1月24日における新宿中央公園での事件について

■緊急声明
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-26.html
 1月24日(日曜日)、私たちは、「レイシストを通すな!1.24緊急行動」として在特会のデモへの抗議行動を呼びかけました。すでに報告したように、私たちが呼びかけた新宿南口での抗議行動はひとりの逮捕者を出すことなく終了しました。しかしその後、在特会のデモ解散地点となった新宿中央公園にて、デモ参加者と衝突した人物が逮捕されたという情報を知る事となりました。
 
 この件について、すでに多方面から様々な憶測が流されています。私たちのブログにも、予断と偏見に満ちた無責任なコメントが数多く寄せられています。デモ解散時の現場を直接に目撃していない私たちは、逮捕に関する詳細を把握していません。しかし次のことを言わなければならないと考えています。
 
 それはこの間、ヘイトクライムヘイトスピーチに抗議する集会やデモにおいて、警察が続けてきた過剰かつ不均衡な警備体制と不当な逮捕を私たちが目の当たりにしてきたということです。これまで在特会ら「行動する保守」は商店や学校への押しかけ、集会妨害を繰り返していますが、そのいずれにも警察はほぼ介入することがありませんでした。その一方で、警察は在特会の行動に抗議する人々を車両と大量の警官で取り囲み、自由に移動することもままならない状態に置き、ときには逮捕してきたのです。
 
 在特会ら「行動する保守」の言動は、さまざまな人々の尊厳を貶めるものでしかありません。このような動きは批判されなければならないものです。1月24日の逮捕がどのような性質のものであるのか、詳細な情報を得たうえで問われる必要があると考えます。
 
 
 1月25日 「ヘイトスピーチに反対する会」

 ひとまず、この声明への賛同を示したうえで、個人として思ったことを書きます。
 「レイシストを通すな!1.24緊急行動」にはぼくも参加していましたが、警察の執拗な妨害にあいながらも、結果としてトラブルたるトラブルもなく、一定の成果を出して終わったということで、良かったと思っています。
 とくに印象的だったのは、もちろん新宿駅南口には多くの外国人も集まっているわけですが、その外国人の方々の食いつきが非常によかったことです。熱心に話を聞いてくれたり、ビラを受け取ってくれたりしていました。よく、観客席*1の人が「反在特会の運動は、当の外国人にたいしてかえって迷惑」ということを言いますが、少なくともこの日の活動に限っていえば、むしろ外国人の方からも支持を集めていた、といっていいのではないでしょうか。
 また、その活動の中において、「在特会にたいする直接的暴力の行使はやめようね」ということは繰り返し言及されていました。この言明は、「どのようなかたちであれ暴力はよくない」という意味ではなく、根本的には在特会を生み出した日本社会が問題なのであって、在特会ごときに熱くなって飛びかかっていっても面白いことは何もない、ということだと解釈しています。現場の集約が終わってから、ぼくは主催者の方たちとずっと付き添っていましたが、中央公園での事件でのことを知ったのは事件が起こった後のことです。したがって、一部で言われているような「ヘイトスピーチに反対する会」が少年たちを煽ったというような事実はまったくありません。これは、少年たちを切断処理する目的ではまったくなく、単に、まちがった情報によってこの情況を判断しても意味はないということです。
 
 ただ、暴力はすでに起こってしまいました。この暴力にたいしてぼくたちがどのように考えるかです。
 複数の動画を見る限り、少なくとも少年たちのほうから積極的に暴力を行使したといえる情況ではなく、正当防衛か過剰防衛かはともかくとして、防衛的な行動であることが確認できます。また、在特会の暴力を一度でも間近で視認したことがあれば、彼らに対峙するときにマスクをつけ、自衛の道具を持っていく、というのは十分合理性のあることであっておかしなことではありません。
 もちろん、これを理由に少年の暴力が正当化されるわけではありません。
 また、複数のソースによる不正確な情報としては、少年の出自が中国系であったこと、また池袋における在特会の中華料理店への攻撃の際も関わっていたこと、が指摘されています。池袋の事件は、まさにあれは在特会による威力業務妨害であり、それ以上に重要なのは、明確なヘイト・クライムであったということです。しかし、警察および国家権力は、それを実質的に黙認してきました。
 もちろん、だからといって少年の暴力に大義があるわけではありません。
 ぼくが想像してほしいのは、次のような情況です。中国系の出自を持った少年が、ヘイト・クライムを取り締まらないということでヘイト・クライムにお墨付きを与えるような日本国家、あるいは日本社会の情況を眼にして、自ら在特会と対峙したということ。在特会の人間たちに囲まれ、有形無形の暴力が浴びせられる中で、少年の暴力が行使されたということです。
 この暴力を、ひとくちに「正義」といってしまうことについては、ぼくには若干のためらいがあります。あるいは、「正義」とは「いかなる情況であれ暴力はいけない(キリッ」という観客席の側にあるのかもしれません。
 
 でも、いったいどのような権限で少年を非難できるというのでしょうか。少年は「戦略的」には軽率だったかもしれません。ですが、この暴力は在特会に向けられたもののみならず、日本社会にも向けられています。われわれの社会が、差別を許さないという能力に関して、NOを突きつけられたということです。
 ぼくは「文学」についてはからっきしですが、「文学」に意義があるとすればまさにこのようなときのためにあるのではないでしょうか。あのような暴力が起ってしまったことについてぼくが感じるのは、少年の絶望的な「悲しみ」です。
 もちろん、いまだ正確な事情はわかっていません。しかし、現段階でいえることがあります。観客席の「正義」と少年の「悲しみ」でいえば、ぼくは少年の側に立つということです。そうしなければ、事件の数十分前に外国人差別に反対を叫んでいた意味がまったくなくなるのです。
 
関連

■本日1月24日、新宿中央公園での事件について
http://d.hatena.ne.jp/toled/20100124/p1

(31日追記)

■1.24で逮捕されたAさんへの攻撃について
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-29.html

*1:「観客席」については、以下の記事を参照。「inumash氏へ、「観客席なんかありません」」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080404/p1「無差別殺人くらいしかやることがない」http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080614#p1