オープンレターについて

 前回記事で言いたいことはほとんど述べてしまったのだが、補足として、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」に対する誹謗中傷に関しての意見を述べておく。念のため言っておくが、これはあくまで一署名者としての考えである。

 オープンレターに対しては様々な攻撃があるが、ここで言及しておくべきだと思っているのは、(1)オープンレターが呉座氏の失職を狙ったものである、というデマについてと、(2)オープンレターのイタズラ署名問題についてである。しかし(2)については(1)を前提に問題視されている部分もあるので、先に(2)から答えておく。

 

 まずネット署名には、こうした悪意あるイタズラに対する脆弱性が構造的に存在する。とはいえ、隠岐さや香氏述べているように、その脆弱性についてはこれまではほとんど問題にならなかった。

私自身、ネットでの署名や賛同集めに携わったこともあるが、このようなことが問題になった記憶はない。恐らくは、そのようなイタズラは単なる悪意以上のメリットがないからだろうが、逆に言えばこのオープンレターがどれだけ強い悪意に晒されているかの証左でもある。

 当然のことながら、この件でオープンレター側は被害者である。たとえば、ある人が嫌がらせで頼んでもいない寿司の出前を頼まれたとしよう。寿司を頼まれた側は被害者だが、寿司屋もまた被害者である。出前というシステムでいちいち本人確認することはないので、それを怠ったことは寿司屋の責任ではあるまい。出前のイタズラが多発することに閉口して寿司屋が何らかの対策を取ったとしても、それは本来はやる必要のなかった対策であって、あくまで悪いのはイタズラの主である。

 オープンレターについてもこれと同様のことがいえる。ネット署名で本人確認などは普通しない。もちろんどこかに請願するなど、多少なりとも効力を持たせようとするならば、ある程度の本人の同定はするだろうが、このような声明に対する賛同については、一般的にそこまではやらない。

 ここに誤解の一つがあるように思われる。ネット声明の賛同の価値は、連帯を示すことそのものの中にある。数や書かれた名前は二義的な問題なのである。賛同者の数が多いと勇気づけられるかもしれないが、数が少ないからといって声明の価値が薄れるわけではない。影響力のある者からの賛同は力になるが、それは捏造ではなく真にその人が賛同していることによってである。もちろん賛同していない声明に賛同していたことにされるのはその本人にとって重大な問題なので、それがわかった場合は速やかに取り下げるべきだが、それ自体がオープンレターの正当性を左右するわけではない。

 賛同者の数や名前によってオープンレターの正当性が左右されるという思考は、あるものの正当性の有無を他律的に判断する思考の産物だと思われる。オープンレターやネット署名の本質とはそうした思考に反して、むしろ一人ひとりの自律的な思考を求めるものなのである。

 

 続いて(1)の論点に移ろう。前回の記事で書いたように、オープンレターは呉座氏に強い制裁を求めるものではなく、彼の様々な差別や誹謗中傷の土壌となったボーイズクラブ文化の解体を求めるものである。

 そもそもオープンレターの文面には、呉座氏に強い処分を与えよとは書かれていない。呉座氏のTwitterのログから明らかとなったのは、誹謗中傷の事実だけではなく、ミソジニーによって駆動するような誹謗中傷を楽しむ「ボーイズクラブ」が存在するということであった。その界隈には研究者や学術関係者も含まれており、ここで呉座氏が受ける処分が何であれ、本質的な解決にはならないと考えられていた。また、被害者に対する二次加害がはやくも行われていた。オープンレターはかかる状況を変えるために出されたものであることは文面から明らかである。「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を享受してきた者たちの居心地が悪くなればなるほど、相対的に研究環境は改善されるだろう。 

いわゆる「ボーイズクラブ」問題に寄せて - 過ぎ去ろうとしない過去

ここで(2)の論点につなげれば、オープンレターは呉座氏の失職を求めるものであり、その際に賛同者の数が圧力として機能したという妄想に基けば、賛同者数の正確性は重要なのだろうが、そもそもその前提が妄想であり、日文研側にオープンレターが提出されたという事実も存在しないので、その論点はマッチポンプに過ぎないのだ。

 これに対しては、呉座氏への制裁が目的でないならば、なぜ呉座氏の所業が実名入りで比較的多くの文字数を使って記されているのか、という批判がある。答えは単純で、このオープンレターのきっかけが呉座氏のTwitter問題を出発点にしているからだ。この件はNHK大河ドラマ監修の降板をきっかけに全国メディアで取り上げられており、名前を匿名にすることに意味はない。またその内容も既に誰でも見られるかたちでアーカイブ化されているのであって、それに基づいて論評を加えることは不当な攻撃とはいえないだろう。

 それでももちろん、オープンレターは名前を匿名にしたり、やったことに詳細に触れずに書いたりすることもできた。その意味でこのオープンレターは呉座氏に特段の配慮をしていないといえる。だが、オープンレターが呉座氏に配慮する必要はどこにあるのか。オープンレターを含むネット上での評判が、日文研の処分に影響を与えるかもしれない、というのは呉座氏の事情であって、そのことをもって呉座氏のやったことに対する論評を禁ずることはできない。オープンレターは呉座氏を強く罰するべきだと言っていないが、寛大な処分を要求してもいない。寛大な処分を要求しないことは過剰な処分を要求することにはならない。処分に無関心だというだけである。そしてそれは別に非難されるべきことではない。

 当然のことながら、日文研側の内定取り消しという「処分」が不当に重いものであり、それが主にオープンレターの曲解に基づくものなのであれば、オープンレターの呼びかけ人なりが日文研側の解釈は誤りであると主張したほうがよいだろう。しかし前回記事でも書いた通り、日文研の「処分」がなぜこのようなものになったのかは全く分かっていないのだ。情報がないので、内定取り消しが「不当に」重いのかどうか、またそこにオープンレターはどのように関わっているのか、全く分からない状況で、オープンレター側は主体的に何かを発信する必要もないし、そもそも発信しようがない。

 もし呉座氏側が、オープンレターは呉座氏の強い処分を要求するものであるという解釈を、日文研側がしていたという証拠を掴んでいるなら、裁判の際にオープンレター側の誰かに頼んで、その解釈は誤りだと証明してもらえばよい。しかし、これまでのようにオープンレターに対する犬笛を吹き続けるなら、それは自身の立場をより悪くすることにしかならないだろう。

