書評:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、二〇一九年)

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

 この本の結論、すなわち、我々は「経済と差別というふたつの領域で平等を求める」「ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある」と宣言すべきだという結論*1には異論はない。

 だが、私が思うのは、この本の内容に代表されるように、なぜ人は、差別の問題とその解消をひたすら訴えかけるような現在の反差別運動にひとつの行き詰まりを感じてしまうのか、ということである。小説でもテレビドラマでもよい。10年前、20年前、30年前のコンテンツを見てみるがいい。いかに現在の視点からは耐え難い差別表現が随所にみられることか。そしてそれらは現在、いかに解消されてきたことか。現在のバックラッシュが激しいとはいえ、昔からバックラッシュはあったのであって、今日がこれまで続いてきた反差別運動の最終地点だと主張する根拠はないだろう。

 とはいえ、現在の反差別運動がとりあえずぶち当たっている問題について、多少図式的ながら整理をして検討を加えてみるという作業自体に意味がないとは言わない。しかし、この本においては、その図式がまずい。綿野が反差別の問題を分析する上で根幹に置いている二項対立は、シティズンシップとアイデンティティの区別である。そしてそれは、公法学カール・シュミットが論じた自由主義と民主主義の区別に対応しているという*2。しかし、この構想は思想史的には大いに疑わしいものがある。

 綿野のタネ本となっているのは、樋口陽一が訳した岩波文庫版の『現代議会主義の精神史的状況』(2015年)である。この本には付録として同じくシュミットの論文「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が収録されている。

 『現代議会主義の精神史的状況』が書かれたのは1923年であり、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が書かれたのは1926年である。そして前者と後者の間の3年間に新たに付け加わった重要な概念こそが、いわゆる「政治的なもの」であった。かの『政治的なものの概念』の初版が発表されたのは1927年である。シュミットの自由主義批判はこのポイントに結びついている。つまり、自由主義では「政治的なもの」を生じえないが、民主主義では生じうるのである。幾度となく引用されている自由主義の平等が「空虚な」な平等であるというのは*3自由主義では政治的な意味で平等な集団をつくりえないという意味であって、反差別運動のロジックとして自由主義を用いることはできないという意味と解釈するのは、誤読とはいわないがかなり無理があるだろう。

 ここで問題なのは、20年代のシュミットにとって、「政治的なもの」とはすなわち(国民)国家のほかには何もなかったということである。国家以外の集団が「政治的」な集団になりうるという発想は、1932年の第二版から登場する。しかしそのような政治的な「強度」を持つ集団が国家内に現れたとたん、その国家はもはや単一体ではありえなくなる。したがって、国内マイノリティを民主主義=政治的なもの=アイデンティティの集団とみなすのは、少なくともシュミットの視点からは問題となる。シュミットの図式において解釈するならば、国内のさまざまな利益集団は、国家=公に対する私的な集団でしかありえない。

 しかし、この本ではシュミット的な公と私の区別を欠いている(カール・シュミット公法学者であることを無視しているといえる)。たとえば綿野は政治学者であるマーク・リラの主張を、アイデンティティに対してシティズンシップを要求する運動だと考えている。そしてそのような処方箋は、シティズンシップでは同質性が確保できない以上、不可能な試みだと考えている*4

 だが、シュミット的に考えれば、「市民」概念に国家統合の求心力を持たせ、公共領域の再生をはかるリラの運動は、そもそも民主主義的国民の創造とみなすのが妥当ではないか。シュミット理解の不十分さとcitizenとnationの辞書的意味に引っ張られ、分析に失敗しているのではないだろうか。

 シュミットにこだわらずとも、シティズンシップとアイデンティティという綿野の図式に適合するような、自由主義と民主主義の対立を説く政治学者は、探せばほかにもいそうなものである。しかしよりによってシュミットを選んでしまったためか、この二項対立は思想的な緻密性を欠いたものになっている。二項対立である時点で確かにある程度の乱雑さに目をつむらざるをえないのだが、この本の論じ方は許容不可能なほどに乱雑なのである。

 たとえば、綿野は第二章で『帝国の慰安婦』騒動を取り上げている。2019年に出版された本で、一貫して日本軍「慰安婦」問題ではなく、「従軍慰安婦」問題と書かれている時点で、この問題に対する著者の知見のレベルは理解できてしまうのだが*5、まあそれは置いておこう。問題なのは、綿野が「従軍慰安婦」も兵士も動員された被害者という視点によって、朴裕河民族主義の対立を超えたシティズンシップの立場に立った和解を考えているのに対して、批判者はこの両者の絶対的敵対性というアイデンティティの立場に立っていたので、両者の相互理解に失敗した、といっていることである。

 だが、朴裕河を批判している者たちが一貫して主張していることは、日本軍「慰安婦」問題を戦時性暴力の問題ととらえたうえで、日本政府に法的な責任を取らせようとしていることなのである。ここのどこに民族対立が入り込む余地があるだろうか。「平和の少女像」の作者が「ベトナムピエタ」を製作したのに対して、日本政府は右翼とタッグを組み、戦時性暴力被害の象徴としての「平和の少女像」を世界各地から撤去させようとしている。そうした動きを批判してきたのも、『帝国の慰安婦』批判者たちである。

 日本軍「慰安婦」問題を、民族の対立だと解釈したがっているのは、朴裕河および彼女と密接につながっている「アジア女性基金」のグループのほうであろう。かれらは法的責任よりも道義的責任のほうが重いなる奇妙なロジックで、日本の国家としての責任を回避しようとしているのだ。そもそも、実証的にもほぼほぼインチキである、兵士と「慰安婦」の連帯なるDV夫もつらかったのよという昭和歌謡的な世界に、自由主義=個人の尊厳=シティズンシップ的な関係を求めることに無理があるのではないだろうか。綿野は自らが設定した二項対立に自縛され、そのため事実認識をゆがめてしまっているのではないだろうか。差別を差別として認識することは難しいと綿野も述べているが、まさにこの朴裕河を相対化したこの節こそが、著者が身をもって実践した、差別を差別として認識することは難しいという実例であろう。

 さらに、綿野は、しばき隊のようなカウンター反差別運動はシティズンシップの立場にたったためアイデンティティ・ポリティクスの立場から批判されたとまとめている*6。実際は、かれらが在特会よりはマシな右翼と組んだため、運動における場の安心が損なわれるという、綿野の理解ではシティズンシップの立場から批判されたのである。当事者の一人として言わせてもらえば、明らかな取材不足だろう。やはり全体的に、片方がアイデンティティなら、もう片方はシティズンシップ、その逆もしかりという思い込みがあるので、その図式に当てはまるようにすべてを解釈してしまっているのではないだろうか。

