言説の土壌

「安倍政権を倒したいならば、左派は経済を語れ」

 これが、ネット上において国政野党に票を集めようとする運動のスローガンになって久しい。もちろん、野党が経済政策を充実させ、活発に支持を訴えることについては、大いにやればよいと思う。しかし2点ほど引っかかることはある。まず1つ目は、野党および左派はすでに経済について語っているということである。その状況についてこうしたスローガンをとなえるのは、左派は経済的に無策であるという右派・与党のプロパガンダへの加担ではないか。これは、すでに参議院選挙の1人区での一本化など野党共闘が進んでいるにも関わらず「野党はバラバラ」だと批判する野党支持者にもいえる。

 2つ目は、そもそも与党も経済を語ってはいないのではないか、ということである。与党は、財界や資産家や投資家を喜ばせるような政策について語っている。しかしそれは経済を語っていることにはならない。2012年の政権交代時に提示したリフレ政策のヴィジョンは、すべて破綻しており、それに代わる経済政策を与党は出してはいない。「リフレ 波及経路」で検索すると分かるが、かかる政策は、予想インフレ率の上昇によってあらゆる好循環が発生するはずであった。しかし、現政権はインフレ率2%を何年たっても達成できず、ついに日銀はその目標を断念するに至った。初動で失敗しているのだから、局地的な数値の改善を政権の経済政策に結びつけようとする御用学者の取り組みには無理があるというしかない。

 つまり、問題は、「与党(自民党)は経済を語り、野党は経済を語らない」ことなのではなく、「与党(自民党)は経済を語るイメージを持たれており、野党は経済を語らないイメージを持たれている」ということであって、政治文化の問題なのである。

 さらに、この「経済」の項には、「安全保障」や「社会福祉」など、様々な項を代入することができるだろう。ここで「社会福祉」が入るというのは感覚に反するかもしれない。しかし、選挙において有権者に関心があるテーマを調査すると、つねに「社会福祉」が1番にあがるにも関わらず、いざ選挙となると、公助を削って自助努力を奨励するという政治的イデオロギーのもとで、年金制度を徐々に改悪し、足りない分は投資で補えとする与党(自民党)が勝利するのである。

 したがって、問題は「与党は重要なことを語り、野党は重要なことを語らない」という政治的イメージだということがわかる。これは、野党がどれほど重要なことを語っており、与党がそれを無視しているのか(年金に関する金融庁報告書への態度ひとつとっても理解できる)、ということを十分知っているはずの野党支持者でさえ、多くの人が有している政治的イメージである。これは、事実の問題ではなく文化の問題である。このような政治的イメージを生む政治文化を変えなければいけないのである。

 

 今年(2019年)の1月に出たフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(長谷川晴生訳、新泉社)は、近年ドイツで急激な成長を続けている極右政党AfD(ドイツのための選択肢)および、新右翼と呼ばれる社会運動について、解説がなされた本である。

ドイツの新右翼

ドイツの新右翼

 

 ヴァイスによれば、ドイツの新右翼は、その思想的ルーツはアルミン・モーラーによって定義付けられたヴァイマル共和国時代の「保守革命運動」にあり、運動論的ルーツは1968年革命の経験にある。そして、この運動が結果として成功をおさめたのは、移民の増加や福祉国家の行き詰まりといった最近の情勢によるだけではなく、グラムシの理論を簒奪した「陣地戦」の一環としての「メタ政治」戦略のせいだという。彼らは社会の上層部にいるような保守主義者とも巧みに連携しながら、草の根運動として自分たちの言説が通用する土壌を少しずつつくりあげていったのである。

 「メタ政治」とは、直接的な現実の政治というよりは、エンターテイメントなどを駆使して、より基層的な、いわば文化(政治文化)の領域をまず自分たちの色に染めていこうとする運動である。政治的な言説を発する前にまずその土壌を開拓する戦略は、結果論としては正解だったというしかない。

 では左派はこのような政治文化の開拓は不可能なのだろうか。現在、ドイツではAfD以上に、緑の党の躍進が著しい。それは、部分的にはCDUやSPDといった二大政党をしのぐ勢いである。その理由は、ひとつには、経済や社会の問題を幅広く「語る」ことで、SPDを中心とする既存左派の行き詰まりを敬遠する人や、極右勢力の台頭などに危機感を持つ人々の受け皿となっていることがある。しかしそれだけではなく、看板商品である環境問題が、ドイツ社会において政治上の最重要問題となりうるような言説形成に成功したこともあるだろう。2018年、スウェーデンに端を発する地球温暖化防止を訴える高校生デモ「将来のための金曜日」は欧州に広がり、ドイツでも多数の参加者を集めている*1

 環境問題をテーマに高校生が数万人のデモを行うなどということは日本では考えられないことであり(インスパイアされた行動自体はあるようだが)、むしろ「現実主義者」を名乗る一群によって、鼻白まれたり攻撃を受けたりしてしまうだろう(これ自体が日本の悪しき政治文化のひとつであるのだが)。逆にいえば、ドイツでは環境問題を訴える人々が言説上の陣地戦に勝利したのである。さらに興味深いことなのは、緑の党もまた1968年運動の落とし子だということだが。

 

 『ドイツの新右翼』を読むと、政治的な言説を戦わせることは必要だが、その前に、政治的な言説を戦わせるべきアリーナはいかなる場所なのかを常に考え続けなければいけないことがわかる。改憲は防がなければいけない。少子高齢化社会についても、自助努力を煽るしかない無能な現政権を一刻も早く退陣させなければ本当に取り返しがつかなくなる。したがって左派が早急に支持されなければ意味がない、という気持ちは理解できる。しかし、それを急ぐあまり、左派の言説に説得力を持たせる空間自体を売り渡すような言説に飛びついてしまっては意味がない。ことに、経済の問題を重視するあまり、差別や人権の問題を後景化させてしまうような一部の運動は、長期的にみれば悪手を行っていると判断するしかない。

 左派への支持を訴えるために何かを語るとき、アクチュアルではありつつも、俗情とは結託せず、現在の政治文化の土壌には乗らない(むしろそれを書き換えていく)言説になるよう、つねに工夫していく思考が必要なのである。

*1:個人的は、こうした運動がラディカルな可能性を開きうるかについては慎重に判断したいが、少なくとも環境問題についての言説が社会に浸透している例としてあげられる。