事>を可能にした瞞着、欺瞞の犯罪性を私たちが批判しなければならないとしたら、自らに対しても欺瞞的命令にさらされているとも思う。

ベッテルハイムは、「ホロコースト」の使用が、<真実>に直面するのを妨げていると批判することで、「ホロコースト」の政治利用を憂うわれらが日曜歴史家*7たちと同じことを言っているようにみえる。しかし、どこかが違う。「ホロコースト」という言葉そのもの使用あるいは強調がイスラエルプロパガンダである、と主張する人々は、イスラエルを批判するための免罪符を求めている。「ホロコースト」犠牲者という、こちらをまなざす主体を剥ぎ取ってしまえば、もうまなざされることは無い。つやつやとした顔でイスラエルを批判できるのだ。これは、東アジアにおける「従軍慰安婦」や南京の問題でももちろん同様である。ユダヤ人の虐殺は、南京の虐殺は、確かに規模は大きかったかもしれないが、それはけして比類なき出来事ではなかった*8と、出来事の相対化を求めてくるのだ。
 それにたいして、ベッテルハイムが言っていることは、けして自らをまなざす主体として特権化しない。相手のまなざす主体をはぎとったと思ったら、その奥にあった何かがもっと強く自分達をまなざしてくるのである。そのまなざしは「自らに対しても欺瞞的命令にさらされている」ことを浮き彫りにするものなのだ。ベッテルハイムもまた強制収容所の一員であった。「もうひとつの暴力性」は、当然、自分自身にも向けられたものなのである。われらが日曜歴史家たちが、これに比類するような倫理的表明を一度でも見せたことがあったであろうか?少なくともぼくはここ数年の経験からいって、一度も無い。かわりに、こうした弁明の声が聞こえるのである。「歴史に禁じられた問いは無い!」もちろんそうだろうとも!誰がその問いを禁じたであろうか?われわれがいっているのはただ、食事を取る前には手を洗うべきだという当たり前のルールについてである。その食事は、かれひとりのものでないのならばなおさら。もちろん、まったくきれいな手になれる人間はいない。であるがゆえに、われわれはその手触りに気をつけなければいけないのではなかったか。こと歴史的事象に関するならば、ユルゲン・コッカの警句は自戒としても持っておかねばならないだろう。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20041007/p1
 このような問いは要するに、ショッキングな個人史や口承の歴史を経由しては解明されえない。これらの問いに答えるためには、複雑な概念と幅広い読書、さまざまな理論と粘り強い根気が必要である。すなわち、大学の自由な空間と道具を用い、手間ひまかけた専門教育過程の蓄積を生かし、分業の利点を利用することができる専門的な歴史学こそがまず第一に提供しうるもの、が必要なのだ。経済、社会、文化、政治の長期にわたる連関を認識するための、直接的で迅速な非専門的方法といったものは、残念ながら存在しないのである。

ホロコースト」という言葉の使用を疑う者。その区別に意義を唱える者。あるいは、「ホロコースト」の存在そのものをうたがう者。最近みられた、こうした人々が、この警句とはほぼ真逆であること、つまり、一冊の専門書にも目を通すことなしにこうした問いをたてる人ばかりであったことは、残念でたまらない。

*1:「シンティ・ロマのホロコースト」などという場合もある。

*2:http://www.imadr.org/japan/minority/roma/post/

*3:もちろん、虐殺という罪の軽重ではない。ユダヤ人の虐殺のほうが、その他の虐殺に比べて罪が重いという意味ではない。

*4:こちらの議論も参照。もう4年も前だよ・・・。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060228/p1

*5:もちろん、「従軍慰安婦」ということばばに全く問題がないというわけではない。「従軍慰安婦」ということばをつかうことで、この制度が事実上の「性奴隷制」であったという事実をあいまいにしかねない、という懸念もあるのだ。この問題は、後に述べるようなベッテルハイムの議論と合わせて考察されるべきだろう。

*6:そんな事実は無い。ほとんどの場合、ただ彼らがそうした研究を知らないだけなのだ。すべての出来事を同じ分量で扱えという主張のほうが無理なのであるし。

*7:もちろん、mojimojiさんの「日曜サヨク」に対応している。http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080326/p1

*8:そういえば南京大虐殺の「差分」を示せというしょうもない議論が昔あった。