 また、綿野が指摘していないトピックとしては、いわゆる「表現の自由戦士」問題がある。「表現の自由」というキーワードは、法学的な通説への知識を欠いたうえで、主にオタクの中で広がっており、国会議員まで当選させている。「表現の自由戦士」が主張するのは、ある種のラディカルな自由主義である。彼らのロジックにおいては、個人の私的自由だけが問題であり、アイデンティティは単なる趣味の問題にすぎなくなる。在日コリアンペドファイルは、個人のアイデンティティという点において「平等」なのである。公的な価値については、「正義」の押し付けだとして、徹底的に拒否する。つまり、綿野がいうところの「空虚な平等」の論理を前面的に振りかざして、彼らは差別を擁護するのだ。「表現の自由戦士」については、少なくともロジックにおいては、アイデンティティの論理の簒奪によるバックラッシュという綿野の図式は崩れるのである。

 最後に、この本でもうひとつ重要な論点である天皇制の問題について触れる。いかにリベラルな天皇であろうと、天皇制そのものが差別であるという指摘についてはその通りだと思う。しかし、自由主義と民主主義の調停者としてのリベラルな天皇という分析については、少なくともその議論はシュミットに全く関係がないので、名前を出さないほうがよいと思う。シュミットは君主主義者ではないし、自由主義によって分解しようとしていた国家の維持を国民によって選ばれたという権威に基づくライヒ大統領の調停に求めたとしても、それは例外状態において決断する権能をライヒ大統領が持っているからである。現在の天皇制を血統ではなく国民の喝采によって正統づけられるカリスマ支配だと解釈するとしても、シュミットの想定と綿野の想定にはかなり距離があるといえるだろう。

 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のカール・シュミット理解が不十分であること、またそれには目をつむっても、この書物の根幹をなすシティズンシップとアイデンティティの二項対立自体が実情においても矛盾をきたしていることについて論評してきた。全体を通して読んだ印象では、この本の著者は、反差別運動それ自体にはたいして興味がないのではないかと感じた。しかし、英米系の学者の引用で固めているところに無理にシュミットなど用いても、軽さしか伝わらないので、もう少し言説分析を丁寧にやったほうがよかったのではないかと思う。

 

カール・シュミット著作集 (1)

カール・シュミット著作集 (1)

 

 

*1:三一四頁

*2:一八頁

*3:岩波文庫版では一四五頁

*4:六三頁

*5:PCにうるさい左翼の実践ですよ!綿野さん!

*6:十五頁

『あいちトリエンナーレ2019』における「平和の少女像」弾圧事件について

 国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』のプログラムの一部「表現の不自由展・その後」では、日本国内の公立美術館などで表現弾圧を受けた作品、たとえばヒロヒト昭和天皇)の肖像画を燃やす映像などとともに、「平和の少女像」が展示されていました。この「平和の少女像」に対して、河村名古屋市長などの政治家を中心に展示を取りやめよというクレームが相次ぎ、2019年8月3日、主催者は急遽、プログラム自体を中止にすることを発表しました。

 これは大きな事件です。2019年8月3日から日本国内では、戦時性暴力を告発することが禁止になったのです。ついでに「表現の自由」も死にました。正確にいえば「表現の自由」に対して何度目かの死亡確認が行われました。かわりに日本国内においては、「日本人のお気持ち」という概念が最上位に置かれます。ちなみにこの「お気持ち」の中には、ヘイトスピーチやセクハラに対する不快感は入っていないようです。

 もちろん、「表現の自由」に何度目かのナイフを突き立てた人たちは、「表現の自由」をまだ生きているように見せかけるため、この件は「行政の補助金が出ているイベント」であることを重要視します。もちろん、民族差別や性差別などについては、行政が関与するイベントにて行われてはいけないのは当然です。行政は差別を禁止した日本国憲法の理念に拘束されているからです(平和の像は日本人差別であるなどという差別について何もわかっていない言説は無視します)。

 しかし、河村市長や政府自民党の人間たちの(政府見解からさえも遠ざかっている)歴史修正主義の思想のもとでは「平和の少女像」が不快なものであるからといって、それを排除することは、行政が関わっているからこそできないはずです。後世の歴史書には、普通に「平和の少女像」の弾圧事件として記されることになるでしょう。

 

 一方、この事件は次のことも明らかにしました。21世紀における自由主義国家(タテマエであれ)の統治権力は、批判意見や権力に都合が悪い表現をあからさまに弾圧することはしません。賢明なるエリート層は、ちょっとやそっとの批判でシステムが破壊されないことは知っており、多少の批判は鷹揚に寛容しておくことによって、自由な国家であるという幻想を民衆に与えることができます。メドベージェフが一時的にロシアの大統領になった際、彼は自分を眼前で罵倒する人物を許容してみせ、人々から称えられました。しかしロシアは実質的には権威主義国家のままです。安倍晋三が自分に対する批判に対して山本太郎並みのレトリックも思いつかず、ついつい正直に反応してしまうのは、彼が賢明でないからかもしくは民衆が自分よりも賢明でないことを知っているかのどちらかなのです。

 しかしこの件について、権力はあからさまな弾圧の姿勢を見せました。数か月無視しておけば勝手に企画が終了する展示物に対してです。普通に考えたら何もせずに、逆に政権批判に対して、日本ではまだ「表現の自由」が生きておりしたがってファシズムではない証拠として見せつけることもできたでしょう。

ところが、今回かれらは、そのような合理的な判断も下せませんでした。『あいちトリエンナーレ』に対してだけではなく、この国の保守系エリートは、「平和の少女像」に対しては異常なまでの憎悪をむき出しにして、襲いかかるのです。あたかも自分の弱点を攻撃されようとしている魔王であるかのように。

 ここから言えることは、日本の社会システムの核心にあるのは、「平和の少女像」が存在しているだけで都合が悪いもの――植民地主義とセクシズムだということです。だからかれらは本性をむき出しにして像を攻撃し、それらを守ろうとするのです。安倍政権を終わらせ、社会を変えようとするものは、まずこの急所を撃たなければならないということが、この弾圧によって明確になりました。

 そしてこの弾圧によって、『あいちトリエンナーレ』が全体化しました。規範を実質的に規定するのが例外です。したがって、脅迫を口実とした行政による、戦時性暴力の告発の弾圧という非常事態が、いまや通常状態となるのです。ゆえに、愛知県の一部だけではなく、日本全体が『あいちトリエンナーレ』になったのです。私は津田大介氏にそれほど好意をもってはいませんが、それでも私も『あいちトリエンナーレ』の中にいます。私は残念ながら、平和の像をつくる技術も芸術展を開催する能力ももちません。しかしこの国の市民が、特にアーティストたちが、冷たくなった表現の自由とともに権力に屈従することをよしとしないなら、今後の日本のありとあらゆる芸術展において、無数の「平和の少女像」が展示されることになるでしょう。

 今回の件で津田氏の覚悟を問題にしているような芸術関係者のみなさん、あるいは彼が下りたことによって「表現の自由」の安否を心配する知識人たちのみなさん、安心してください。ここが『あいちトリエンナーレ』です。あなたも明日から、「平和の像」を展示する芸術展の企画者となれるのです。「表現の自由」に心臓マッサージをして復活させることができるのです。

