耽美的ユーフォニアム

 部活動という制度が、否定的な意味で扱われるようになって久しい。他国なら地域や民間のクラブでやるような活動を学校教育の場で行うという独特のシステムは、すでに理念と実態の矛盾を隠しきれなくなっている。「ブラック部活」という言葉も登場してきている*1

 このような状況下で、もはやナイーブな「青春部活もの」はありえない。吹奏楽部も例外ではない。全国を目指す部活の、すべてのプライベートを犠牲にしなければならない練習量の多さ・厳しさなどが批判にさらされている*2

 

 その意味では、『響け!ユーフォニアム』の舞台、北宇治高校も、こうした時代の批判を免れえないのかもしれない。確かにその練習量は、公立高らしくある程度抑制的であり、平日は暗くなる前に帰宅することができる。しかし、自主性という名の個人練習や、土日および夏休みのほぼ全てがつぶれる環境は、このご時世においては、まったく正当にも問題とされるであろう。

 もちろん、本作において、こうした近年の部活動をめぐる問題がまったく扱われていないわけではない。しかし、あらゆるエクスキューズを行ってなお残る、部活動の薄暗い負の部分については、一人のキャラクターに押しつけたまま宙づりにされている。すなわち斎藤葵である。

 斎藤葵の唐突な退部は、久美子に衝撃を与える。その理由は、コンクールと受験勉強との両立が困難だからというものである。あとになって、前年度に発生した部内対立に無力だったことへの罪悪感、という真の理由が明かされる。しかし、二番目の理由こそ、一番目の理由に対する物語上のエクスキューズによるものであるようにも思える。全国金賞をとるための過酷な練習に耐えられないものは公式には存在しない。しかし存在するかもしれない。斎藤葵はそれをほのめかしている。そして久美子は、最後までこの問題を自らの中で整理できていない。

 しかし、斎藤葵の喪の作業が物語において完結していないことは、本作の欠点ではない。むしろ斎藤葵をひとつの境界石として、北宇治吹奏楽部は一人の脱落者も出さず、崇高なる音楽の頂点を目指す集団へと変貌する。この点については、物語の結末までほとんど迷いがない。この瞬間に、単なる部活もののリアリズムを超越するような、本作の主題が決定した。一言でまとめると、美学的なものへのデモーニッシュな傾倒である。それが物語の主題として、決断主義的に表出してきたのである。

 確かに社会的な倫理や正義についても、その前もその後も考えられていないわけではない。しかしこの物語においては、それらは窮極的には、美しきものの前に立たされるや否や、すべて雲散霧消せざるをえないのである。象徴的な事例として、麗奈の幼少期のエピソードがあげられる。音楽活動を行う上での文化資本の有無という階級対立の問題は、美しい音楽によって有耶無耶にされるのである*3。ところで、美しきものとは何だろうか。

 

 音楽とは美しいものである。しかしそれは、音楽が上手いこととは異なっている。全国金賞となるのは、上手な音楽を演奏したグループである。久美子は「うまくなりたい」(1期12話)のである。一方、吹奏楽部の場合、高校野球と比べてもさらにそこからのキャリアパスが少ないという問題を抱えている。音大に行くような突出した才能を除き、ほとんどの生徒にとって、うまくなった先に何があるのか?また、物語を駆動させるのは、もっぱら部活内の人間関係である。それは、いかにその人間関係の問題が当人たちにとって重要であろうと、客観的にみれば「狭い世界」の話である。しかしその「狭い世界」は、そこに集う人々を虜にして、利害を無視した目標(上手くなって全国金賞を狙う)へと結束させる、デモーニッシュな空間なのである。

 このように考えると、(「真剣」に取り組まれている)部活動はふつう考えられているような「日常」の一部(「日常物」!)ではなく、むしろ「日常」の中にある「異界」として捉えることもできる。ただ純粋に上手さという軸によって成り立つ「異常な」世界。それは、いわば谷崎潤一郎的な耽美主義の世界である。ありふれた日常の世界を別の視点で見たところに、我々の感性に刺激を与えてくれる、奇想の世界が広がっているのである。そして『響け!ユーフォニアム』の物語的な軸足は、むしろそちら側にあるのだ。

 もちろん、『響け!ユーフォニアム』の奇想の世界は、たとえば流行の異世界転生もののようなファンタジー世界ではない。しかし、主人公である久美子の前には、クエストのごとき謎がつねに横たわっている。その謎とは、つまり、久美子にとっての他者についての謎である。その他者とは、たとえば麗奈でありみぞれでありあすかである。久美子はその謎を追及する。そして彼女は、それぞれのキャラクターの中にある美しきものを発見し、それに魅了される。しかし、彼女は同時に、その謎の中に背徳的だったり陳腐的だったりするものも発見する。女子高生の教師に対する恋愛感情、友人との共依存と不誠実、そして「特別じゃなかった」(2期7話)あすか先輩……。

 

 しかしながら、それは当然なのである。日常の中にある奇想の世界で発見されるものは、結局のところ日常の反転としての奇想でしかないからだ。奇想の世界にある美しきものは、境界石――斎藤葵のような――を越えた先でしか美しきものではない。世界が反転して日常に戻ったとたん、陳腐なものに戻るのである。コンクールの本番が来てしまうことを恐れるあすか(1期13話)やみぞれ(リズと青い鳥)は、それを理解している。この美しき日々は、退屈な日常の中で一瞬だけ奇跡的に見ることができた、白昼夢に過ぎないということを。

 だが、それがどうしたというのか。美しきものの正体が陳腐なものだとしても、それでも美しいものは美しい。その美しさを手に入れるためには、どこまでも堕落せざるをえない。「ワルモノ」(1期11話)にならざるをえない。美しきものは善悪の彼岸においてしか求められないのだ。京都アニメーションが描く、大吉山や宇治川の美しい風景は、久美子が麗奈やあすかの謎に深く分け入り、引き返すことができない地点に到達してやっと発見した、ある白昼夢の情景なのである。

 

 『響け!ユーフォニアム』のこうした解釈を通して初めて、久美子-麗奈-秀一の関係が理解できるようになる。久美子のセクシュアリティが明示されることはない。だが、麗奈との耽美的・背徳的なものの美学に魅了されている彼女にとって、いずれにせよ秀一との「ノーマル」な関係を、無難に継続させられるはずはないのだ。後者はあまりにも日常的すぎて、日常の裏側にある美学には到達できないのであるから。

 

 

*1:クローズアップ現代「「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~」https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html

*2:註1参照

*3:武田綾乃「お兄さんとお父さん」『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』二二九頁以下