リフレ派とナショナリズム

■「人災」事件追記
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html

 この記事に限らず、
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100816/p1
のコメント欄でしたぼくの「ナショナリズム」発言が問題になっているようなので、とりあえず自己フォローをしておきます。
 まずぼくは、リフレ論がその内的論理の結果ナショナリズムに結びつくという議論をしているわけではありません。ナショナリズムは、その議論の内的論理だけでなく外形や議論のされ方によっても喚起されます。リフレ論に関して言えば、よく知りませんがマクロ経済っていうのの重要な指標のひとつにGDPってのがあって、それは普通国家単位で算出されるんですよね?さらに、日本で行われてるリフレ(金融)政策論の中心は円という日本国の通貨をどうするかという話であって、だから日銀どうする問題とかが出てくるわけですよね?このような議論の中では必然的に国家が主語になったり述語になったりするのであって、それは容易にナショナリズム的心情と結びつく。
 こじつけである、というかもしれません。でも、こじつけではないことはリフレ派の皆さんが一番よくご存知だと思います。なぜならば現に、GDP成長率を並べて「このままでは日本の一人負けである」とか「日本がデフレで成長しなかったせいで中国に追い越される」とか、ナショナリズムの欲望においてセンセーショナルな見出し語を並べることでリフレ政策への支持を訴えてきたか、少なくともそれを容認してきたのがリフレ派の皆さんだったわけです。ある国が経済成長することは他の国に対してマイナスになるのではなくむしろプラスにもなりうるというのがリフレ論なのであれば、上記のような他の国が経済成長することはむしろ日本のマイナスになる(たとえば勝ち負けということばを使う)というイメージを喚起させる言葉遣いは、むしろリフレ派のひとたちが率先して批判しなければならなかったのではないでしょうか?それを放置しておいて、今更左派の支持が無いことを悲観されても、それは必然だったでしょうということになります。なぜならば、右派にとって日本が一人負けすることや中国に経済で追い越されることはアプリオリに一大事ですが、左派にとってはそれだけでは「はぁ、それのどこが問題なんですか?」ということになるからです。むしろそういったナショナルな言葉遣いにドン引きするだけです。いくら松尾氏たちがリフレ論の内的論理に従って、左派こそがリフレ論を支持すべきであると研究会や講演で訴えても、家に帰って新聞を読んだらナショナリズムを喚起するような見出しとともに高橋洋一氏とかがリフレ論を訴えるコラムがあるわけです。「あれー…、聞いてた話となんか違うぞ」ってなるのは当然ではないでしょうか?まさに「見事」な「リフレ方面のパス回しの技」といえるでしょう。
 では、ナショナルな心情と結びついたリフレ論は何故悪いのか?ということになります。さきほども述べたように、ぼくはそうと一言も言っていないのに、リフレ論の内的論理はナショナリズムに結びつかないよ、と言ってくれた人々がいたわけです。もしそうだとすれば、ナショナリズムを喚起することでリフレ論を煽ってる人たちは、ニセの敵対性を煽っているだけでなく誤ったリフレ論を伝道しているわけですから、それを放置することはリフレ論それ自体のためになりません。これは知識のあるリフレ派が率先して解決するべき問題だと思います*1
 さらに問題なのがナショナルな心情を喚起することで、内部の敵対性が隠蔽されることです。すなわち「挙国一致」の論理によって。現実的にいってリフレ政策はパッケージでしか行われ得ません。金融政策「だけ」やるというのも十分パッケージで、そのパッケージ自体に政治性があります。


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080901/p1
 いわば、次のような話だと考えてみたらどうでしょう。いろんな風船があります。船の形をしたのとか、飛行機の形をしたのとか、怪獣の形をしたのとか、ウルトラマンの形をしたのとか。で、それらのさまざまな風船の中から、一つを選ぶ。仮に、飛行機の形をしたのを選んだとしましょうか(これが価値の選択です)。で、膨らましていきます。まだまだやわらかい皺の寄った飛行機風船を膨らまして、パンパンに膨らんだ飛行機型風船にすることはできると思うんですね。しかし、膨らました後で飛行機型風船を船型に変形することはできないわけですね。基本的には。だったら、最初から船型風船を選んで膨らますべきなんです。そういう問題だと思います。
 その意味で、マクロ経済政策が、「「いかなる社会を作りうるか」についての選択肢の範囲をできるだけ広げる」というのは、賛成できません。マクロの政策がミクロ経済政策も含めて作りうる社会の選択肢を広げる、その意味で、マクロ経済政策がミクロ政策の前提として位置づけるわけですが、僕はこれに賛成しません。むしろ、先に社会の形を選択された上で、それを量的に大きく膨らましていくのがマクロ経済政策の役割だと考えます。マクロ変数として集計する以前の実物経済を最初に念頭において考えるなら、そうなるだろう、と。そこが稲葉さんと違うところでしょうか。

