「表現の自由戦士」は権力がお好き

現代オタクの心性について鋭い分析を加えた墨東公安委員会氏の記事「チンドン屋たちの暴走 SNS時代の「オタク」と表現の自由赤松健氏の出馬について」(https://bokukoui.exblog.jp/32726091/)がバズっています。私自身も興味深く読みました。特にオタクの欲望が「批評」から「宣伝」へと変化しているという指摘は、昨今のSNSでのオタクの振舞いについて鑑みるに、頷けるものがありました。

一方で、この記事は多くの批判に晒されています。新しい視点とは何かも示さず「古い」と負け惜しみのように断言するものや、「長い」という、自分は140文字以上の文章が読めないのだと自白しているようなものがほとんどです。また、多くの人は表現規制問題とは本質的に対権力問題であり、ジェンダーエスニシティを差別的・ステレオタイプ的に描くことへの批判は表現規制とは呼ばない、という氏の主張に反発しているようです。

確かに大資本や宗教団体が国家権力と結びついて表現規制を推進するというケースもあります。しかしその場合でも、表現規制問題が対権力問題であることに変わりはありません。表現は権力からの自由を獲得したあとでも、絶えず批判され、更新されていくものです。墨東氏は、これを「動態的」という言葉で表しています。

この表現はいいか、よくないかをめぐって、議論という表現をさらに重ねる時、そこに表現の自由の場が作られるのです。表現の自由は参加することによって動態的に表れるもの、社会の一員である自分たちで常に作り続けていくものだと、私は考えています。

あらゆる表現は、生き生きした社会の運動との連関の中に常に置かれています。表現されたものが、評価を許さず超然的に保障されるという事態は、本来的にあり得ないのです。

 しかしそれでも、そのような常に揺れ動く混沌とした環境は不安だ、という人もいるでしょう。表現の自由が動態的に更新されていかなければならない概念だとしても、何らかのフォルムがなければ結局は強者優位の殺伐とした世界となってしまいます。そこで重要なのが人権概念です。もちろん人権概念それ自体も動態的なものであり、常に更新を要求されています。しかしそれでも、人権概念は皆が目指さなければならぬ理念として、近代市民社会のなかにビルトインされています。表現の自由はその一部にすぎません。

 ところが、表現規制問題を対権力だけではなく、対市民社会的なものへと拡張することを頑なに要求する者ほど、この人権という概念への思慮がないように思えます。たとえば、「冷笑系」アルファツイッタラーとして知られるもへもへ氏のこのツイートです。

「人種」や「性的少数者」への迫害が許されないのは、それが差別だからです。自由権というより平等権に関連し、日本国憲法では、たとえば一四条に関連する問題です。ところがもへもへ氏の議論では差別という観点が一切なく、無理やり表現の自由の問題へと接続されているのです。もちろん、あらゆるマイノリティには自分自身を自由に表現する権利があります。しかしそのような権利がこれまで弾圧されてきたのは、差別があったからです。仮に国家権力とは無関係の差別だったとしても、差別は差別であり、単なる批判ではないのです。

 この例のように、差別のような他の人権問題を全てスポイルして、表現を規制するか否か、という一つの基準でしか世界を認識できない人が「表現の自由」の議論の中ではしばしば散見されるところです。実際は、人権を守るためには様々な尺度を組み合わせる必要があります。ヘイトスピーチに関しては、たとえ法律によってでも規制すべきだ、という立場は一つの自由主義者のスタンスとして認められています(たとえばホロコースト否認の禁止法を肯定しているからといって、ドイツの政治家のほとんどを全体主義者に分類する政治学者はいないでしょう)。一方、LGBTsが登場する作品を作ってはいけないという規制は、たとえ国の法律ではなくても、ハリウッドの自主規制であれ、ディズニー社の方針であれ、撤回させなければいけません。「規制か、規制以外か。」は「表現の自由戦士」という生き方としては成立するかもしれませんが、その外側では成立しない議論なのです。

 

 ところで、自由であることの定義を、あらゆる規制や干渉がない状態と定義して事足りるという思考には、いわゆる二つの自由概念、すなわち積極的自由と消極的自由の概念が欠けているような気がします。反規制という意味での自由は、しばしば「〜からの自由」といわれる消極的自由に該当し、もちろん大切な自由ものです。しかし規制がなければ人間は自由かといえば、けしてそうではありません。たとえば紙とペンすら買えない窮乏状態であったり、1日の大半を労働に費やさなければならず休みがない状態に置かれている人にとっては「表現の自由」は絵に描いた餅です。あるいは、公権力が法的にマイノリティを迫害しなくても、社会の中に差別意識が蔓延している状態では、マイノリティが自分の意志を自由に実現することは極めて難しくなります。そこで人間が自分自身の意志を実現可能にする(ある行為ではなく、この行為をすることを積極的に選択する)自由としての積極的自由(「~への自由」と呼ばれることもあります)が重要になります。公権力は単に規制を行わないだけではなく、社会保障差別是正のような社会的公正のためのプログラムを行う必要に迫られるのです。

 消極的自由だけでは人々が本当に自由を享受できる状態にはならない一方で、(自律的な自己という前提を要求する)積極的自由を重視しすぎると特定の価値に人々を従属させる状態になり、全体主義に至る可能性もあります。二つの自由概念の提唱者であるアイザイア・バーリンは、ナチズムやスターリニズムをリアルタイムで目撃していたこともあって、積極的自由に対する消極的自由の優位を説きました。オタク表現に関する「反規制派」も、積極的自由は全体主義につながるとして、あらゆる規制や外部からの干渉を退ける消極的自由タカ派に分類することができるでしょう。

