平和に生きる権利

 「4.10高円寺 原発やめろデモ」に行ってきた。
 15000人ものデモに参加するのは初めてで、とにかくその熱気の凄さに圧倒された。

 この動画の冒頭で流れている曲は、その他の多くの動画においても象徴的な取り上げ方をされており、ある意味で4.10デモを代表する曲となっている。
 この曲は、デモの前段集会で演奏され、またデモの途中やゴール地点でも繰り返し演奏されていたと思う。

曲のタイトルは、チリのフォルクローレ・シンガーであるビクトル・ハラの代表曲のひとつ「平和に生きる権利 (El derecho de vivir en paz)」。このデモに参加した人たちの多くにとってみればかなりメジャーな曲であると思うが、日本において一般的に知られているかどうかは疑わしい。
 で、ぼくが紹介するのもおこがましいのだが、この曲の背景を共有することは、このデモが何であったのかを共有するために必要なことだと思う。また、ただ漠然と聞いていたひとにとっても、違った目でデモの動画を見るきっかけにもなると思うので、wikipediaレベルの概略だが簡単に説明しておく。
 
 この曲が収録された同名のアルバムは、1971年にリリースされた。

曲の歌詞はベトナム戦争を題材としており、明確に(北)ベトナムの側に立った上で、侵略と植民地支配に対して「平和に生きる権利」を強く掲げるメッセージ・ソングとなっている。
 しかしこの曲は楽曲そのものの内容とともに、この曲の作者自身が辿った運命によって、歴史に強く刻印付けられることになった。
 
 1970年に合法的な選挙によってチリに成立した左翼政権、アジェンデ政権は、富裕層のサボタージュとCIAの執拗な干渉によって疲弊し、1973年にアメリカの支援を受けたアウグスト・ピノチェトの軍事クーデターによってついに崩壊した。

 アジェンデは大統領府において人民に向けた最後のメッセージを発した後、最後まで抵抗を続け、クーデター軍によって殺害された。
 ちなみに、のちにピノチェトに登用されチリを新自由主義経済の実験場にしたミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派の経済学者たちは、アジェンデ政権崩壊を聞くやいなや喝采を送ったという。
 このチリ・クーデターについては、これを題材に多くの映画や楽曲がつくられた。正確にはクーデターを受けてつくられたわけではないが、クーデターと結びつけて演奏されることが多い「不屈の民」も、4.10高円寺デモでは演奏されている。

 
 ビクトル・ハラはこのクーデター直後、軍によって逮捕され、チリスタジアムに連行された。かれはそこで同じように連行されてきた民衆を励ますために歌をうたったところ、軍によって別所に連れて行かれ、殺害された。
 
 ハラはまさしく「平和に生きる権利」をうばわれて死んだ。しかしかれは同時に、もっとも「平和に生きる権利」を求め続けていた人間のひとりだったと思う。かれはそれを、死の瞬間においてさえも、歌というかたちで求めようとした。だがそれによって彼の生命は、たとえ数分だったとしても、縮まったことに変わりは無い。
 じっさいのところ、ピノチェト政権でさえも、「平和」に人生をおくった人びとはたくさんいたはずである。諦観を抱えながら、日々の生活に埋没し、ただシカゴ学派の人びとが主張する「トリクルダウン」をすがるように信じて生きていけば、少なくとも殺されはしないことは可能だったと思う。
 しかし、ハラのあとも「平和に生きる権利」を求め、政権に抵抗し、死んでいった者は数知れない。かれらは自分たちが何を求めているのかもわからない間抜けだったのだろうか?それを議論するのはひとまず措いておこう。
 
 ただ、ひとつだけ揺るぎないのは、「平和に生きること」は「権利」だということである。