いわゆる「ボーイズクラブ」問題に寄せて

  昨年三月頃に明らかとなった呉座勇一氏による誹謗中傷事件の被害者に対して、これまで見るに堪えない激しい二次加害が行われている。その件に関して、考えていることをここでいくつかコメントしておくとともに、ジェンダーや他の差別問題に対してバックラッシュを行い、学問研究の風通しを悪くさせている醜いボーイズクラブ文化が一刻も早く消滅することを願っている。 

 

 被害者に対する二次加害は問題が発覚したときから続いていたが、それがより激しくなったのは、呉座氏の処分が明らかとなり、それが訴訟問題へと発展したときからだ。 

呉座勇一氏によれば、彼は昨年一月に常勤職への昇格の内定を日文研から受け取っていたが、三月の誹謗中傷事件ののち再審査が行われ、内定が取り消しになったという。また呉座氏はかかる事件について一ヶ月の停職処分も受けている。呉座氏は自身の行いや考え方が誤りであったことは認めつつ、この「処分」は不当に重く、また解雇権の濫用であるとして、停職処分の無効およびテニュア准教授の地位確認を求めて、日文研の運営母体である人間文化研究機構を提訴した。 

 呉座氏の停職処分及び内定取り消しが明らかになると、その内容に関して呉座氏への同情の声が集まった。しかし処分に対する批判は何故か、それを下した日文研側ではなく、誹謗中傷の被害者や誹謗中傷を批判した者たちへの攻撃となっていく。最も強く攻撃されているのは北村紗衣氏であり、また同氏も呼びかけ人の一人として名を連ねているオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」である。 

 

 ここでいくつかコメントをしておきたい。呉座氏がどのような根拠でかかる処分および内定取り消しになったのか、日文研側は何も明らかにしていない。経緯についての資料は、今のところは一方の当事者である呉座氏の主観的かつ概要的な発信があるにすぎない。この時点で、処分の正当性や不当性を論評することはそもそも出来ないはずなのだ。呉座氏に対する処分が、若手研究者の労働問題に接続される可能性は十分にありうるが、事実が何一つ明らかになっていない以上、まだ「ありうる」という段階でしかない。日文研は公の機関であり、またこの件が他の若手研究者に影響を及ぼす可能性もあることから、日文研側はかかる経緯についてきちんと説明せよ、と要求するならわかるし、私も同意見である。しかし、現時点でそのような声はあまり大きく上がっているようには見えない。確かな事実というものが一切ないにかかわらず、憶測やこの件とは無関係の事例を持ち出すといった乏しい手持ちの武器で、呉座氏のテニュア取り消しについて、オープンな場で雄弁に語る大学関係者や法曹関係者が続出していることに私は戦慄する。そういうところだぞ、と思う。情報が少なくても、いろいろなことを想像して語りたくなるのは人間の常である。しかしなぜそれをオープンな場で語ってしまうのだろうか。せいぜい四、五人の気の知れた仲間内に留めておくことがなぜできないのか。そもそも「語る場」への無自覚さが、呉座氏が四〇〇〇人の前で公然と誹謗中傷を行ってしまった一因なのではないか。なぜそこから何も学んでいないのだろうか。 

 こうした無責任なおしゃべりは、無責任なオープンレターに対する陰謀論となって現れている。呉座氏がかかる「厳しい」処分を受けたのは、オープンレターのせいだというのである。しかしその根拠らしきものは、呉座氏が一時的に、自分の主観的判断とともにブログに載せていた処分理由が記された(?)書類の一部しかなく、しかもそれがどれだけの重みもっていたのかは全く分かっていない。 

 

 そもそもオープンレターの文面には、呉座氏に強い処分を与えよとは書かれていない。呉座氏のTwitterのログから明らかとなったのは、誹謗中傷の事実だけではなく、ミソジニーによって駆動するような誹謗中傷を楽しむ「ボーイズクラブ」が存在するということであった。その界隈には研究者や学術関係者も含まれており、ここで呉座氏が受ける処分が何であれ、本質的な解決にはならないと考えられていた。また、被害者に対する二次加害がはやくも行われていた。オープンレターはかかる状況を変えるために出されたものであることは文面から明らかである。「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を享受してきた者たちの居心地が悪くなればなるほど、相対的に研究環境は改善されるだろう。 

 ところが、このオープンレターは呉座勇一の解職を企図して作成されたものだ、という陰謀論が存在する。それに伴い、オープンレターの署名を日文研に送った、呼びかけ人らが共謀して日文研に圧力をかけたなどという存在しない事実が既成事実となっている。もちろん日文研に対する抗議は個別にはあった。これだけの大きな誹謗中傷事件なのだから当然だろう。逆に日文研側から個別の被害者に対して確認があったケースもあったようだ。しかし、そうした個々の人間の意図を勝手に結びつけて、共謀関係に落とし込んでしまうことこそが陰謀論陰謀論たる所以なのである。 

 

 現在既成事実化しつつある、最も醜悪ともいうべき陰謀論は、「北村紗衣が呉座氏と和解したにもかかわず呉座氏をより強く罰するためにオープンレターを企画した」というものである。驚くべきことに、この説は全てが妄想と事実誤認で構成されているのだ*1。北村氏が呉座氏と和解したのは七月のことであり、オープンレターが発表されたときはまだ和解は成立していない。三月に呉座氏の謝罪があったのだから和解したのだろうと考えることこそ浅はかな思い込みなのである。もちろん「和解違反」という言葉を安易に使うこともできない。和解の内容は全く明らかになっていないし、明らかにすべき性質のものではない。もっとも常識的に考えれば、和解して以後に加害者が和解を反故にするような行動にでた場合は和解違反といえるだろうが。 

 オープンレター北村陰謀論のそれ以外の部分、つまり北村氏が呉座氏を強く罰する云々については全てが何ら根拠のない妄想の産物である。恐ろしいのは、このような妄想を少なからぬ研究者や法曹関係者が無責任にも前提にしているということなのである。 

  このような陰謀論を信じる者は、そもそも呉座氏による誹謗中傷自体を認めない傾向にある。誹謗中傷していないにもかかわらず厳しい処分が下されたということは、何らかの闇の勢力の圧力によるものに違いない、ということだろう。しかし呉座氏の誹謗中傷については本人も認めており、争われるべき事柄ではない。性差別以外の差別発言についても、呉座氏のTwitterアーカイブが残っているため、嶋理人氏が行なっているように、客観的に検証可能なのである。

researchmap.jp

アーカイブについては、日文研側も当然確認しているだろう。ところがボーイズクラブは感覚が麻痺しているので、差別や誹謗中傷をそれと認識できない。従って呉座氏に落ち度はなかったと主張することになる。問題なのは、過去ログを自分の目で確かめずに、そうしたボーイズクラブの意見だけを読んで、呉座氏は可哀想だと主張したがる野次馬が絶えないことである。当然ながら、そこには研究者も法曹関係者もいる。かれらがハラスメント事件の取り扱いについて自分の職場でも適切に扱えているのか不安で仕方がない。もちろん誰でも読める書かれた文章や、どちらか一方の主観が挟まらない公開の事実について、論評する自由はある。しかし、不確かな情報をもとに、あるいはそもそも一切の事実関係が分からぬ状況で、根拠のない論評をパブロフの犬のように公開のSNSでベラベラ喋るというのは、どこか感覚がおかしくなっているのではないか。 