 そのような企画者となることが難しい我々のような人間でも、戦時性暴力の告発の禁止に対しては抵抗することができます。2015年の「合意」そしてそれ以前から、日本国が日本軍「慰安婦」にしてきた仕打ちの数々について積極的に発言し、問題化し、歴史を正当に共有していくことはできるはずです。表現の不自由展・その後」は作品の撤去によって完成するのではなく、『あいちトリエンナーレ』の継続によって完成するのです。

 

 

例外状態

例外状態

 

 

 

 

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

 

 

 

耽美的ユーフォニアム

 部活動という制度が、否定的な意味で扱われるようになって久しい。他国なら地域や民間のクラブでやるような活動を学校教育の場で行うという独特のシステムは、すでに理念と実態の矛盾を隠しきれなくなっている。「ブラック部活」という言葉も登場してきている*1

 このような状況下で、もはやナイーブな「青春部活もの」はありえない。吹奏楽部も例外ではない。全国を目指す部活の、すべてのプライベートを犠牲にしなければならない練習量の多さ・厳しさなどが批判にさらされている*2

 

 その意味では、『響け!ユーフォニアム』の舞台、北宇治高校も、こうした時代の批判を免れえないのかもしれない。確かにその練習量は、公立高らしくある程度抑制的であり、平日は暗くなる前に帰宅することができる。しかし、自主性という名の個人練習や、土日および夏休みのほぼ全てがつぶれる環境は、このご時世においては、まったく正当にも問題とされるであろう。

 もちろん、本作において、こうした近年の部活動をめぐる問題がまったく扱われていないわけではない。しかし、あらゆるエクスキューズを行ってなお残る、部活動の薄暗い負の部分については、一人のキャラクターに押しつけたまま宙づりにされている。すなわち斎藤葵である。

 斎藤葵の唐突な退部は、久美子に衝撃を与える。その理由は、コンクールと受験勉強との両立が困難だからというものである。あとになって、前年度に発生した部内対立に無力だったことへの罪悪感、という真の理由が明かされる。しかし、二番目の理由こそ、一番目の理由に対する物語上のエクスキューズによるものであるようにも思える。全国金賞をとるための過酷な練習に耐えられないものは公式には存在しない。しかし存在するかもしれない。斎藤葵はそれをほのめかしている。そして久美子は、最後までこの問題を自らの中で整理できていない。

 しかし、斎藤葵の喪の作業が物語において完結していないことは、本作の欠点ではない。むしろ斎藤葵をひとつの境界石として、北宇治吹奏楽部は一人の脱落者も出さず、崇高なる音楽の頂点を目指す集団へと変貌する。この点については、物語の結末までほとんど迷いがない。この瞬間に、単なる部活もののリアリズムを超越するような、本作の主題が決定した。一言でまとめると、美学的なものへのデモーニッシュな傾倒である。それが物語の主題として、決断主義的に表出してきたのである。

 確かに社会的な倫理や正義についても、その前もその後も考えられていないわけではない。しかしこの物語においては、それらは窮極的には、美しきものの前に立たされるや否や、すべて雲散霧消せざるをえないのである。象徴的な事例として、麗奈の幼少期のエピソードがあげられる。音楽活動を行う上での文化資本の有無という階級対立の問題は、美しい音楽によって有耶無耶にされるのである*3。ところで、美しきものとは何だろうか。

 

 音楽とは美しいものである。しかしそれは、音楽が上手いこととは異なっている。全国金賞となるのは、上手な音楽を演奏したグループである。久美子は「うまくなりたい」(1期12話)のである。一方、吹奏楽部の場合、高校野球と比べてもさらにそこからのキャリアパスが少ないという問題を抱えている。音大に行くような突出した才能を除き、ほとんどの生徒にとって、うまくなった先に何があるのか?また、物語を駆動させるのは、もっぱら部活内の人間関係である。それは、いかにその人間関係の問題が当人たちにとって重要であろうと、客観的にみれば「狭い世界」の話である。しかしその「狭い世界」は、そこに集う人々を虜にして、利害を無視した目標(上手くなって全国金賞を狙う)へと結束させる、デモーニッシュな空間なのである。

 このように考えると、(「真剣」に取り組まれている)部活動はふつう考えられているような「日常」の一部(「日常物」!)ではなく、むしろ「日常」の中にある「異界」として捉えることもできる。ただ純粋に上手さという軸によって成り立つ「異常な」世界。それは、いわば谷崎潤一郎的な耽美主義の世界である。ありふれた日常の世界を別の視点で見たところに、我々の感性に刺激を与えてくれる、奇想の世界が広がっているのである。そして『響け!ユーフォニアム』の物語的な軸足は、むしろそちら側にあるのだ。

 もちろん、『響け!ユーフォニアム』の奇想の世界は、たとえば流行の異世界転生もののようなファンタジー世界ではない。しかし、主人公である久美子の前には、クエストのごとき謎がつねに横たわっている。その謎とは、つまり、久美子にとっての他者についての謎である。その他者とは、たとえば麗奈でありみぞれでありあすかである。久美子はその謎を追及する。そして彼女は、それぞれのキャラクターの中にある美しきものを発見し、それに魅了される。しかし、彼女は同時に、その謎の中に背徳的だったり陳腐的だったりするものも発見する。女子高生の教師に対する恋愛感情、友人との共依存と不誠実、そして「特別じゃなかった」(2期7話)あすか先輩……。

 

 しかしながら、それは当然なのである。日常の中にある奇想の世界で発見されるものは、結局のところ日常の反転としての奇想でしかないからだ。奇想の世界にある美しきものは、境界石――斎藤葵のような――を越えた先でしか美しきものではない。世界が反転して日常に戻ったとたん、陳腐なものに戻るのである。コンクールの本番が来てしまうことを恐れるあすか(1期13話)やみぞれ(リズと青い鳥)は、それを理解している。この美しき日々は、退屈な日常の中で一瞬だけ奇跡的に見ることができた、白昼夢に過ぎないということを。

 だが、それがどうしたというのか。美しきものの正体が陳腐なものだとしても、それでも美しいものは美しい。その美しさを手に入れるためには、どこまでも堕落せざるをえない。「ワルモノ」(1期11話)にならざるをえない。美しきものは善悪の彼岸においてしか求められないのだ。京都アニメーションが描く、大吉山や宇治川の美しい風景は、久美子が麗奈やあすかの謎に深く分け入り、引き返すことができない地点に到達してやっと発見した、ある白昼夢の情景なのである。

 

 『響け!ユーフォニアム』のこうした解釈を通して初めて、久美子-麗奈-秀一の関係が理解できるようになる。久美子のセクシュアリティが明示されることはない。だが、麗奈との耽美的・背徳的なものの美学に魅了されている彼女にとって、いずれにせよ秀一との「ノーマル」な関係を、無難に継続させられるはずはないのだ。後者はあまりにも日常的すぎて、日常の裏側にある美学には到達できないのであるから。

 

 

*1:クローズアップ現代「「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~」https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html