 問題は、自分自身の意志に対する干渉は、外部からだけでなく内部からもやって来るということです。たとえばお笑いコンビ「プラスマイナス」の岩橋は、「先輩芸人の説教中にアカンベーをしてしまう」など、その場で絶対やってはいけないと分かっていることを気がついたら実行してしまうという特性を持っており、そのために命の危機に陥ったこともあるといいます。そこまで極端ではなくても、ダイエットの意志はしばしば食欲に敗北します。何かをチャレンジしようとする意志は、失敗への恐怖によって妨害されます。人間の欲望や感情は、人間の意志と対立することも多いのです。人間が単に欲望に従っている状態は自由とは呼べない、というのはカントを引くまでもなく自由論の一般的な考えですが、バーリンもこれを認めています。そのうえでバーリンは、消極的自由に対する干渉を、外在的なものに限定するのです。

しかしながら、ここで問題になるのは、人間の欲望はコントロールされるということです。人間は他者の欲望を欲望する存在であるという思想は、実はドイツ観念論の時代から考えられてきました。そして現代のテクノロジーおよび統治技術の発展は、その欲望を無尽蔵に拡大することを可能にしています。ジジェクの言うように、欲望はメディアやアーキテクチャーによって増幅され、人々に「楽しめ!」と享楽を強いるのです。墨東氏は、現代ではオタクのコンテンツ消費のあり方が、作品と個人的に向き合う欲望から、作品をダシにオタク同士でコミュニケーションを取りたいという欲望に取って変わられたことを指摘しています。オタクは、

「俺はすごい『オタク』だぞ」と見せびらかすのが目的となっているのです。コンテンツを自分の楽しみのために鑑賞するのではなく、自分がひとかどの存在だと見せびらかすために消費しているのです。

(中略)

 そうやって注目や反応を集めるうちに、コンテンツが好きという原点を遠く離れて、ネットで「オタク」として注目を集めることに依存してしまっている人が結構いるんじゃないか、私はそう思うのです。どんなコンテンツを享受するよりも、自分自身をコンテンツ化することで快楽を得るようになる倒錯です。こうなると、アニメや漫画などのコンテンツは、自己宣伝の素材に過ぎなくなってしまいます。

オタクがこのような自己宣伝を社会に対して行い、自らの文化に内在する性差別的なノリを公共空間に持ち込もうとするとき、そこで生じるコンフリクトは単なる消極的自由としての表現の自由の問題を超えています。しかしオタクは、公共空間の中で批判に晒されることを嫌がるのです。

 話を戻して、こうして考えていくと、「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の「オタク」が求める「表現の自由」とは、所かまわず自己宣伝して、なおかつそれに異論を挟まれない(自己を受け入れさせる)権利という、まことに以て自分勝手な要求の面が否定できないのではと思うのです。私はこれを仮に「表現の無責任」と呼んでいます。

 このような一部の「オタク」は「売れている」コンテンツを宣伝します。表面的には好きなコンテンツを推しているように見えても、それは売れているから選ばれたのであって、批評眼はありません。自分が感銘を受け、素敵だと思ったコンテンツを宣伝するのは、何のどこを推すかで自分の批評が反映されます。しかし「覇権アニメ」(下品な言葉ですね)に乗っかって、断片化された決めフレーズをネットで叫ぶのには、批評精神はいりません。むしろ批評という個性のない、売れているという「客観的」な数値の方が、万人向けの宣伝になります。

(中略) 

 「表現の無責任」というのは、コンテンツの宣伝を通じて、自己もまたコンテンツと化して宣伝の対象とし、その自己宣伝を無批判に受け入れてほしいという、たいへん虫のいい、傍迷惑なことだと私は考えます。自分の領分と思い込んだ表現(宣伝)を批判されたくない、というのは、言い換えれば「ありのままの自分」を受け入れてほしいという欲求なのです。当然、社会的責任などは埒外となります。

その欲求に従った結果、オタクたちは、墨東氏が「「大日本オタク報国会」を作ろうとしているのではないか」と懸念するような、権力への接近をしていくことになります。

 現在の政権与党には、アニメやマンガに理解があるとされる議員がいるようです。しかし、たとえばオタク文化の裾野を形成するようなクリエイターたちの待遇改善は一向になされる様子はありません。最近ではその待遇は中国や韓国にも劣っているといわれます。一方、クールジャパンのようなオタク文化を「国家公認の文化」とする施策はどんどん進められています。最近では東京オリンピックの開会式で、ゲーム音楽が流されるといったことがありました。これについては、当のオタクたちにとっても好評だったようです。

 

 何が言いたいかといいますと、もはやオタクが求めている自由は、もはや「権力からの自由」にとどまらず、「権力への自由」になっているのではないか、ということです。別にそれでもいいのです。しかし、そうであるならば、少なくともそれを行っている自覚は持つべきです。いつまでも「規制か、それ以外か」では困るのです。なぜなら、無自覚に積極的自由を求める運動は、先述したように全体主義へ容易に至るからです。しかもその自己実現が自律した理性に基づくものではなく、資本や技術によってたやすく操作されるような欲望に基づいているのならなおさらです。ですが、多くのオタクたちは未だに自分たちの運動が消極的自由しか志向していないと思い込んでいるようです。それが様々な局面で議論がかみ合わない理由の一つでしょう。

 オタクが自身の文化の価値を社会的に認めさせようとする政治運動を行うこと自体に善悪はありません。しかしそれは基本的人権の尊重、「表現の自由」の動態性を受け入れ批判に対して応答責任を果たしていくこと、そして公共的思考(国家主義的思考ではなく)をセットとする場合においてです。それらを欠いた政治運動は、自由を求める運動ではなく、ファシズムへと至ってしまうのです。