 

 私はオープンレターが出たからといって、「日本のアカデミア、言論業界、メディア業界に根強く残る男性中心主義」が直ちに消滅するとは全く思ってはいない。しかしそうした男性中心主義からのバックラッシュ、二次加害を増幅させてしまっているのが、研究者や法曹関係者の無責任なSNSしぐさだと思っている。呉座氏の裁判は続いており、その過程で様々な事実が明らかになることだろう。なぜそれまで待てないのか。双方の主張が出揃ったあとで、仮にオープンレターが何らかの役割を果たしていたと判明したなら、そこで初めてあれこれ論評すればよいではないか。何を急ぐ必要があるのか。自分で妄想して、あるいは誰かの妄想を鵜呑みにして陰謀論を構築し二次加害に加担している暇があったら、自分自身の内なるボーイズクラブへの内省でもしていたほうが、多少なりともこれからの学問環境への貢献になるだろう。それもできない研究者や法曹関係者は、SNSをやめてしまえばよい。

*1:たとえばこの記事https://agora-web.jp/archives/2054771.htmlの末尾にある「北村紗衣氏が、呉座雄(ママ)一氏のツイッターの鍵アカウント(一部の人しか見られないアカウント)で批判されたことで、訴訟を起こすと呉座さんに通告しました。しかし、名誉毀損に該当しないので、弁護士を入れて和解していました。その後、北村氏自身が発起人になって、呉座氏を学界から追放しろという「オープンレター」を出していました。これは和解違反であり、法律的にも非常に大きな問題を含んでいます。」という一節は、これ自体が事実誤認と妄想に基づいており「法律的にも非常に大きな問題を含んでい」るといえよう。

書評:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、二〇一九年)

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

 この本の結論、すなわち、我々は「経済と差別というふたつの領域で平等を求める」「ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある」と宣言すべきだという結論*1には異論はない。

 だが、私が思うのは、この本の内容に代表されるように、なぜ人は、差別の問題とその解消をひたすら訴えかけるような現在の反差別運動にひとつの行き詰まりを感じてしまうのか、ということである。小説でもテレビドラマでもよい。10年前、20年前、30年前のコンテンツを見てみるがいい。いかに現在の視点からは耐え難い差別表現が随所にみられることか。そしてそれらは現在、いかに解消されてきたことか。現在のバックラッシュが激しいとはいえ、昔からバックラッシュはあったのであって、今日がこれまで続いてきた反差別運動の最終地点だと主張する根拠はないだろう。

 とはいえ、現在の反差別運動がとりあえずぶち当たっている問題について、多少図式的ながら整理をして検討を加えてみるという作業自体に意味がないとは言わない。しかし、この本においては、その図式がまずい。綿野が反差別の問題を分析する上で根幹に置いている二項対立は、シティズンシップとアイデンティティの区別である。そしてそれは、公法学カール・シュミットが論じた自由主義と民主主義の区別に対応しているという*2。しかし、この構想は思想史的には大いに疑わしいものがある。

 綿野のタネ本となっているのは、樋口陽一が訳した岩波文庫版の『現代議会主義の精神史的状況』(2015年)である。この本には付録として同じくシュミットの論文「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が収録されている。

 『現代議会主義の精神史的状況』が書かれたのは1923年であり、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が書かれたのは1926年であるが、前者と後者の間の3年間に新たに付け加わった重要な概念こそが、いわゆる「政治的なもの」である。かの『政治的なものの概念』の初版が発表されたのは1927年だった。そして、シュミットの決定的な自由主義批判は、この「政治的なもの」の概念を生み出した思考と結びついている。つまり、自由主義では本質的に「政治的なもの」は生じえないということだ。それが生じうるのは、民主主義に基づくときなのだ。幾度となく引用されている自由主義の平等が「空虚な」な平等であるという一節は*3自由主義では政治的な意味で平等な集団をつくりえないという意味であって、反差別運動のロジックとして自由主義を用いることはできないという意味と解釈するのは、誤読とはいわないがかなり無理があるだろう。

 ここで問題なのは、20年代のシュミットにとっての「政治的なもの」は、(国民)国家のほかには何もなかったということである。国家以外の集団が「政治的」な集団になりうるという発想は、1932年の第二版から登場する。しかしそのような政治的な「強度」を持つ集団が国家内に現れたとたん、その国家はもはや単一体ではありえなくなる。したがって、国内マイノリティを民主主義=政治的なもの=アイデンティティの集団とみなすのは、少なくともシュミットの視点からは問題となる。シュミットの図式において解釈するならば、国内のさまざまな利益集団は、国家=公に対する私的な集団でしかありえない。

 しかし、この本ではシュミット的な公と私の区別を欠いている(カール・シュミット公法学者であることを無視しているといえる)。たとえば綿野は政治学者であるマーク・リラの主張を、アイデンティティに対してシティズンシップを要求する運動だと考えている。そしてそのような処方箋は、シティズンシップでは同質性が確保できない以上、不可能な試みだと考えている*4

 だが、シュミット的に考えれば、「市民」概念に国家統合の求心力を持たせ、公共領域の再生をはかるリラの運動は、そもそも民主主義的国民の創造とみなすのが妥当ではないか。シュミット理解の不十分さとcitizenとnationの辞書的意味に引っ張られ、分析に失敗しているのではないだろうか。

 シュミットにこだわらずとも、シティズンシップとアイデンティティという綿野の図式に適合するような、自由主義と民主主義の対立を説く政治学者は、探せばほかにもいそうなものである。しかしよりによってシュミットを選んでしまったためか、この二項対立は思想的な緻密性を欠いたものになっている。二項対立である時点で確かにある程度の乱雑さに目をつぶらざるをえないのだが、この本の論じ方は許容不可能なほどに乱雑なのである。

