東浩紀と宇野常寛が、言論人の「責任」について何を語れるっていうの!?

東浩紀宇野常寛とスネオ主義の臨界点
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20110416/1302962668

 あずまんと宇野は既に燃料棒の99%が損傷したとの噂。
 まあid:Cunliffe先生のいうとおり、「ポモ村の中でなら好きなだけやってろ」という話であるのだが、いちおう、松平さんがやっている『新文学03』という同人誌に書いた『ゼロ想』批判を抜粋しておく。

 宇野は「物語」の内容の優劣や正しさを考えるのは意味がない、という。さらに南京大虐殺があったかなかったか好きなほうを信じればよい、と歴史修正主義まで容認する。これは、いかにポストモダン相対主義者といえど言わなかったことである。日本には何人か見受けられるが、それは恐らくガラパゴス的な進化の賜物なのだろう。ともあれ、宇野がそう主張する根拠は当然「大きな物語」が崩壊し、それ自体完結した「小さな物語」を比較する尺度がないからである。
 だが、たとえば在日朝鮮人を見かけたら石を投げつけるべきであるという信念を持ち、実際に投げつける人がいて、その集団が他の集団によってそれを妨げられないほど大きくなり現実的に驚異となったとしても、宇野理論ではそれを非難できない。設計主義によって構築された社会システムがそのような行為を妨げる?よろしい。ではそのシステムの構築にあたっては、少なくとも他者に石を投げてはいけないという価値については共有できているようだ。われわれは宇野が何と言おうが価値についての尺度をいまだなお共有することができるし、価値を吟味することは意味がないどころが、それをしなければわれわれの生活は成り立たない。彼がいえるのはせいぜい「価値を問題にしてはならない」ということであって、それはそれ自体がひとつの「価値」なのである。
 なぜこのようなことを述べなければいけないかといえば、宇野の議論があまりにもこの点において頑なだからである。彼は、「決断主義」においてその決断には責任が伴うことを認めている。何を信じればいいか分からないというセカイ系の前提を引き受けることによって決断主義的想像力は台頭したという。

 セカイ系決断主義に克服されたとき、そこにあったものはセカイ系的な前提――社会像の変化によって、確実に価値のあること、正しいことがわからなくなり、何かを選択すれば誰かを傷つけ、自分も傷つくこと――に対する否定ではない。むしろ肯定であり、前提としての徹底した共有である。徹底してセカイ系的前提を受け入れたからこそ、生きるためには(たとえ無根拠でも)何かを選択し、決断し、その責任を負わされなければならないという想像力が台頭したのだ(p135)。

ところが、決断にともなう「責任」とは何ぞやということについては、宇野はこののち語ることはない。決断と責任をセットで考えることは、当たり前のことである。ところで、ある決断をすること――ここではある「物語」を信じるという決断をすることに限定しても構わないが――に伴う責任は、つねに自分にだけ負うものではない。南京大虐殺がなかったという「物語」を信じる者については、南京大虐殺の犠牲者や生存者において責任が問われる。責任―responsibility―応答可能性の問題を考えると、当然そうならざるをえない。現代思想の研究者である高橋哲哉は、この応答責任について以下のように説明している。

 たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがあるわけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいてください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えてください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきません。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」というわけですから、わたしは気づいたときにはそれを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いてしまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応えるか、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。
 「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることです。(…)「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのかぎり、その選択は私の自由に属するということもできるでしょう。
(…)私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではないのです。(『戦後責任論』p.33-34)

 たとえば日本国民である私が南京大虐殺があったと信じたとしても、そのことによって即座に中国の人々に対する謝罪義務や賠償義務が発生するわけではない。ところが、私が南京大虐殺を信じるにせよ信じないにせよ、応答責任の問題からは私は逃げることができない。「他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではない」のである 。この他者との関係、責任の引き受けにおいて、「物語」の内容はけして入れ替え可能なものではない。他者との関係は、自分が何を信じるかによって変わってくるものだ。もちろんコテコテの独我論者ならば他者の存在をそもそも認めないのかもしれないが、少なくとも宇野は他者の存在を認め 、また「決断主義」の他者回避の問題について批判的であり、倫理をめざしているはずである。にも関わらす、彼は決断に伴う責任の問題から、執拗に逃れようとしているようにみえる。責任に目を向けたとたん、「物語」の内容、「物語」の価値評価の問題に踏み込まざるをえない。宇野は「物語」の価値評価について考えることは意味がないと繰り返し述べるが、穿った見方をすると「物語」の価値評価をしてほしくない/されたくないのだ、という彼の個人的なメッセージにも思えてくる。その点で、宇野が批判したセカイ系の引きこもり的想像力のほうが、他者との関わりにおいてより倫理的なように見える。何もしないという選択(それは「決断」であると宇野自身が認めている)は他者の存在を認識した結果生じたものだからだ。セカイ系は文字通り世界に開かれているのに対して、(個々の島宇宙が、ではなく)決断主義という考え方それ自体が世界から目をそむけた「引きこもり」の哲学といえる。
(北守「『ゼロ想』への葬送―あるいはテンプレだらけの宇野常寛批判」『新文学03』より)

「震災に積極的に介入する言論人」も「モノポリーをするサブカル批評家」も、ポストモダン相対主義に依拠した無責任主義を貫いているかぎり、どっちもどっちとしか言えない。