*2:註1参照

*3:武田綾乃「お兄さんとお父さん」『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』二二九頁以下

言説の土壌

「安倍政権を倒したいならば、左派は経済を語れ」

 これが、ネット上において国政野党に票を集めようとする運動のスローガンになって久しい。もちろん、野党が経済政策を充実させ、活発に支持を訴えることについては、大いにやればよいと思う。しかし2点ほど引っかかることはある。まず1つ目は、野党および左派はすでに経済について語っているということである。その状況についてこうしたスローガンをとなえるのは、左派は経済的に無策であるという右派・与党のプロパガンダへの加担ではないか。これは、すでに参議院選挙の1人区での一本化など野党共闘が進んでいるにも関わらず「野党はバラバラ」だと批判する野党支持者にもいえる。

 2つ目は、そもそも与党も経済を語ってはいないのではないか、ということである。与党は、財界や資産家や投資家を喜ばせるような政策について語っている。しかしそれは経済を語っていることにはならない。2012年の政権交代時に提示したリフレ政策のヴィジョンは、すべて破綻しており、それに代わる経済政策を与党は出してはいない。「リフレ 波及経路」で検索すると分かるが、かかる政策は、予想インフレ率の上昇によってあらゆる好循環が発生するはずであった。しかし、現政権はインフレ率2%を何年たっても達成できず、ついに日銀はその目標を断念するに至った。初動で失敗しているのだから、局地的な数値の改善を政権の経済政策に結びつけようとする御用学者の取り組みには無理があるというしかない。

 つまり、問題は、「与党(自民党)は経済を語り、野党は経済を語らない」ことなのではなく、「与党(自民党)は経済を語るイメージを持たれており、野党は経済を語らないイメージを持たれている」ということであって、政治文化の問題なのである。

 さらに、この「経済」の項には、「安全保障」や「社会福祉」など、様々な項を代入することができるだろう。ここで「社会福祉」が入るというのは感覚に反するかもしれない。しかし、選挙において有権者に関心があるテーマを調査すると、つねに「社会福祉」が1番にあがるにも関わらず、いざ選挙となると、公助を削って自助努力を奨励するという政治的イデオロギーのもとで、年金制度を徐々に改悪し、足りない分は投資で補えとする与党(自民党)が勝利するのである。

 したがって、問題は「与党は重要なことを語り、野党は重要なことを語らない」という政治的イメージだということがわかる。これは、野党がどれほど重要なことを語っており、与党がそれを無視しているのか(年金に関する金融庁報告書への態度ひとつとっても理解できる)、ということを十分知っているはずの野党支持者でさえ、多くの人が有している政治的イメージである。これは、事実の問題ではなく文化の問題である。このような政治的イメージを生む政治文化を変えなければいけないのである。

 

 今年(2019年)の1月に出たフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(長谷川晴生訳、新泉社)は、近年ドイツで急激な成長を続けている極右政党AfD(ドイツのための選択肢)および、新右翼と呼ばれる社会運動について、解説がなされた本である。

ドイツの新右翼

ドイツの新右翼

 

 ヴァイスによれば、ドイツの新右翼は、その思想的ルーツはアルミン・モーラーによって定義付けられたヴァイマル共和国時代の「保守革命運動」にあり、運動論的ルーツは1968年革命の経験にある。そして、この運動が結果として成功をおさめたのは、移民の増加や福祉国家の行き詰まりといった最近の情勢によるだけではなく、グラムシの理論を簒奪した「陣地戦」の一環としての「メタ政治」戦略のせいだという。彼らは社会の上層部にいるような保守主義者とも巧みに連携しながら、草の根運動として自分たちの言説が通用する土壌を少しずつつくりあげていったのである。

 「メタ政治」とは、直接的な現実の政治というよりは、エンターテイメントなどを駆使して、より基層的な、いわば文化(政治文化)の領域をまず自分たちの色に染めていこうとする運動である。政治的な言説を発する前にまずその土壌を開拓する戦略は、結果論としては正解だったというしかない。

 では左派はこのような政治文化の開拓は不可能なのだろうか。現在、ドイツではAfD以上に、緑の党の躍進が著しい。それは、部分的にはCDUやSPDといった二大政党をしのぐ勢いである。その理由は、ひとつには、経済や社会の問題を幅広く「語る」ことで、SPDを中心とする既存左派の行き詰まりを敬遠する人や、極右勢力の台頭などに危機感を持つ人々の受け皿となっていることがある。しかしそれだけではなく、看板商品である環境問題が、ドイツ社会において政治上の最重要問題となりうるような言説形成に成功したこともあるだろう。2018年、スウェーデンに端を発する地球温暖化防止を訴える高校生デモ「将来のための金曜日」は欧州に広がり、ドイツでも多数の参加者を集めている*1

 環境問題をテーマに高校生が数万人のデモを行うなどということは日本では考えられないことであり(インスパイアされた行動自体はあるようだが)、むしろ「現実主義者」を名乗る一群によって、鼻白まれたり攻撃を受けたりしてしまうだろう(これ自体が日本の悪しき政治文化のひとつであるのだが)。逆にいえば、ドイツでは環境問題を訴える人々が言説上の陣地戦に勝利したのである。さらに興味深いことなのは、緑の党もまた1968年運動の落とし子だということだが。

 

 『ドイツの新右翼』を読むと、政治的な言説を戦わせることは必要だが、その前に、政治的な言説を戦わせるべきアリーナはいかなる場所なのかを常に考え続けなければいけないことがわかる。改憲は防がなければいけない。少子高齢化社会についても、自助努力を煽るしかない無能な現政権を一刻も早く退陣させなければ本当に取り返しがつかなくなる。したがって左派が早急に支持されなければ意味がない、という気持ちは理解できる。しかし、それを急ぐあまり、左派の言説に説得力を持たせる空間自体を売り渡すような言説に飛びついてしまっては意味がない。ことに、経済の問題を重視するあまり、差別や人権の問題を後景化させてしまうような一部の運動は、長期的にみれば悪手を行っていると判断するしかない。

 左派への支持を訴えるために何かを語るとき、アクチュアルではありつつも、俗情とは結託せず、現在の政治文化の土壌には乗らない(むしろそれを書き換えていく)言説になるよう、つねに工夫していく思考が必要なのである。

*1:個人的は、こうした運動がラディカルな可能性を開きうるかについては慎重に判断したいが、少なくとも環境問題についての言説が社会に浸透している例としてあげられる。

『主戦場』を見た後に

 日本軍「慰安婦」問題を描いたドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督)が評判となっている。上映している場所が少ない(関東では2館。私が見てきた5月上旬の段階では1館)こともあるが、常に満席。事前予約は必須で、平日の午前中ならばなんとかなるだろうと当日訪れた私は、後日に出直しを迫られた。

 映画は、「慰安婦」に対する「支援派」と「否定派」、のインタビュー映像が交互に繰り返されることによって進んでいく。しかし、「否定派」の議論の稚拙さがすぐに明らかになる。誘導によってではない。かれらはカメラに向かってほとんど無防備に、普段から自分たちが主張していることを、主張している通りに喋る。だがその主張は、その後の「支援派」の主張やナレーションによって直ちに否定される。主張のそれ以外は、議論の余地なく嫌悪感をもよおすような、差別、明白なウソ、陰謀論である。