 たとえば、綿野は第二章で『帝国の慰安婦』騒動を取り上げている。2019年に出版された本で、一貫して日本軍「慰安婦」問題ではなく、「従軍慰安婦」問題と書かれている時点で、この問題に対する著者の知見のレベルは理解できてしまうのだが*5、まあそれは置いておこう。問題なのは、綿野が「従軍慰安婦」も兵士も動員された被害者という視点によって、朴裕河民族主義の対立を超えたシティズンシップの立場に立った和解を考えているのに対して、批判者はこの両者の絶対的敵対性というアイデンティティの立場に立っていたので、両者の相互理解に失敗した、といっていることである。

 だが、朴裕河を批判している者たちが一貫して主張していることは、日本軍「慰安婦」問題を戦時性暴力の問題ととらえたうえで、日本政府は法的な責任を取らなければいけない、ということなのである。ここのどこに民族対立が入り込む余地があるだろうか。「平和の少女像」の作者が「ベトナムピエタ」を製作したのに対して、日本政府は右翼とタッグを組み、戦時性暴力被害の象徴としての「平和の少女像」を世界各地から撤去させようとしている。そうした動きを批判してきたのも、『帝国の慰安婦』批判者たちである。

 日本軍「慰安婦」問題を、民族の対立だと解釈したがっているのは、朴裕河および彼女と密接につながっている「アジア女性基金」のグループのほうであろう。かれらは法的責任よりも道義的責任のほうが重いなる奇妙なロジックで、日本の国家としての責任を回避しようとしているのだ。そもそも、実証的にもほぼほぼインチキである、兵士と「慰安婦」の連帯なるDV夫もつらかったのよという昭和歌謡的な世界に、自由主義=個人の尊厳=シティズンシップ的な関係を求めることに無理があるのではないだろうか。綿野は自らが設定した二項対立に自縛され、そのため事実認識をゆがめてしまっているのではないだろうか。差別を差別として認識することは難しいと綿野も述べているが、まさにこの朴裕河を相対化したこの節こそが、著者が身をもって実践した、差別を差別として認識することは難しいという実例であろう。

 さらに、綿野は、しばき隊のようなカウンター反差別運動はシティズンシップの立場にたったためアイデンティティ・ポリティクスの立場から批判されたとまとめている*6。実際は、かれらが在特会よりはマシな右翼と組んだため、運動における場の安心が損なわれるという、綿野の理解ではシティズンシップの立場から批判されたのである。当事者の一人として言わせてもらえば、明らかな取材不足だろう。やはり全体的に、片方がアイデンティティなら、もう片方はシティズンシップ、その逆もしかりという思い込みがあるので、その図式に当てはまるようにすべてを解釈してしまっているのではないだろうか。

 また、綿野が指摘していないトピックとしては、いわゆる「表現の自由戦士」問題がある。「表現の自由」というキーワードは、法学的な通説への知識を欠いたうえで、主にオタクの中で広がっており、国会議員まで当選させている。「表現の自由戦士」が主張するのは、ある種のラディカルな自由主義である。彼らのロジックにおいては、個人の私的自由だけが問題であり、アイデンティティは単なる趣味の問題にすぎなくなる。在日コリアンペドファイルは、個人のアイデンティティという点において「平等」なのである。公的な価値については、「正義」の押し付けだとして、徹底的に拒否する。つまり、綿野がいうところの「空虚な平等」の論理を前面的に振りかざして、彼らは差別を擁護するのだ。「表現の自由戦士」については、少なくともロジックにおいては、アイデンティティの論理の簒奪によるバックラッシュという綿野の図式は崩れるのである。

 最後に、この本でもうひとつ重要な論点である天皇制の問題について触れる。いかにリベラルな天皇であろうと、天皇制そのものが差別であるという指摘についてはその通りだと思う。しかし、自由主義と民主主義の調停者としてのリベラルな天皇という分析については、少なくともその議論はシュミットに全く関係がないので、名前を出さないほうがよいと思う。シュミットは君主主義者ではないし、自由主義によって分解しようとしていた国家の維持を国民によって選ばれたという権威に基づくライヒ大統領の調停に求めたとしても、それは例外状態において決断する権能をライヒ大統領が持っているからである。現在の天皇制を血統ではなく国民の喝采によって正統づけられるカリスマ支配だと解釈するとしても、シュミットの想定と綿野の想定にはかなり距離があるといえるだろう。

 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のカール・シュミット理解が不十分であること、またそれには目をつぶっても、この書物の根幹をなすシティズンシップとアイデンティティの二項対立自体が実情においても矛盾をきたしていることについて論評してきた。全体を通して読んだ印象では、この本の著者は、反差別運動それ自体にはたいして興味がないのではないかと感じた。しかし、英米系の学者の引用で固めているところに無理にシュミットなど用いても、軽さしか伝わらないので、もう少し言説分析を丁寧にやったほうがよかったのではないかと思う。

 

カール・シュミット著作集 (1)

カール・シュミット著作集 (1)

 

 

*1:三一四頁

*2:一八頁

*3:岩波文庫版では一四五頁

*4:六三頁

*5:PCにうるさい左翼の実践ですよ!綿野さん!

*6:十五頁

『あいちトリエンナーレ2019』における「平和の少女像」弾圧事件について

 国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』のプログラムの一部「表現の不自由展・その後」では、日本国内の公立美術館などで表現弾圧を受けた作品、たとえばヒロヒト昭和天皇)の肖像画を燃やす映像などとともに、「平和の少女像」が展示されていました。この「平和の少女像」に対して、河村名古屋市長などの政治家を中心に展示を取りやめよというクレームが相次ぎ、2019年8月3日、主催者は急遽、プログラム自体を中止にすることを発表しました。

 これは大きな事件です。2019年8月3日から日本国内では、戦時性暴力を告発することが禁止になったのです。ついでに「表現の自由」も死にました。正確にいえば「表現の自由」に対して何度目かの死亡確認が行われました。かわりに日本国内においては、「日本人のお気持ち」という概念が最上位に置かれます。ちなみにこの「お気持ち」の中には、ヘイトスピーチやセクハラに対する不快感は入っていないようです。

 もちろん、「表現の自由」に何度目かのナイフを突き立てた人たちは、「表現の自由」をまだ生きているように見せかけるため、この件は「行政の補助金が出ているイベント」であることを重要視します。もちろん、民族差別や性差別などについては、行政が関与するイベントにて行われてはいけないのは当然です。行政は差別を禁止した日本国憲法の理念に拘束されているからです(平和の像は日本人差別であるなどという差別について何もわかっていない言説は無視します)。

