オープンレターについて

 前回記事で言いたいことはほとんど述べてしまったのだが、補足として、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」に対する誹謗中傷に関しての意見を述べておく。念のため言っておくが、これはあくまで一署名者としての考えである。

 オープンレターに対しては様々な攻撃があるが、ここで言及しておくべきだと思っているのは、(1)オープンレターが呉座氏の失職を狙ったものである、というデマについてと、(2)オープンレターのイタズラ署名問題についてである。しかし(2)については(1)を前提に問題視されている部分もあるので、先に(2)から答えておく。

 

 まずネット署名には、こうした悪意あるイタズラに対する脆弱性が構造的に存在する。とはいえ、隠岐さや香氏述べているように、その脆弱性についてはこれまではほとんど問題にならなかった。

私自身、ネットでの署名や賛同集めに携わったこともあるが、このようなことが問題になった記憶はない。恐らくは、そのようなイタズラは単なる悪意以上のメリットがないからだろうが、逆に言えばこのオープンレターがどれだけ強い悪意に晒されているかの証左でもある。

 当然のことながら、この件でオープンレター側は被害者である。たとえば、ある人が嫌がらせで頼んでもいない寿司の出前を頼まれたとしよう。寿司を頼まれた側は被害者だが、寿司屋もまた被害者である。出前というシステムでいちいち本人確認することはないので、それを怠ったことは寿司屋の責任ではあるまい。出前のイタズラが多発することに閉口して寿司屋が何らかの対策を取ったとしても、それは本来はやる必要のなかった対策であって、あくまで悪いのはイタズラの主である。

 オープンレターについてもこれと同様のことがいえる。ネット署名で本人確認などは普通しない。もちろんどこかに請願するなど、多少なりとも効力を持たせようとするならば、ある程度の本人の同定はするだろうが、このような声明に対する賛同については、一般的にそこまではやらない。

 ここに誤解の一つがあるように思われる。ネット声明の賛同の価値は、連帯を示すことそのものの中にある。数や書かれた名前は二義的な問題なのである。賛同者の数が多いと勇気づけられるかもしれないが、数が少ないからといって声明の価値が薄れるわけではない。影響力のある者からの賛同は力になるが、それは捏造ではなく真にその人が賛同していることによってである。もちろん賛同していない声明に賛同していたことにされるのはその本人にとって重大な問題なので、それがわかった場合は速やかに取り下げるべきだが、それ自体がオープンレターの正当性を左右するわけではない。

 賛同者の数や名前によってオープンレターの正当性が左右されるという思考は、あるものの正当性の有無を他律的に判断する思考の産物だと思われる。オープンレターやネット署名の本質とはそうした思考に反して、むしろ一人ひとりの自律的な思考を求めるものなのである。

 

 続いて(1)の論点に移ろう。前回の記事で書いたように、オープンレターは呉座氏に強い制裁を求めるものではなく、彼の様々な差別や誹謗中傷の土壌となったボーイズクラブ文化の解体を求めるものである。

 そもそもオープンレターの文面には、呉座氏に強い処分を与えよとは書かれていない。呉座氏のTwitterのログから明らかとなったのは、誹謗中傷の事実だけではなく、ミソジニーによって駆動するような誹謗中傷を楽しむ「ボーイズクラブ」が存在するということであった。その界隈には研究者や学術関係者も含まれており、ここで呉座氏が受ける処分が何であれ、本質的な解決にはならないと考えられていた。また、被害者に対する二次加害がはやくも行われていた。オープンレターはかかる状況を変えるために出されたものであることは文面から明らかである。「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を享受してきた者たちの居心地が悪くなればなるほど、相対的に研究環境は改善されるだろう。 

いわゆる「ボーイズクラブ」問題に寄せて - 過ぎ去ろうとしない過去

ここで(2)の論点につなげれば、オープンレターは呉座氏の失職を求めるものであり、その際に賛同者の数が圧力として機能したという妄想に基けば、賛同者数の正確性は重要なのだろうが、そもそもその前提が妄想であり、日文研側にオープンレターが提出されたという事実も存在しないので、その論点はマッチポンプに過ぎないのだ。

 これに対しては、呉座氏への制裁が目的でないならば、なぜ呉座氏の所業が実名入りで比較的多くの文字数を使って記されているのか、という批判がある。答えは単純で、このオープンレターのきっかけが呉座氏のTwitter問題を出発点にしているからだ。この件はNHK大河ドラマ監修の降板をきっかけに全国メディアで取り上げられており、名前を匿名にすることに意味はない。またその内容も既に誰でも見られるかたちでアーカイブ化されているのであって、それに基づいて論評を加えることは不当な攻撃とはいえないだろう。

 それでももちろん、オープンレターは名前を匿名にしたり、やったことに詳細に触れずに書いたりすることもできた。その意味でこのオープンレターは呉座氏に特段の配慮をしていないといえる。だが、オープンレターが呉座氏に配慮する必要はどこにあるのか。オープンレターを含むネット上での評判が、日文研の処分に影響を与えるかもしれない、というのは呉座氏の事情であって、そのことをもって呉座氏のやったことに対する論評を禁ずることはできない。オープンレターは呉座氏を強く罰するべきだと言っていないが、寛大な処分を要求してもいない。寛大な処分を要求しないことは過剰な処分を要求することにはならない。処分に無関心だというだけである。そしてそれは別に非難されるべきことではない。

 当然のことながら、日文研側の内定取り消しという「処分」が不当に重いものであり、それが主にオープンレターの曲解に基づくものなのであれば、オープンレターの呼びかけ人なりが日文研側の解釈は誤りであると主張したほうがよいだろう。しかし前回記事でも書いた通り、日文研の「処分」がなぜこのようなものになったのかは全く分かっていないのだ。情報がないので、内定取り消しが「不当に」重いのかどうか、またそこにオープンレターはどのように関わっているのか、全く分からない状況で、オープンレター側は主体的に何かを発信する必要もないし、そもそも発信しようがない。

 もし呉座氏側が、オープンレターは呉座氏の強い処分を要求するものであるという解釈を、日文研側がしていたという証拠を掴んでいるなら、裁判の際にオープンレター側の誰かに頼んで、その解釈は誤りだと証明してもらえばよい。しかし、これまでのようにオープンレターに対する犬笛を吹き続けるなら、それは自身の立場をより悪くすることにしかならないだろう。