 この映画は双方の議論について、いわゆる「両論併記」をしていない。製作者の立場は明白である。それを理由に、この映画を批判する人も多い。だが、これまで「慰安婦」問題に多少関心を示したことがある者にとっては明らかなのであるが、「否定派」の議論はすべて議論に耐えうるものではないので、誠実に映画を撮ろうとすると「両論併記」になりえないのは仕方がない。「慰安婦」問題を全く知らないものにとっても、かれらのインタビューが、いかに聞くに堪えないウソやごまかしによって構成されているかが理解できるつくりになっている。

 したがって、出演した「否定派」の人物たちがこの映画の上映停止を求めるほど怒り狂っているのも理解できる。また、その逆の立場にとっては、「否定派」の議論をわかりやすく「論破」した映画として痛快で、また初心者向けの啓蒙映画としてもすぐれているという評価が多いのもわからないことはない。

 

 しかし「支援派」の中には、この映画について手放しで評価できないという立場もある。2019年5月24日付の「週刊金曜日」において、『主戦場』のレビューを行っている能川元一氏もその一人である。

 能川氏は、この映画が「強制連行の有無」や「被害者の証言の信ぴょう性」などといった、「否定派」が設定した議論の土壌を受け入れてしまっていることに注意を促す。それらは確かに「論破」されるのだが、元「慰安婦」の体験や人生に対する視線を後景化させてしまうという代償を払っており、またそうしたディベート的な作法こそ、歴史修正主義者が歴史認識問題に持ち込んだものなのだ。

 

筆者はむしろ苦い思いでそうした場面を見ていた。映画に登場する否定派の主張に対する批判はこれまでも繰り返し提示されてきたものであるにもかかわらず、否定派は同じことを主張し続けているからだ。『主戦場』において否定派が「論破」されているように見えるのは、映画という場をデザキ監督がコントロールできるからだ、ということを忘れるべきではない。*1

 

 能川氏は、『主戦場』のラストが、「慰安婦」問題そのものではなく、「米国の戦争への加担」への警告で締められていることに違和感を覚えている。なぜなら「映画館の中とは違って、現実の言論空間ではむしろ否定派のほうが主導権を握っている」からだ。映画館の中では「慰安婦」問題は勝負ありに見えるかもしれないが、現実ではそうではないのだ。

 能川氏はここ10年以上、特にネット上において「否定派」と真正面から対峙してきた人物であり、そこでの彼自身の体験も踏まえて『主戦場』が、「否定派」が「論破」されてスッキリする映画として消費されていることに危機感を覚えているのだろう。私もその通りだと思う。われわれが考えなければならないのは、「否定派」の主張をそのまま垂れ流すとメチャクチャなのは明らかであるにも関わらず(それは当然である)、なぜそのメチャクチャな議論が日本においては政治の場でも、メディアの場でも、前提になるか、少なくも考慮に値する議論として扱われるのか、ということだ。

 『主戦場』に出てくる「否定派」の言っていることは確かにひどい。しかし、それでも「否定論」が日本社会でのみ一定の水準で受け入れられているのは、「否定派」と「日本社会」が一定の共犯関係にあるからだろう。そして、その問題はけして今に始まったことではない。

 

 だが彼らは、ただ「無知」なのだろうか? ただ間違っているのだろうか? あるいは、彼らと彼らの支持者との関係は、「騙す者」と「騙される者」の関係なんだろうか? 「事実」に対してどれだけ証拠をつきつけても、彼らは「もぐら叩き」のように新たな「事実」をでっち上げ続けるだろう。これは南京大虐殺についても、朝鮮半島からの強制連行についても、沖縄の「集団自決」についても、同じように繰り返されてきたことだ。彼らは、能動的に「無知」であることを選んでいる。証拠が出てくるたびに、「無知」であり続けようと積極的に粘り強い努力をしている。数十人の政治家や知識人によって署名された今回の意見広告(引用者註:2007年に日本の歴史修正主義者が『ワシントンポスト』に出した意見広告「THE FACTS」のこと。「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める下院決議案を阻止するために出されたが、むしろ可決を推進する結果に終わった)に致命的な論理矛盾があることも、ただ彼らが愚かであるということで片付けるべきではない。愚かであるとしても、それは選択されたものである。彼らは、「無知」で不合理で国辱的である。しかしそれが、彼らなりの知性で合理性で愛国なのだとしたら?*2

 

 これは、「嘘」や「無知」と社会システム(国家システム)の共犯関係の構造について、優れた論考を示した常野雄次郎氏の記事「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」の一節である。歴史修正主義者の言説に騙されるのは、無知な者ではなく、無知であることを望む者、(歴史修正主義に)騙されることを望む者である。

 『主戦場』では、歴史修正主義の「足止め効果」*3については、それに近い言及があった。だが、なぜあのような知性の欠片もない言説が日本では流通してしまっているのか、という点についての思考は十分ではない。単に知識をつければよいという「欠如モデル」的な考え方をしているようにも思える。

 しかし、「無知」のままでいることやあえて騙されること自体にメリットがある。当然動機が存在する。周辺諸国への蔑視感情(レイシズム)、セクシズム、日本スゴイナショナリズム、現在の権力者がとっている立場に対して明確に敵対することを嫌う権威主義、「国家は謝罪してはならぬ(藤岡信勝)」といった凡庸な「リアリズム」への信仰、等。かつて日本が戦争犯罪をしたことを認めてしまうと、上記のような世界観は傷つかざるをえないのである。

 動機が何であるにせよ、積極的に人々が騙されたがっている限り、「慰安婦」に対する「否定論者」は何度論破されても、自身の根拠を説得力があるものにアップデートする必要はない。すでに論破された話を繰り返しするだけで、それに騙されたがっている聴衆は、あたかも「否定論」が正しいものであるかのように振舞ってくれるからだ。

 Netflixのコメディ・ドラマ『アンブレイカブル・キミー・シュミット』の第一シーズンのクライマックスは、主人公であるキミーと、彼女たちを長年監禁していた新興宗教の教祖の、裁判所での対決である*4。犯罪の証拠は、どう考えてもすでに明らかである。しかし教祖は、本質とは関係ない証言の重箱の隅をつき、証言者の戸惑いを攻撃する。そして自分自身は余裕な態度をとり、本質とは関係ないジョークで、あたかも決定的な反証を行ったかのように振舞う。次第に傍聴人やキミーの弁護士さえ、相手の勝利を認めざるをえないと思わされる。

 もちろんこの作品はコメディなので、このシーンはシリアスなものというよりは、陪審員裁判についての風刺的な笑いが意図されている。しかし、「慰安婦」問題については、国会で、メディアで、ネットで、様々な場所で行われている議論をみていると、この裁判のシーンにおけるキミーのような気分になってしまう。

