柴村仁、見下ろす、落語

 柴村仁が嫌いである。
 いやまあ、本人は「会えばいい人」なのかもしれないが、彼女の書いたものはことごとく嫌いなものが多い。
 ぼくが読んだ限りにおいて、彼女の小説のスタイルについては次のような印象を持っている。つまり誰かが死んだこと、または何かが失われたことがまず強烈なインパクトとして存在していて、その事実を中心に物語が回っていく*1。『プシュケの涙』がまさに典型的だが、『我が家のお稲荷様』もそうで、あの話の構造は要するに死んだ母親の縁で胡散臭い奴らがわらわらやってきて、死んだ母親の話をして帰っていくというものだろう。死んだ母親が物語の中心にあって、ことあるごとに母親が死んでいるということが思い出さされるのだ。
 それで、なぜそういった喪失を中心とした物語(くーきょなちゅうしん、とか言いたければ言えばいい)が嫌いかというと、そうした物語はたいてい「見下ろす視線」というものを構造として保有しているからだ。

■ 脳内ワセダ、見下ろす、残酷さ。
http://d.hatena.ne.jp/flurry/20080313#p1
僕の数少ない経験から得られた脳内高田馬場というのは、街を見下ろすひとが随分と多そうな街なのですが。というのはともかく、「エキゾチックで、胡散臭い 人が胡散臭いまま生きる」ことと、その胡散臭く見える人やその人の周辺の人が街を見下ろす視線を持っていることは何の矛盾も無く両立し得るように思いま す。

取り返し不可能な欠如というものを目の前に突きつけられてわれわれは、どうしようもなく、無力さにただうなだれるしかない。ただ、そのうなだれることこそ最も人間らしいありようであると言いたがる人たちがいて、それは「胡散臭さ」のような人間の不完全性を愛でる嗜好と結びついている*2。だが、不完全性を愛でるということはそれ自体が倒錯したものなのだ。たとえば、「お前のブサイクなところが好きなんだよ」という言葉に漂う何様感と同じで、あるものは不完全である(だがそれがいい)というとき、必要になってくるのは、その不完全性なるものを上から見下ろす視線である。もっと言えば、そうした上から見下ろす視線自体が、欠如や不完全性を愛でる心性を生み出しているのではないか?オリエンタリズムの視線においては西欧中心主義と異文化を愛でる態度が表裏一体であるように、人間の不完全さ、おろかさ、ままならなさを愛でる態度の根源に、ものごとを序列化せんとする確固たる視線があるのではないだろうか。
 『プシュケの涙』はまさに「自殺した」一人の生徒を中心にまわっていく物語であるが、二部構成になっていて、その構成自体が生徒の欠如を絶妙に浮かび上がらせるようにつくられている。それは悪趣味なぐらい残酷なのだが、その残酷さは作者自身も自覚的なように思える。むしろ、このような残酷な視線を通してこそ「生きた」物語というものが生まれるのだという確信すら、作品自身、あるいはこの作品をほめる人の文章から感じられるのだ。
 このあたりは好みの問題かもしれないが、このような自身の残酷さへの安住などといった、見下ろす視線にたいする開き直りは、ぼくは好きではない。
 ぼくが落語が好きな人をあまり信用していないのも、彼らがまさに「落語は不完全な人間のありようを生き生きと描いて〜」などと言い出しかねないからだ*3。人の醜さ、人間の業みたいなものをまるごと肯定するのが落語なんだ、と落語家、あるいは落語好きはよく言う。でも、そういった落語の持ち上げはたいてい、上で述べたようなオリエンタリズムな視線と「起きてることは全て正しい」的な薄っぺらい人生訓のグロテスクなミックスでしかないといつも思う。落語そのものが見下ろす視線の産物であるとまでは自分は落語研究者ではないので言わないし、言うこともできない。ただし、経験上、少なくとも落語が好きな人には人間の不完全さ、胡散臭さ、おろかさ、のようなものを積極的に[見下ろして」いこうとする態度をとる人が多いと思っている。それに、立川談志というひとはまさに「不完全な、悪としての人間こそほんとうに人間らしいし、そのような人間を描くのが芸である」というようなロジックで自分の差別心を正当化しているようにしか見えないので大嫌いである*4

なんていうか、頭悪い人ですよね。いいから他人にやさしくなれよ。残酷なことするなよ。でも、こういう人って、すべてを捨ててもその視線だけは持ち続けようとするからなあ。そして、その頭の悪さと心中するの。

 世の中において、残酷さというものは確かに存在する。しかし、わたしはその残酷さを愛する(肯定する)と言明するとき、現実に存在する残酷さと「わたし」の視線を通してみる残酷さ、とのあいだに発生する断絶については、もっと考察されていいようにおもわれる。「世界は美しくなんかない」*5深イイ話としてもてはやされるのは、マーケティング的にいえば中学校までだったはずではないか。

*1:そーゆー話はもちろん柴村仁に限らないが、当然、他のも嫌いである。

*2:一方サヨクは・・・という人もいるけど、ダメ人間サイコーなんて、むしろ今風のサヨクが言いだしそうなことでしょう。

*3:実際言い出されてもいる。

*4:そのようなものが芸であるなら、芸が禁じられる世の中と、芸の名の下に差別が行われる世の中と、どちらが息苦しいかというと当然後者であろう。

*5:これは柴村仁じゃないけど