 しかし、河村市長や政府自民党の人間たちの(政府見解からさえも遠ざかっている)歴史修正主義の思想のもとでは「平和の少女像」が不快なものであるからといって、それを排除することは、行政が関わっているからこそできないはずです。後世の歴史書には、普通に「平和の少女像」の弾圧事件として記されることになるでしょう。

 

 一方、この事件は次のことも明らかにしました。21世紀における自由主義国家(タテマエであれ)の統治権力は、批判意見や権力に都合が悪い表現をあからさまに弾圧することはしません。賢明なるエリート層は、ちょっとやそっとの批判でシステムが破壊されないことは知っており、多少の批判は鷹揚に寛容しておくことによって、自由な国家であるという幻想を民衆に与えることができます。メドベージェフが一時的にロシアの大統領になった際、彼は自分を眼前で罵倒する人物を許容してみせ、人々から称えられました。しかしロシアは実質的には権威主義国家のままです。安倍晋三が自分に対する批判に対して山本太郎並みのレトリックも思いつかず、ついつい正直に反応してしまうのは、彼が賢明でないからかもしくは民衆が自分よりも賢明でないことを知っているかのどちらかなのです。

 しかしこの件について、権力はあからさまな弾圧の姿勢を見せました。数か月無視しておけば勝手に企画が終了する展示物に対してです。普通に考えたら何もせずに、逆に政権批判に対して、日本ではまだ「表現の自由」が生きておりしたがってファシズムではない証拠として見せつけることもできたでしょう。

ところが、今回かれらは、そのような合理的な判断も下せませんでした。『あいちトリエンナーレ』に対してだけではなく、この国の保守系エリートは、「平和の少女像」に対しては異常なまでの憎悪をむき出しにして、襲いかかるのです。あたかも自分の弱点を攻撃されようとしている魔王であるかのように。

 ここから言えることは、日本の社会システムの核心にあるのは、「平和の少女像」が存在しているだけで都合が悪いもの――植民地主義とセクシズムだということです。だからかれらは本性をむき出しにして像を攻撃し、それらを守ろうとするのです。安倍政権を終わらせ、社会を変えようとするものは、まずこの急所を撃たなければならないということが、この弾圧によって明確になりました。

 そしてこの弾圧によって、『あいちトリエンナーレ』が全体化しました。規範を実質的に規定するのが例外です。したがって、脅迫を口実とした行政による、戦時性暴力の告発の弾圧という非常事態が、いまや通常状態となるのです。ゆえに、愛知県の一部だけではなく、日本全体が『あいちトリエンナーレ』になったのです。私は津田大介氏にそれほど好意をもってはいませんが、それでも私も『あいちトリエンナーレ』の中にいます。私は残念ながら、平和の像をつくる技術も芸術展を開催する能力ももちません。しかしこの国の市民が、特にアーティストたちが、冷たくなった表現の自由とともに権力に屈従することをよしとしないなら、今後の日本のありとあらゆる芸術展において、無数の「平和の少女像」が展示されることになるでしょう。

 今回の件で津田氏の覚悟を問題にしているような芸術関係者のみなさん、あるいは彼が下りたことによって「表現の自由」の安否を心配する知識人たちのみなさん、安心してください。ここが『あいちトリエンナーレ』です。あなたも明日から、「平和の像」を展示する芸術展の企画者となれるのです。「表現の自由」に心臓マッサージをして復活させることができるのです。

 そのような企画者となることが難しい我々のような人間でも、戦時性暴力の告発の禁止に対しては抵抗することができます。2015年の「合意」そしてそれ以前から、日本国が日本軍「慰安婦」にしてきた仕打ちの数々について積極的に発言し、問題化し、歴史を正当に共有していくことはできるはずです。表現の不自由展・その後」は作品の撤去によって完成するのではなく、『あいちトリエンナーレ』の継続によって完成するのです。

 

 

例外状態

例外状態

 

 

 

 

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

 

 

 

耽美的ユーフォニアム

 部活動という制度が、否定的な意味で扱われるようになって久しい。他国なら地域や民間のクラブでやるような活動を学校教育の場で行うという独特のシステムは、すでに理念と実態の矛盾を隠しきれなくなっている。「ブラック部活」という言葉も登場してきている*1

 このような状況下で、もはやナイーブな「青春部活もの」はありえない。吹奏楽部も例外ではない。全国を目指す部活の、すべてのプライベートを犠牲にしなければならない練習量の多さ・厳しさなどが批判にさらされている*2

 

 その意味では、『響け!ユーフォニアム』の舞台、北宇治高校も、こうした時代の批判を免れえないのかもしれない。確かにその練習量は、公立高らしくある程度抑制的であり、平日は暗くなる前に帰宅することができる。しかし、自主性という名の個人練習や、土日および夏休みのほぼ全てがつぶれる環境は、このご時世においては、まったく正当にも問題とされるであろう。

 もちろん、本作において、こうした近年の部活動をめぐる問題がまったく扱われていないわけではない。しかし、あらゆるエクスキューズを行ってなお残る、部活動の薄暗い負の部分については、一人のキャラクターに押しつけたまま宙づりにされている。すなわち斎藤葵である。

 斎藤葵の唐突な退部は、久美子に衝撃を与える。その理由は、コンクールと受験勉強との両立が困難だからというものである。あとになって、前年度に発生した部内対立に無力だったことへの罪悪感、という真の理由が明かされる。しかし、二番目の理由こそ、一番目の理由に対する物語上のエクスキューズによるものであるようにも思える。全国金賞をとるための過酷な練習に耐えられないものは公式には存在しない。しかし存在するかもしれない。斎藤葵はそれをほのめかしている。そして久美子は、最後までこの問題を自らの中で整理できていない。

 しかし、斎藤葵の喪の作業が物語において完結していないことは、本作の欠点ではない。むしろ斎藤葵をひとつの境界石として、北宇治吹奏楽部は一人の脱落者も出さず、崇高なる音楽の頂点を目指す集団へと変貌する。この点については、物語の結末までほとんど迷いがない。この瞬間に、単なる部活もののリアリズムを超越するような、本作の主題が決定した。一言でまとめると、美学的なものへのデモーニッシュな傾倒である。それが物語の主題として、決断主義的に表出してきたのである。

 確かに社会的な倫理や正義についても、その前もその後も考えられていないわけではない。しかしこの物語においては、それらは窮極的には、美しきものの前に立たされるや否や、すべて雲散霧消せざるをえないのである。象徴的な事例として、麗奈の幼少期のエピソードがあげられる。音楽活動を行う上での文化資本の有無という階級対立の問題は、美しい音楽によって有耶無耶にされるのである*3。ところで、美しきものとは何だろうか。