 なぜかれらは国際法における性的奴隷の定義をいつまでも無視するのか?奴隷の定義において「慰安婦」がピクニックに行ったということがなぜ重要だということになるのか?戦時性暴力に反対する象徴として建立された少女像を「反日」であるとして攻撃し続けるのか?それは、国会議員やテレビのコメンテーター、タレントがバカだからではない。かれらは意図的に騙しているし、騙されたがっている。いわば現実で壮大なコメディを繰り広げているのである。

 私は『主戦場』を「きっかけ」にして「慰安婦」問題に入ること自体を否定はしない。この映画を見て日本軍「慰安婦」問題を外交問題ではなく性暴力問題として理解したり、初めて「否定派」のおかしさに気づいた者も実際に存在するようだ。

 しかしまた、能川氏が警鐘を鳴らしているように、視聴者の認識が『主戦場』の地平にとどまり続けることもよくないだろう。日本軍「慰安婦」問題をめぐる日本の状況を変えるのは、知識を広めるだけではなく、レイシズムやセクシズムに手を付けなければいけない。『主戦場』からさらに日本社会の構造的問題に視線を向けてもらわなければ、せっかくの「ヒット」も意味がないだろう。

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

 

 

*1:能川元一「「論破」される否定派の姿を面白がるだけでいいのか」『週刊金曜日』2019.5.24, p50

*2:「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828

*3:すでに論破されたものであれ何であれ事実に対する疑問を矢継ぎ早に繰り出すことで、その事実について詳しくない人を宙吊りの状態に置くこと。歴史修正主義者にとって、人に対してある虐殺をなかったと信じさせる必要はなく、あったかわかったかわからない、という状態に持っていければとりあえず成功なのである。

*4:アンブレイカブル・キミー・シュミット』12話「キミー、裁判所に出頭」13話「キミー、最後まで諦めない!」https://www.netflix.com/jp/title/80025384

「反ヴィーガニズム」問題について

 5月に入ってから、twitter上ではヴィーガンを攻撃するようなツイートが、目立って増えてきている。なぜ突然そのような現象が起きたのか。一説では、まとめサイトアフィリエイトサイト)における仕掛けがあるという。

 

 

 真偽のほどはさだかではないが、たとえきっかけがまとめサイトのアクセス数稼ぎにあったとしても、けして彼らを「アフィブログに釣られた情弱」とバカにしてはいけない。むしろ日本twitterにはヴィーガンに対して進んで攻撃的な態度をとるようなユーザーが潜在的にそもそも多かったことが、こうした大きな動きにつながった理由だろう。

 私はヴィーガンではないし、菜食主義やヴィーガニズムについて特に専門的に勉強したこともない。しかし、ヴィーガンについてここまで偏ったイメージが流布され、攻撃されてしまう点については、「ネットの闇」を感じるほかはない。

 

 日本のネット文化においてヴィーガンが嫌悪される理由を考えるなら、まず「享楽の盗み」*1が第一候補にあげられるだろう。それを念頭に以下のツイートをしたところ、多くのリプライをいただいた。

 その多くははっきり言えばクソリプなのだが、そのクソリプを我慢してよく読んでみると、その傾向の中に、ヴィーガン蔑視の背後にある「享楽の盗み」の存在が、ますますにじみ出ているようにも思える。

 リプライの中で一番多い内容は、ヴィーガンこそが肉食者の生活スタイルを脅かしている、というものである。その証拠として、実際に起きたヴィーガンの直接行動をあげる人もいる。

 次に多いのは、ヴィーガンの肉を食べないというライフスタイルも享楽なのではないか、というものである。それに付随して、ヴィーガンのようなライフスタイルは先進国のセレブリティしか可能ではないという、事実に反する思い込みをしている者も多い(私の菜食主義者ヴィーガンの知人友人は、ほぼほぼ金のない人間ばかりである)。また、この主張のポイントは、肉を食べないというライフスタイルで享楽を得られるならその人もやればいいという話になるのだが、そうではなく、ヴィーガンの享楽は「彼らの」享楽であって肉食者の享楽ではないのだと、暗に述べているということである。

 直接行動の問題は後で述べるとして、ヴィーガンとは我々の知らない享楽を得ており、そのために我々のライフスタイル(肉食)を侵食してくる存在なのだ、という認識は*2レイシズムやセクシズムを支える思考と同一のものである。たとえば、排外主義者にとって移民は、マジョリティの文化とは異なる得体のしれない文化によって享楽を得ており、それをひっそりとではなく堂々と楽しんでいることによって、マジョリティの文化を破壊する存在なのである。

 ヴィーガンは、ベジタリアンの中でもさらに徹底した肉食を禁じる立場のことを指す。ベジタリアンは肉食を制限する人のことであり、魚類や鶏肉は食べるという人もいる。サベジタリアンヴィーガンになる理由については様々で、健康や宗教やその他ライフスタイルによって選択する人もいれば、動物の権利や農業畜産業の南北格差の観点(たとえば、先進国の食肉を生産するための牧畜により途上国の森林が伐採されている、生産された穀物が飼料になる一方で飢餓が放置されている、などの観点)からそれらを選択する人もいる。

 個人的なライフスタイルの問題よりも政治的な問題を重視するヴィーガンが、他者に対しても肉食をしないよう勧め、ときにその主張も告発的なものになるのはやむを得ない。もし動物に人間と同等の権利があるならば、その権利を守るためには自分が食べないだけでは済まないのだし、人間社会の格差や差別という構造的な問題を解消しようとするなら、個人のライフスタイル以上のことをやらなければならないからである。

 私は、人間と動物の完全なる平等という意味でのアニマルライツについては、現時点では支持してはいない。だが、人間の動物に対する「非人道的な」行為については、世界的には食肉産業の現場含めて革新的なスピードで規制されつつある。おそらくこの動きは不可逆的だろう。たとえばEUでは経済性を犠牲にしてでも鶏のケージ飼育を規制する動きが拡大しており、遅かれ早かれ日本に対してもこの圧力が強まっていくと思われる(ここでどう対応するかは議論が分かれるところであろうが)。動物に対して人間が行ってよい行為は、けして今なお自明ではないのである。したがって、人間と動物の完全なる平等という主張について、荒唐無稽なものとはしない。

 また、食肉産業にともなう経済格差や差別についても、肉食を維持しながら解消することも論理的に可能だとは思うが、それは私が不勉強なだけなのかもしれず、肉食を廃止しなければそうした構造的問題を解消できないという可能性については排除しない。

 したがって、菜食主義・ヴィーガニズムに賛成するかどうかはともかく、またそのことによって個人的に罪悪感をもつかどうかはともかく、は肉食を続ける以上、われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。問われることすら個人の自由の侵害だとするのは、民主社会に生きる人間として筋がよい態度とはいえない(もちろん、菜食主義者ヴィーガンの主張の中に差別的なものがあるのであれば、その意見については個別的に批判すべきである)。

