個人と民族主義

民族主義の問題
http://www.mojimoji.org/blog/nationalism
民族主義とは別の道
http://www.mojimoji.org/blog/0179
民族主義の問題、その2
http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2
mojimojiさんの議論は、次のような図式を前提にしている気がします。
そもそも、在日コリアンとか、沖縄人といったカテゴリは、たとえば在日コリアンの家族あるいは沖縄で生まれた者にたいして、アプリオリにはその本質を規定しない。したがって、「あるべき」在日コリアンや沖縄人は存在しない。在日コリアンであるとか沖縄人であるとかいったものは、男や女あるいはセクマイなどと同様に、「わたし」を構成する要素のひとつとして存在する。その要素にたいしてアイデンティティを持ち、その要素を尊重して生きることは否定されるべきではない。しかし、その要素の一つを、他者が、その個人にたいして本質的なものとして直接・間接的に押し付けることがあってはならない、と。
そうであるとして、この図式の中では、沖縄の文化や在日コリアンの文化は個々人がそれぞれ持っている沖縄文化・在日コリアン文化なるものの「共通の基盤」として存在するのであって、けして規範化されるものでもないし、すべきものでもないことになります。これに対しては、あるカテゴリや文化が規範的なものではなく個々人がもつそれぞれの集合であるならば、そのようなものに対してアイデンティティを持つということがいかにして可能なのか?という古典的な問いが立てられます。ある個人が、自分は「沖縄人である」とか「在日コリアンである」という集合的なアイデンティティを持とうとするとき、しかしその集合的なアイデンティティを突き詰めていくと結局は個人に戻るのであれば、それはトートロジーということになってしまいます。
さらに、文化は「共通の基盤」に過ぎないとされ、単一であれ複数であれあらゆる規範化が拒否されるのに対して、文化やカテゴリの受け皿である「わたし」という個人は、絶対化されています。「わたし」は自分の持つ数ある要素から何かを選びアイデンティティとする、あるいは規範を自ら受け入れるが、それは尊重されるべきである。他方で、「わたし」にたいしてアイデンティティや規範を押し付けてはならない。
でも、たぶん在日コリアンや沖縄人、あるいは他のマイノリティが抱えている困難は、むしろそうした確固たる「わたし」が自明のものと思えないことに由来するのではないでしょうか?「在日コリアン」「沖縄人」というアイデンティティを自ら引き受けることに、民族主義は不要かもしれません。ですが、問題は「在日コリアン」「沖縄人」にも「かかわらず」、「在日コリアン」「沖縄人」「ではない」という問題ではないでしょうか。この分裂にたいして、そもそも、特定のあり方だけで「在日コリアン」「沖縄人」にならなければならないわけではない。属性の前に「わたし」があるのだ。と説くことは、抑圧的な民族主義と対抗するもののみならず、民族アイデンティティ自体を危機に晒していることになります。なぜならば、自明な「わたし」を基盤としないこの図式においては、まず民族のアイデンティティがあって、その上に引き裂かれている「わたし」がいるからです。「わたし」があって要素のひとつである民族のアイデンティティがあるわけではない。こうした中で、民族主義というのは、その分裂を結合させておく糊のようなものになる。単なる抵抗のための手段ではなくて、アイデンティティにおいて不可分なものになるのです。もちろん民族主義でなければ絶対にダメというわけではないはずですが、かといって民族主義を取り除いては「わたし」が確立する前に「わたし」は分裂によって引き裂かれてしまいます。
マイノリティのアイデンティティが、「回復」されるべきものであり「選択」されるべきものではない、というのは、このようなことを表しているのだと思います。個人に依拠してアイデンティティを選んでいく、というのであれば、そもそもマジョリティはそうした作業をしなくても済んでいることが問題になります。なぜ、マイノリティだけが「選択」を強いられるのでしょうか?その構図においては、マイノリティの中にあるマイノリティだって、その文化集団を選ばないという「選択」を強いられることにかわりはないのです。それだって抑圧に違いありません*1。マイノリティにだって、「自然に」アイデンティティを獲得する権利はあるし、文化の相対性を自覚しなくてすむ権利だってあります。差異が本質的なものから個々の要素に還元されたとき、マイノリティはその要素を選んだ理由を今まで以上に問われ続けることになるか、自らの持つアイデンティティや文化を単なる趣味の問題として扱われることになります。マジョリティも問われ続けるべきだ、とはいえます。でも、じっさいに問われはしないでしょうし、これからもそうでしょう。個人に依拠する、ということでは、このような非対称性が、たんなる多数決的問題になってしまうと思います。個人にまで差異が還元されると、差異は違うという点においてすべて共通になってしまう。でも、差異には差異自体のなかに違いがあります。日本人と在日コリアンとの差異は、男と女の差異と同じ差異ではありません。
では、どうするか、ということです。民族主義、あるいはマイノリティの運動の内部に抑圧がある、ということは確かにあるでしょう。それを認めない運動はもうダメかもしれない。でも、必要なのは民族主義を認めながら、個人によって相対化していくのではなくて、関係性のなかで相対化していくことではないでしょうか。マジョリティとの関係、あるいはマイノリティの中のマイノリティとの関係によって。そもそも、規範が存在するから抑圧がおこるのではなくて、規範が固定化するから抑圧がおこるです。規範を認めながら、つねに外と関係していくことによって規範を内側から破壊しうる契機をもつ民族主義というものが目指されていけばいいのではないでしょうか。

*1:返事が遅れている間にいろいろあって結局返せなかった「決断の暴力」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090310/p1の話ですが、あえて語るとするならば、「選択」を強いているのでは、ということでしょうか。イスラエルと対話すべきであるか。yes。そこまではいい。しかし、そう「選択」した瞬間にyesと言ったんだからな、ということで、それに抵抗するような様々な感情だとかもやもやだとかが考慮されなくなるのは問題だし、対話の可能性にたいしてyesといわざるを得ないのは現実的にはつねに立場の弱いほうに決まっています。