「挙国一致」の論理と「緊急事態」の論理の抱き合わせによって、本来そこが一番肝要なはずの「どの風船を膨らませたいか」という問題を後景化し、その差異によって明らかになっていたはずの立場性の違いによる内部での抑圧も見過ごされるのです。

■「差別・排外主義に反対する連絡会」の諸君へーーあさま山荘をもう一度やろう!
http://d.hatena.ne.jp/toled/20100728/p1
そうなのだ。敵対性を外部化してはならない。日本人は外国人を抑圧し、異性愛者はセクマイを抑圧し、中産階級は野宿者を抑圧し、男性は女性や性別におさまりきらないものを抑圧し、健常者は障害者を抑圧し、高学歴者は低学歴者を抑圧し、識字者は非識字者を抑圧している。連帯? 防衛? 統一戦線? 在日は、日本と日本国民からの弾圧と主体的にたたかってきた。在日の解放は在日自身の手によって勝ち取られるのだし、抑圧者がどのような攻撃をしようとも、たおしたと思っても、被抑圧者を殲滅することは不可能だ。それは古代ギリシャからの伝統である。抑圧者は「防衛」に酔いしれるまえに、まず、踏んづけてる相手から足をどかす努力をすべきだ。被抑圧者は、「良心的」抑圧者に利用価値があれば利用すればよいが、「良心的」抑圧者もまた抑圧の構造において一定の機能を果たしているのだということを忘れてはならない。「我々」はさまざまな文脈において敵対しあっている。「彼ら」をいいわけにして翼賛してはならない。「彼ら」が在特会のようなものである場合は、とくにそうだ。若い諸君は知らないかもしれないが、1945以前の軍国主義もそうやって民間右翼や軍部や官僚や社会主義者自由主義者が役割分担しながら進行していったんだよ。

そんなこと言われるまでもないとおっしゃるかもしれません。そうなのかもしれません。まあ、だとするとあの「リフレ脱却国民会議」というネーミングセンスは何なのでしょうね*2。内でどんな議論があったのかわかりませんが、松尾氏なりがこの名称の採用にあたってしっかりと苦言を提していたことを願ってます。
 ついでながら「役割分担」について一言いっておくと、松尾氏やクルーグマンというのは、ある種のリフレ派にとって本当に都合のいい存在なんだなあと思います。ぼくはこの数日間松尾匡という名前をイヤというほど聞きましたが、発言者の中で松尾氏のリフレ政策を支持している人はほとんどいませんでしたし、クルーグマンが富裕層増税を訴えているという話も耳タコなぐらい聞きましたが、その中で実際に富裕層増税に賛同してそうな人はほぼ皆無でした。外的にはとりあえずサヨクを騙す看板を立てとけということでナチス政権におけるノイラートみたいな役割を担う一方、内的には松尾氏に再分配の問題をアウトソーシングすることで、自らがその問題を引き受けなくてもいいという免罪符のような機能を果たしてる気がします。

*1:同じことが世代間格差問題にもいえます。もしリフレの内的論理が別に高齢者の負担を増やす方向に向かわないとすれば、老人は金持ちだからインフレによって若者に実質的な富の移転をすることこそが「再分配」だと考えるロスジェネ系のオカルト論者に対して公然と異議を唱えるのが誠実というものではないでしょうか。

*2:何度も言うように、ぼくはリフレ論とナショナリズムが必然的に結びつくといってるわけではなく、格段の注意を払わないとそういう方向で議論がすすんじゃうよね、ということを言っているわけですが、こんな名称を採用してる辞典でリフレ派においてはそのような問題意識を感じられないというのはありますね。