 ヴィーガン批判者の自意識は、自分たちはただ肉を食べているだけの無垢な庶民である、というものだろう。したがって、かれらの政治的な主張に巻き込まれるいわれはないと。しかし、無垢だろうが何だろうが否応なしに巻き込んでいく、また巻き込まれてしまうのが政治の力である。これまでそうしたことに気づかずに生きていけていたとすれば、それはマジョリティの特権にすぎない。そして「享楽の盗み」の妄想は、外部からの告発から、そうした居心地の良いマジョリティの世界を救うのである。

 

 さて、そうはいっても、ヴィーガンは現に直接的な行動を行っている。それは妄想ではないのではないか、という声もあろう。実際ヴィーガンの一部が(たとえ一部にせよ)、肉屋などを「襲撃」するといった実力行使を行なっていることについては、どう考えればいいのか。

 もちろん、そうした事実は存在していて、ニュースにもなっている。しかしそのことをもって、ヴィーガンが「我々」の生活様式を脅かしている、と主張するなら、やはりかれは妄想的なのである。それは、日本やアメリカのレイシストが、自らのレイシズムを正当化するために、黒人や在日コリアンの「実際の」犯罪を取り上げたニュースを探してきてあげつらうやり方と同じだからだ。

 映画『デトロイト』は、一発のおもちゃの銃声から、白人警官が黒人たちに対して凄惨なリンチを行う。

hokusyu.hatenablog.com

 このとき、銃が本物かおもちゃかは問題にならない。白人警官は銃の存在を過剰に恐れる一方で、銃声が聞こえたことを巧みに利用して黒人に暴力をふるう。銃声は暴力の原因ではなく、暴力の原因は白人警官のレイシズムにある。事件があって差別があるのではなく、差別者が事件を利用する。それ以上でも以下でもない*3

 海の向こうで、アクティビストたちがいくつかのパフォーマンスを行ったからといって、直ちに日本中の肉屋や焼肉店が襲われることはありえない。しかしその妄想に取り憑かれ、ヴィーガンに対してTwitterで愚にもつかない揶揄を行うという「反撃」に手を染めたというのなら、それは極めて恥ずかしいことを言っているということを自覚するべきだ。

 すでに述べたように、政治的な問題意識を有するヴィーガンが、他者に肉食の禁止を勧めるのは当然のことである。その上で、その政治的主張をいかなる手法によって訴えるかはヴィーガニズムの問題ではなく運動論の問題である。日本に比べて直接行動を志向するアクティビストが多く、また理解者も多い国で、ヴィーガニズムの一部がより先鋭的な立場をとるのは、その運動論において理解しなければいけない。

 もちろんその行為に賛成するか反対するかは別の話である。直接行動のパフォーマンスのやり方はもちろん、戦略的な有効性についても吟味されるべきだろう。個人的には、あらゆる政治的直接行動は原則としてなしとはしないが、小さな商店をターゲットにすることはやるべきではないと思っている。

 

 最後に、ヴィーガンの不徹底性を批判する主張について言及しておこう。つまり、ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。個人的には、こうしたことを言ってくる手合いに対しては、相手が不誠実だと指摘するだけで、直接的には答える必要はないと思う。

 「掌の中の小鳥」という寓話がある。ある盲目の賢者をやりこめてやろうと、ある少年が自分の掌の中に小鳥を握って問う。「小鳥は生きているか死んでいるか」と。「生きている」と答えれば、彼は小鳥を握りつぶすつもりである。「死んでいる」と答えれば、彼は小鳥を飛び立たせるつもりである。賢者は答える。「生きているか、死んでいるか、それは君の掌の上にある」他者をダブルバインドの状況において弄って遊ぶものは、そうやって遊んでいる自分自身が主体として際立ってしまったとたん、自分自身の不誠実さに恥じ入るしかなくなる。もっとも、恥の感情があればの話だが。

 恥の感覚の有無は、「柏原発」だけが知っている。

 

否定的なもののもとへの滞留    ちくま学芸文庫
 

 

*1:端的に言えば、資本主義社会においては、自らが享楽するためには、享楽を盗んでいると想定される他者を必要とするということ。詳しくはスラヴォイ・ジジェク酒井隆史田崎英明訳『否定的なもののもとへの滞留』筑摩書房、二〇〇六年、三八五頁以下。

*2:個人のライフスタイルとしては干渉しないといいながら、ヴィーガンが肉を食べて肉食主義者に転向した話とか、豚を積極的に食べるムスリムの話がウケるのは、彼らが禁欲を享楽と認識し、自分たちの快楽的生活を脅かすものとして認識しているからである。「やっと彼らも、楽しむ方法を学び、「私たちの同類になりつつある」、というわけなのである。」前掲書、三九三頁。

*3:差別主義者の恐怖と暴力の関係については、アクチュアルな話題としては「痴漢に対して安全ピンで自衛するのは是か非か」というトピックについても通用するだろう。安全ピンの恐怖におびえた男たちはレイプによって報復すると脅迫し、自らのセクシズムを暴露するのである。

映画『デトロイト』あるいは人種妄想をめぐるグレートゲーム

 映画『デトロイト』を見てきた。

 見る前に知人から胸糞映画だと言われて覚悟していたのだが、実際、胸がスッとするようなカタルシスは最後まで訪れず(史実に沿っているのだから仕方がないが)、見た後も頭痛がしてしばらく落ち込んだままだった。
 この映画は黒人差別を扱ったものだが、その描き方については様々な観点から批判がなされている。たとえば古谷有希子は、この映画は公民権運動の一部としてのデトロイト暴動の背景や意味について触れることなく、ただその暴力性にスポットを当てており、黒人に対してネガティヴなイメージを喚起する差別助長映画であると喝破している*1。また、Shenequa Goldingも、この映画は「ホラー映画」の演出を用いてしまったことで、それぞれの人物の個性が埋没してしまったことを指摘する*2。やはりここでも問題になっているのは、センセーショナルな暴力にスポットが当たっているため、本質的な問題であるところの人種差別の構造について描ききれてないということである。
 こうした批判について、私は異論を述べるつもりはない。私個人は暴動や略奪をそれ自体悪だと考えていないので、この映画から黒人に対するいかなるネガティヴさも読み取ることはできなかったが、おそらく一般世間ではそうではないわけであり、当事者にしてみればセンシティヴな問題になるのだろう。また、特に日本のような人種差別の背景についてほとんどの人間が何の前提知識ももたない国で、いきなりこの映画に触れた場合、あまり建設的ではない読み取り方をされるのではないか、という懸念はある。
 ただし、たとえ現実の運動に対して直接的に寄与するところが少ないとしても、一方で私は、差別問題をホラーの技法で扱ったことによって、人種差別妄想のある種の本質を描くことに成功していると思う(意図的かどうかについては留保する)。私はそのことについては積極的な意義を見出したい。もちろん、差別を一部の特殊な、妄想に取りつかれた病理的な人間のせいにしてはいけない。しかし差別の妄想的性格を解題することは、この世界の人種扇動を押さえ込み、人々の理性を保つための手段として、けして無意味ではあるまい。
 