 

 音楽とは美しいものである。しかしそれは、音楽が上手いこととは異なっている。全国金賞となるのは、上手な音楽を演奏したグループである。久美子は「うまくなりたい」(1期12話)のである。一方、吹奏楽部の場合、高校野球と比べてもさらにそこからのキャリアパスが少ないという問題を抱えている。音大に行くような突出した才能を除き、ほとんどの生徒にとって、うまくなった先に何があるのか?また、物語を駆動させるのは、もっぱら部活内の人間関係である。それは、いかにその人間関係の問題が当人たちにとって重要であろうと、客観的にみれば「狭い世界」の話である。しかしその「狭い世界」は、そこに集う人々を虜にして、利害を無視した目標(上手くなって全国金賞を狙う)へと結束させる、デモーニッシュな空間なのである。

 このように考えると、(「真剣」に取り組まれている)部活動はふつう考えられているような「日常」の一部(「日常物」!)ではなく、むしろ「日常」の中にある「異界」として捉えることもできる。ただ純粋に上手さという軸によって成り立つ「異常な」世界。それは、いわば谷崎潤一郎的な耽美主義の世界である。ありふれた日常の世界を別の視点で見たところに、我々の感性に刺激を与えてくれる、奇想の世界が広がっているのである。そして『響け!ユーフォニアム』の物語的な軸足は、むしろそちら側にあるのだ。

 もちろん、『響け!ユーフォニアム』の奇想の世界は、たとえば流行の異世界転生もののようなファンタジー世界ではない。しかし、主人公である久美子の前には、クエストのごとき謎がつねに横たわっている。その謎とは、つまり、久美子にとっての他者についての謎である。その他者とは、たとえば麗奈でありみぞれでありあすかである。久美子はその謎を追及する。そして彼女は、それぞれのキャラクターの中にある美しきものを発見し、それに魅了される。しかし、彼女は同時に、その謎の中に背徳的だったり陳腐的だったりするものも発見する。女子高生の教師に対する恋愛感情、友人との共依存と不誠実、そして「特別じゃなかった」(2期7話)あすか先輩……。

 

 しかしながら、それは当然なのである。日常の中にある奇想の世界で発見されるものは、結局のところ日常の反転としての奇想でしかないからだ。奇想の世界にある美しきものは、境界石――斎藤葵のような――を越えた先でしか美しきものではない。世界が反転して日常に戻ったとたん、陳腐なものに戻るのである。コンクールの本番が来てしまうことを恐れるあすか(1期13話)やみぞれ(リズと青い鳥)は、それを理解している。この美しき日々は、退屈な日常の中で一瞬だけ奇跡的に見ることができた、白昼夢に過ぎないということを。

 だが、それがどうしたというのか。美しきものの正体が陳腐なものだとしても、それでも美しいものは美しい。その美しさを手に入れるためには、どこまでも堕落せざるをえない。「ワルモノ」(1期11話)にならざるをえない。美しきものは善悪の彼岸においてしか求められないのだ。京都アニメーションが描く、大吉山や宇治川の美しい風景は、久美子が麗奈やあすかの謎に深く分け入り、引き返すことができない地点に到達してやっと発見した、ある白昼夢の情景なのである。

 

 『響け!ユーフォニアム』のこうした解釈を通して初めて、久美子-麗奈-秀一の関係が理解できるようになる。久美子のセクシュアリティが明示されることはない。だが、麗奈との耽美的・背徳的なものの美学に魅了されている彼女にとって、いずれにせよ秀一との「ノーマル」な関係を、無難に継続させられるはずはないのだ。後者はあまりにも日常的すぎて、日常の裏側にある美学には到達できないのであるから。

 

 

*1:クローズアップ現代「「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~」https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html

*2:註1参照

*3:武田綾乃「お兄さんとお父さん」『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』二二九頁以下

言説の土壌

「安倍政権を倒したいならば、左派は経済を語れ」

 これが、ネット上において国政野党に票を集めようとする運動のスローガンになって久しい。もちろん、野党が経済政策を充実させ、活発に支持を訴えることについては、大いにやればよいと思う。しかし2点ほど引っかかることはある。まず1つ目は、野党および左派はすでに経済について語っているということである。その状況についてこうしたスローガンをとなえるのは、左派は経済的に無策であるという右派・与党のプロパガンダへの加担ではないか。これは、すでに参議院選挙の1人区での一本化など野党共闘が進んでいるにも関わらず「野党はバラバラ」だと批判する野党支持者にもいえる。

 2つ目は、そもそも与党も経済を語ってはいないのではないか、ということである。与党は、財界や資産家や投資家を喜ばせるような政策について語っている。しかしそれは経済を語っていることにはならない。2012年の政権交代時に提示したリフレ政策のヴィジョンは、すべて破綻しており、それに代わる経済政策を与党は出してはいない。「リフレ 波及経路」で検索すると分かるが、かかる政策は、予想インフレ率の上昇によってあらゆる好循環が発生するはずであった。しかし、現政権はインフレ率2%を何年たっても達成できず、ついに日銀はその目標を断念するに至った。初動で失敗しているのだから、局地的な数値の改善を政権の経済政策に結びつけようとする御用学者の取り組みには無理があるというしかない。

 つまり、問題は、「与党(自民党)は経済を語り、野党は経済を語らない」ことなのではなく、「与党(自民党)は経済を語るイメージを持たれており、野党は経済を語らないイメージを持たれている」ということであって、政治文化の問題なのである。

 さらに、この「経済」の項には、「安全保障」や「社会福祉」など、様々な項を代入することができるだろう。ここで「社会福祉」が入るというのは感覚に反するかもしれない。しかし、選挙において有権者に関心があるテーマを調査すると、つねに「社会福祉」が1番にあがるにも関わらず、いざ選挙となると、公助を削って自助努力を奨励するという政治的イデオロギーのもとで、年金制度を徐々に改悪し、足りない分は投資で補えとする与党(自民党)が勝利するのである。

 したがって、問題は「与党は重要なことを語り、野党は重要なことを語らない」という政治的イメージだということがわかる。これは、野党がどれほど重要なことを語っており、与党がそれを無視しているのか(年金に関する金融庁報告書への態度ひとつとっても理解できる)、ということを十分知っているはずの野党支持者でさえ、多くの人が有している政治的イメージである。これは、事実の問題ではなく文化の問題である。このような政治的イメージを生む政治文化を変えなければいけないのである。

 

