今、放置されている被害を止めること

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318/1142654353かなり下の方。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺について、そういうgenocideかどうか、歴史学的にはわからない。だが、現状ではgenocideとは言い難い。言い難いものをgenocideだと言い張る(ルワンダ・ジェノサイドが関東大震災時の朝鮮人虐殺と同じという主張)のは控えようというのが私の意見だ。

このロジックが、おそらくルワンダ・ジェノサイドの際の安全保障理事会でも繰り返されたのだと思いますよ。曰く、本件については調査中で、そういうgenocideかどうかわからない。「現状では」genocideとは言い難い……
コメント欄でも紹介したhttp://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/ws/sympo_040905.htmのpdfでも示されているように、そのようなロジックで関東大震災の事件をジェノサイドだと国家が認めないことで、80年という長い間において遺族救済がなされなかったのならば、それは結局ジェノサイド認定の議論が空転したことで虐殺が放置されたのと全く同じ状況にあると言えます。
今、放置されている虐殺は止めなければいけない。それは全くその通りです。そして、それと全く同じ論理で、今、放置されている朝鮮人虐殺事件の遺族達の救済もなされなければいけない、という議論も成り立ちうるはずです。なのに、finalventさんの議論では、なぜ一方においては「ジェノサイド事件」に対するコミットメントが要求され、他方においては「ジェノサイド事件」かどうか事実関係において保留されなければならないのか理解できません。今現在、ダルフールで虐殺されている人々がいるのと同様に、今現在、犠牲者の追悼もままならない遺族がいます。分かっているとは思いますが、これは前者は後者よりも切迫した問題である、という次元で議論されるべきではありません。これらは「どちらも」切迫しているのです。
やはり、関東大震災朝鮮人虐殺は「日本人」の問題になるからでしょうか。とすれば、ダルフールあるいはルワンダの虐殺に関しても、「日本人」としてのダルフール事件ルワンダ事件への関わり方、という視点で語られなければ釣り合いが取れない。でも、そうではないような気がします。finalventさんは、なんというか、今あそこで虐殺が起きているのだから、それはなんとしてでも止めなければいけないだろ、という「問答無用のヒューマニズム」のような視点で語っているような気がします。それ自体は僕も共感するところです。少なくとも、「だるふーるのもんだいも、けっきょくはにほんのこくえきをかんがえるべきだ」云々といった、自称「現実主義者」よりは何100倍もマシ。
逆に言えば、そういった「問答無用のヒューマニズム」の視点が、関東大震災の話になると急に「日本人」の視点になってしまう。そこはやはり矛盾というか、論理の一貫性が問われても仕方が無いところなのかなあという気がします。