「反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン」に賛同します
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111013/1318517161
反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン
お上も下々も、右も左も「がんばろう」?
「日本はひとつ」じゃない!
ずっと異常事態だったでしょ?
3.11にはじまったことじゃない!
日時 11月23日(水・休日) 12時30開場 13時00分開会 20時閉会予定
場所 千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅徒歩10分)
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sendagaya.html
資料代 500円
【実行委員会への参加者募集!】
※ お問い合わせは→ war_resisters_fes11 あっとまーく yahoo.co.jp
《基調よびかけ》
「脱原発」「エネシフト」、けっこうもりあがってる。
でも、廃炉になれば一件落着、なのか?
福島で、全国の原発で、
炉を止めるための被爆労働はつづくだろう。
それに狩り出されるのってだれ?
汚染された農家のことはどうするの?
いま福島の原発近隣で被爆をしている人たちは?
首都圏のための原発を福島に置かせた政治・社会構造は?津波のスペクタクルが日本のマスメディアを埋めつくしていた3月、
リビアでは「民主主義のため」と称して欧米が爆弾を落しはじめていた。
自然が作り出した災厄に日本人は釘づけとなる。
人間が作り出した災厄を日本人は気にもとめない。
それどころか、政府は被災地で自衛隊と米軍の「トモダチ作戦」が実験できて得意顔だ。
しかも「だから沖縄に米軍基地が必要だ」と屁理屈をこねる。
そして大国の利権うずまく新興国・南スーダンに日本も出遅れまいとばかり、
憲法違反の海外派兵をまたもや画策する。なにも変わらない――いや、むしろ悪くなった。
3月11日以後のスローガン「がんばろう日本」。
復興を名目とした国民の総動員だ。
「日本国民は「ひとつ」になって、この難局を乗り切ろう!」
その過程で、ほかのさまざまな問題が置き去りにされる。
権力者は、今まで以上にやりたい放題やっている。社会運動の側はどうか。
この半年で「原発こわい」からどこまで進んだだろうか。
放射能は差別しないけど、それをつくった人間社会は差別している。
それなのに「脱原発」だけで「国民総被害者」でまとまれればOK?
それ以外のことを言うのはKY?
そういえば「貧困」の問題はどこにいったんだろう。
基地の問題は? 差別の問題は? グローバリズムの問題は?いまこそあらためて言おう。
ずっと異常事態だったでしょ?
空気読んでる場合じゃない!
《企画内容》
ことしは4つの分科会と全体会をつうじて、「ずっと異常事態」であるこの社会でどんな抵抗をたてなおすべきかを考えます。どの会も、講演のようなかたちではなく、なるべく多くの参加者が意見を表明できるような討論のかたちで準備しています。
【反戦】 21世紀の戦争国家・日本 合言葉は「ぜんぶ「反日」のせい」
【反原発】 反原発運動のこれから 「がんばろう日本」じゃないよね
【反グロ・反金融資本】 「お金」に支配されていいのか!
【地方/都市問題】 地方のくいぶち問題と原発【全体会】 さて、どうする?
反戦と抵抗のフェスタ2011 実行委員会
といあわせ war_resisters_fes11 あっとまーく yahoo.co.jp
ブログ http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/
賛同・ブース出展を募集しているようです。
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111023/1319368347
http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111023/1319368686
ぼく自身も、この基調呼びかけの問題意識について共有するものであり、フェスタに賛同したいと思います。
以下のような賛同文を書きました。
3.11以降やおらあらわれた都市の反原発運動の盛り上がりは、にわかに終息していっているようにみえる。当たり前だ。放射能怖い放射能怖い。あっちで何ミリシーベルト、こっちで何ミリシーベルト。大変だ大変だ行動行動行動……。そんな運動が長続きするはずがない。正直、ぼくもうんざり気味である。いちど立ち止まって、本当に問題なのは何か、ゆっくり考えたい。しかし、そのような違和感を口にしたものは、「危機感が無い奴」ということにされてしまう状況がある。
おかしくないか?もう「緊急事態」ムードに酔いしれるのはやめよう。「緊急事態」ということばは、どんな悪いことをやっても不問にできる魔法の言葉として歴史的に用いられてきた。そして、放射能だけが「緊急」なのではない。
3月以降の反原発運動の勢いが鈍りつつあるいまだからこそ、緊急的なものと緊急的でないものを差別的にわけるのをやめて、何が「正しい」事柄なのか、問い直すときだと思う。