 クトゥルフ神話で有名なホラー作家ラヴクラフトが、一方でスラヴ系やセム系、アフリカ系に対する人種偏見の持ち主だったことは残された書簡などから分かっているが、ラヴクラフトの生前に唯一出版されたことで知られる代表作「インスマウスの影」は、彼の人種的な偏見をホラーに転嫁させたものであるという議論がある*3インスマウスの住民は、何か得体のしれない種族との「混血種」であり、何やら訳の分からない言葉で訳の分からない神々を崇拝し、静謐な漁村を乗っ取り、恐るべき陰謀を企てている。このような「深きもの」についての叙述は、1930年代のアメリカにおける非白人系移民に対する妄想とパラレルに考えることもできるだろう。彼らはのちに官憲の手によって文字通り一掃される。彼らが誰にも知られないように超法規的にひっそりと処分されていくさまは、ナチスホロコーストをも思い起こさせるものだ。
 Jägerも指摘している通りこの話には最後にどんでん返しがあるので、単なる人種偏見のアレゴリーには還元できないにせよ、この物語の舞台設定がラヴクラフトの人種的妄想と分かちがたく密接しているという解釈は、けして否定できるものではないだろう。
 得体の知れない奴らがこの町にやってきてわれわれの生活を脅かしている、という人種的妄想は、ホラーの構造と相性が良い。しかしその妄想がいったん妄想だと明らかになったとき、その構図は逆転する。そこにいるのは、もはや得体の知れない者の陰謀によって生活を脅かされる被害者ではない。ただただ狂ったようにマイノリティを痛めつけ続けているマジョリティにすぎない。だが、その構造が逆転したとしても、ホラーの構造そのものは消えることは無い。世界を病理的に解釈する人種妄想は、それがいったんマジョリティの間に広まるやいなや、世界そのものを病理的・妄想的な舞台に変えてしまう。したがって、人種妄想に加担しないもの・あるいはその妄想から奇跡的に正気に戻った者に対しては、今度はより絶望的な、覚めない悪夢が待ち受けているにすぎないのだ。
 
 映画『デトロイト』におけるホテルの悲劇は、一発の銃声をめぐる妄想から始まる。その銃声はオモチャの銃によるもので、ホテルに本物の銃が無いことを観客は知っている。白人の警官たちは、ありもしない銃のありかを吐かせるために、黒人や「黒人と寝た」白人の女性たちを拷問する。当時のデトロイトには実際に狙撃者がいて、またリーダー格の警官は警察上層部でさえ手を焼くほどの根っからの人種主義者である。
 しかしここで問題になるのは、銃に対する妄想・デトロイト暴動の最中という背景・彼らの人種的偏見のどれが、ホテルにおける拷問のプライマリーな動機であったか、ではない。そのすべては密接に絡み合って、区別はつかない。白人警官は、射殺した黒人がナイフを持っていたという証拠を捏造するなど、一見冷静に黒人たちをハメようとしているようにみえる。だが彼は、ありもしない銃に対する妄想にも固執している。けして「遊び」で暴力を振るっているわけではない。かれらは根っからの警察で、銃が見つからないことに対するかれらの議論は真剣そのものである。その妄想はけして、黒人を痛めつけるための口実にすぎない、とはいえない。
 問題は、銃が見つからないということである。妄想の原因となった件のオモチャの銃は、映画の中ではけして発見されることはない。このあたり史実ではどうだったのかは知らないが、映画では妄想の原因が見つからないために、彼らはずっと銃=テロリストの妄想のうちに囚われ続けることになっている。
 さて、観客は、本物の銃がどこにもないことを知っている。しかしそのことは、いったいどのような効果があるのだろうか?拷問を受ける被害者たちの悲惨さを、より強める効果を持つのだろうか?もし銃声が本物だった場合、あるいは、銃が存在するのかしないのか観客も不可知だった場合、観客はどう考えるのだろうか?警官たちの行為に、多少なりとも正当性が出てくるのだろうか?いずれにせよ、結局最後まで銃は見つからないのである。オモチャだろうが本物だろうが、それが見つからないのであれば、あの場所で行われる行為に対して、何一つ影響を与えてはいなかっただろう。すなわち、銃に対する妄想によって暴力が振るわれることには変わりないのだ。
 しかし、もし本物の銃が撃たれたのであれば、警官の行為もある程度は仕方がない。安全を守るためなのだから――少しでもそう思ってしまった瞬間、われわれは人種的妄想に憑りつかれ始めるのだ。その思考は、まさに武器と権力を振りかざして無抵抗な黒人を殴りつけていた白人警官の思考そのものだからである(どこが違うというのだろうか?)。銃声はしたが銃は存在しない。あるのは妄想だけなのである。
 私は、デトロイト暴動およびアメリカの黒人差別問題を扱った映画としての『デトロイト』については、評価を保留したい。しかし、あのホテルの一夜については、人種妄想(警察がいかにそうした妄想に憑りつかれやすいか、ということも重要である)と暴力の関係を扱ったアレゴリーとしては、非常に示唆に富む映画だったと思う。冷静な妄想などというものはない。妄想と暴力との間には、境界線は無いのだ。
 
 大阪にスリーパー・セルなる「北朝鮮」の工作員が潜んでいて、金正恩が死んだら行動を起こす――そのような内容を、ある国際政治学者が公共の電波を使って発信したそうだ*4。彼女の頭の中には、あの白人警官と同じ、見つからない銃があるのだろう。銃が存在するかしないかは問題ではない。どのみちその銃は発見されることはなく、ただ暴力が行われるのだ。
 大阪には、「われわれ」の存在を脅かす「敵」が潜んでいる――「かれら」は、インスマウスの住民のように、やがて処理されるだろう。妄想と暴力の距離はない。差別扇動は良くないが――と前置きをしながら、「北朝鮮」の工作員の存在の蓋然性についてあれこれ語る者も同じだ。彼らはあの警官と同様、妄想を口にしているのに、自分自身はそのことに気づいていない。「安全のため」という理由をかざせば、自分たちは正気だと思っているのである(もちろん、あの警官たちとまったく同じように。もっと言えば、そのように考えている「国民」が多いこと自体がホラーだ!)。そして最後には、かの国際政治学者とともに、「かれら」の焼き討ちにまわるだろう。妄想の帳尻を合わせるためのナイフは、そこら中に転がっている。それに、仮に告発されたとしても、陪審員が無罪にしてくれるに違いない。日本国民という陪審員が。

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

*1:「映画『デトロイト』が「白人視点で黒人を描く」ことの問題点」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20180207-00081338/

*2:"‘DETROIT’ Gives Very Little To The Black Community To Hold On To" https://www.vibe.com/2017/07/detroit-film-review/

*3:Lorenz Jäger, "Amerikanischer Holocaust: H. P. Lovecraft", Das Hakenkreuz Zeichen im Weltbürgerkrieg, Karolinger Verlag, 2006, S.161ff.

*4:「三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論」http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/?utm_hp_ref=jp-homepage