 今年(2019年)の1月に出たフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(長谷川晴生訳、新泉社)は、近年ドイツで急激な成長を続けている極右政党AfD(ドイツのための選択肢)および、新右翼と呼ばれる社会運動について、解説がなされた本である。

ドイツの新右翼

ドイツの新右翼

 

 ヴァイスによれば、ドイツの新右翼は、その思想的ルーツはアルミン・モーラーによって定義付けられたヴァイマル共和国時代の「保守革命運動」にあり、運動論的ルーツは1968年革命の経験にある。そして、この運動が結果として成功をおさめたのは、移民の増加や福祉国家の行き詰まりといった最近の情勢によるだけではなく、グラムシの理論を簒奪した「陣地戦」の一環としての「メタ政治」戦略のせいだという。彼らは社会の上層部にいるような保守主義者とも巧みに連携しながら、草の根運動として自分たちの言説が通用する土壌を少しずつつくりあげていったのである。

 「メタ政治」とは、直接的な現実の政治というよりは、エンターテイメントなどを駆使して、より基層的な、いわば文化(政治文化)の領域をまず自分たちの色に染めていこうとする運動である。政治的な言説を発する前にまずその土壌を開拓する戦略は、結果論としては正解だったというしかない。

 では左派はこのような政治文化の開拓は不可能なのだろうか。現在、ドイツではAfD以上に、緑の党の躍進が著しい。それは、部分的にはCDUやSPDといった二大政党をしのぐ勢いである。その理由は、ひとつには、経済や社会の問題を幅広く「語る」ことで、SPDを中心とする既存左派の行き詰まりを敬遠する人や、極右勢力の台頭などに危機感を持つ人々の受け皿となっていることがある。しかしそれだけではなく、看板商品である環境問題が、ドイツ社会において政治上の最重要問題となりうるような言説形成に成功したこともあるだろう。2018年、スウェーデンに端を発する地球温暖化防止を訴える高校生デモ「将来のための金曜日」は欧州に広がり、ドイツでも多数の参加者を集めている*1

 環境問題をテーマに高校生が数万人のデモを行うなどということは日本では考えられないことであり(インスパイアされた行動自体はあるようだが)、むしろ「現実主義者」を名乗る一群によって、鼻白まれたり攻撃を受けたりしてしまうだろう(これ自体が日本の悪しき政治文化のひとつであるのだが)。逆にいえば、ドイツでは環境問題を訴える人々が言説上の陣地戦に勝利したのである。さらに興味深いことなのは、緑の党もまた1968年運動の落とし子だということだが。

 

 『ドイツの新右翼』を読むと、政治的な言説を戦わせることは必要だが、その前に、政治的な言説を戦わせるべきアリーナはいかなる場所なのかを常に考え続けなければいけないことがわかる。改憲は防がなければいけない。少子高齢化社会についても、自助努力を煽るしかない無能な現政権を一刻も早く退陣させなければ本当に取り返しがつかなくなる。したがって左派が早急に支持されなければ意味がない、という気持ちは理解できる。しかし、それを急ぐあまり、左派の言説に説得力を持たせる空間自体を売り渡すような言説に飛びついてしまっては意味がない。ことに、経済の問題を重視するあまり、差別や人権の問題を後景化させてしまうような一部の運動は、長期的にみれば悪手を行っていると判断するしかない。

 左派への支持を訴えるために何かを語るとき、アクチュアルではありつつも、俗情とは結託せず、現在の政治文化の土壌には乗らない(むしろそれを書き換えていく)言説になるよう、つねに工夫していく思考が必要なのである。

*1:個人的は、こうした運動がラディカルな可能性を開きうるかについては慎重に判断したいが、少なくとも環境問題についての言説が社会に浸透している例としてあげられる。

『主戦場』を見た後に

 日本軍「慰安婦」問題を描いたドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督)が評判となっている。上映している場所が少ない(関東では2館。私が見てきた5月上旬の段階では1館)こともあるが、常に満席。事前予約は必須で、平日の午前中ならばなんとかなるだろうと当日訪れた私は、後日に出直しを迫られた。

 映画は、「慰安婦」に対する「支援派」と「否定派」、のインタビュー映像が交互に繰り返されることによって進んでいく。しかし、「否定派」の議論の稚拙さがすぐに明らかになる。誘導によってではない。かれらはカメラに向かってほとんど無防備に、普段から自分たちが主張していることを、主張している通りに喋る。だがその主張は、その後の「支援派」の主張やナレーションによって直ちに否定される。主張のそれ以外は、議論の余地なく嫌悪感をもよおすような、差別、明白なウソ、陰謀論である。

 この映画は双方の議論について、いわゆる「両論併記」をしていない。製作者の立場は明白である。それを理由に、この映画を批判する人も多い。だが、これまで「慰安婦」問題に多少関心を示したことがある者にとっては明らかなのであるが、「否定派」の議論はすべて議論に耐えうるものではないので、誠実に映画を撮ろうとすると「両論併記」になりえないのは仕方がない。「慰安婦」問題を全く知らないものにとっても、かれらのインタビューが、いかに聞くに堪えないウソやごまかしによって構成されているかが理解できるつくりになっている。

 したがって、出演した「否定派」の人物たちがこの映画の上映停止を求めるほど怒り狂っているのも理解できる。また、その逆の立場にとっては、「否定派」の議論をわかりやすく「論破」した映画として痛快で、また初心者向けの啓蒙映画としてもすぐれているという評価が多いのもわからないことはない。

 

 しかし「支援派」の中には、この映画について手放しで評価できないという立場もある。2019年5月24日付の「週刊金曜日」において、『主戦場』のレビューを行っている能川元一氏もその一人である。

 能川氏は、この映画が「強制連行の有無」や「被害者の証言の信ぴょう性」などといった、「否定派」が設定した議論の土壌を受け入れてしまっていることに注意を促す。それらは確かに「論破」されるのだが、元「慰安婦」の体験や人生に対する視線を後景化させてしまうという代償を払っており、またそうしたディベート的な作法こそ、歴史修正主義者が歴史認識問題に持ち込んだものなのだ。

 

筆者はむしろ苦い思いでそうした場面を見ていた。映画に登場する否定派の主張に対する批判はこれまでも繰り返し提示されてきたものであるにもかかわらず、否定派は同じことを主張し続けているからだ。『主戦場』において否定派が「論破」されているように見えるのは、映画という場をデザキ監督がコントロールできるからだ、ということを忘れるべきではない。*1

 

 能川氏は、『主戦場』のラストが、「慰安婦」問題そのものではなく、「米国の戦争への加担」への警告で締められていることに違和感を覚えている。なぜなら「映画館の中とは違って、現実の言論空間ではむしろ否定派のほうが主導権を握っている」からだ。映画館の中では「慰安婦」問題は勝負ありに見えるかもしれないが、現実ではそうではないのだ。

 能川氏はここ10年以上、特にネット上において「否定派」と真正面から対峙してきた人物であり、そこでの彼自身の体験も踏まえて『主戦場』が、「否定派」が「論破」されてスッキリする映画として消費されていることに危機感を覚えているのだろう。私もその通りだと思う。われわれが考えなければならないのは、「否定派」の主張をそのまま垂れ流すとメチャクチャなのは明らかであるにも関わらず(それは当然である)、なぜそのメチャクチャな議論が日本においては政治の場でも、メディアの場でも、前提になるか、少なくも考慮に値する議論として扱われるのか、ということだ。

 『主戦場』に出てくる「否定派」の言っていることは確かにひどい。しかし、それでも「否定論」が日本社会でのみ一定の水準で受け入れられているのは、「否定派」と「日本社会」が一定の共犯関係にあるからだろう。そして、その問題はけして今に始まったことではない。

 

 だが彼らは、ただ「無知」なのだろうか? ただ間違っているのだろうか? あるいは、彼らと彼らの支持者との関係は、「騙す者」と「騙される者」の関係なんだろうか? 「事実」に対してどれだけ証拠をつきつけても、彼らは「もぐら叩き」のように新たな「事実」をでっち上げ続けるだろう。これは南京大虐殺についても、朝鮮半島からの強制連行についても、沖縄の「集団自決」についても、同じように繰り返されてきたことだ。彼らは、能動的に「無知」であることを選んでいる。証拠が出てくるたびに、「無知」であり続けようと積極的に粘り強い努力をしている。数十人の政治家や知識人によって署名された今回の意見広告(引用者註:2007年に日本の歴史修正主義者が『ワシントンポスト』に出した意見広告「THE FACTS」のこと。「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める下院決議案を阻止するために出されたが、むしろ可決を推進する結果に終わった)に致命的な論理矛盾があることも、ただ彼らが愚かであるということで片付けるべきではない。愚かであるとしても、それは選択されたものである。彼らは、「無知」で不合理で国辱的である。しかしそれが、彼らなりの知性で合理性で愛国なのだとしたら?*2

 

 これは、「嘘」や「無知」と社会システム(国家システム)の共犯関係の構造について、優れた論考を示した常野雄次郎氏の記事「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」の一節である。歴史修正主義者の言説に騙されるのは、無知な者ではなく、無知であることを望む者、(歴史修正主義に)騙されることを望む者である。

 『主戦場』では、歴史修正主義の「足止め効果」*3については、それに近い言及があった。だが、なぜあのような知性の欠片もない言説が日本では流通してしまっているのか、という点についての思考は十分ではない。単に知識をつければよいという「欠如モデル」的な考え方をしているようにも思える。

 しかし、「無知」のままでいることやあえて騙されること自体にメリットがある。当然動機が存在する。周辺諸国への蔑視感情(レイシズム)、セクシズム、日本スゴイナショナリズム、現在の権力者がとっている立場に対して明確に敵対することを嫌う権威主義、「国家は謝罪してはならぬ(藤岡信勝)」といった凡庸な「リアリズム」への信仰、等。かつて日本が戦争犯罪をしたことを認めてしまうと、上記のような世界観は傷つかざるをえないのである。

 動機が何であるにせよ、積極的に人々が騙されたがっている限り、「慰安婦」に対する「否定論者」は何度論破されても、自身の根拠を説得力があるものにアップデートする必要はない。すでに論破された話を繰り返しするだけで、それに騙されたがっている聴衆は、あたかも「否定論」が正しいものであるかのように振舞ってくれるからだ。

 Netflixのコメディ・ドラマ『アンブレイカブル・キミー・シュミット』の第一シーズンのクライマックスは、主人公であるキミーと、彼女たちを長年監禁していた新興宗教の教祖の、裁判所での対決である*4。犯罪の証拠は、どう考えてもすでに明らかである。しかし教祖は、本質とは関係ない証言の重箱の隅をつき、証言者の戸惑いを攻撃する。そして自分自身は余裕な態度をとり、本質とは関係ないジョークで、あたかも決定的な反証を行ったかのように振舞う。次第に傍聴人やキミーの弁護士さえ、相手の勝利を認めざるをえないと思わされる。

 もちろんこの作品はコメディなので、このシーンはシリアスなものというよりは、陪審員裁判についての風刺的な笑いが意図されている。しかし、「慰安婦」問題については、国会で、メディアで、ネットで、様々な場所で行われている議論をみていると、この裁判のシーンにおけるキミーのような気分になってしまう。

 なぜかれらは国際法における性的奴隷の定義をいつまでも無視するのか?奴隷の定義において「慰安婦」がピクニックに行ったということがなぜ重要だということになるのか?戦時性暴力に反対する象徴として建立された少女像を「反日」であるとして攻撃し続けるのか?それは、国会議員やテレビのコメンテーター、タレントがバカだからではない。かれらは意図的に騙しているし、騙されたがっている。いわば現実で壮大なコメディを繰り広げているのである。

 私は『主戦場』を「きっかけ」にして「慰安婦」問題に入ること自体を否定はしない。この映画を見て日本軍「慰安婦」問題を外交問題ではなく性暴力問題として理解したり、初めて「否定派」のおかしさに気づいた者も実際に存在するようだ。

 しかしまた、能川氏が警鐘を鳴らしているように、視聴者の認識が『主戦場』の地平にとどまり続けることもよくないだろう。日本軍「慰安婦」問題をめぐる日本の状況を変えるのは、知識を広めるだけではなく、レイシズムやセクシズムに手を付けなければいけない。『主戦場』からさらに日本社会の構造的問題に視線を向けてもらわなければ、せっかくの「ヒット」も意味がないだろう。

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

 

 

*1:能川元一「「論破」される否定派の姿を面白がるだけでいいのか」『週刊金曜日』2019.5.24, p50

*2:「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828

*3:すでに論破されたものであれ何であれ事実に対する疑問を矢継ぎ早に繰り出すことで、その事実について詳しくない人を宙吊りの状態に置くこと。歴史修正主義者にとって、人に対してある虐殺をなかったと信じさせる必要はなく、あったかわかったかわからない、という状態に持っていければとりあえず成功なのである。

*4:アンブレイカブル・キミー・シュミット』12話「キミー、裁判所に出頭」13話「キミー、最後まで諦めない!」https://www.netflix.com/jp/title/80025384