『主戦場』を見た後に

 日本軍「慰安婦」問題を描いたドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督)が評判となっている。上映している場所が少ない(関東では2館。私が見てきた5月上旬の段階では1館)こともあるが、常に満席。事前予約は必須で、平日の午前中ならばなんとかなるだろうと当日訪れた私は、後日に出直しを迫られた。

 映画は、「慰安婦」に対する「支援派」と「否定派」、のインタビュー映像が交互に繰り返されることによって進んでいく。しかし、「否定派」の議論の稚拙さがすぐに明らかになる。誘導によってではない。かれらはカメラに向かってほとんど無防備に、普段から自分たちが主張していることを、主張している通りに喋る。だがその主張は、その後の「支援派」の主張やナレーションによって直ちに否定される。主張のそれ以外は、議論の余地なく嫌悪感をもよおすような、差別、明白なウソ、陰謀論である。

 この映画は双方の議論について、いわゆる「両論併記」をしていない。製作者の立場は明白である。それを理由に、この映画を批判する人も多い。だが、これまで「慰安婦」問題に多少関心を示したことがある者にとっては明らかなのであるが、「否定派」の議論はすべて議論に耐えうるものではないので、誠実に映画を撮ろうとすると「両論併記」になりえないのは仕方がない。「慰安婦」問題を全く知らないものにとっても、かれらのインタビューが、いかに聞くに堪えないウソやごまかしによって構成されているかが理解できるつくりになっている。

 したがって、出演した「否定派」の人物たちがこの映画の上映停止を求めるほど怒り狂っているのも理解できる。また、その逆の立場にとっては、「否定派」の議論をわかりやすく「論破」した映画として痛快で、また初心者向けの啓蒙映画としてもすぐれているという評価が多いのもわからないことはない。

 

 しかし「支援派」の中には、この映画について手放しで評価できないという立場もある。2019年5月24日付の「週刊金曜日」において、『主戦場』のレビューを行っている能川元一氏もその一人である。

 能川氏は、この映画が「強制連行の有無」や「被害者の証言の信ぴょう性」などといった、「否定派」が設定した議論の土壌を受け入れてしまっていることに注意を促す。それらは確かに「論破」されるのだが、元「慰安婦」の体験や人生に対する視線を後景化させてしまうという代償を払っており、またそうしたディベート的な作法こそ、歴史修正主義者が歴史認識問題に持ち込んだものなのだ。

 

筆者はむしろ苦い思いでそうした場面を見ていた。映画に登場する否定派の主張に対する批判はこれまでも繰り返し提示されてきたものであるにもかかわらず、否定派は同じことを主張し続けているからだ。『主戦場』において否定派が「論破」されているように見えるのは、映画という場をデザキ監督がコントロールできるからだ、ということを忘れるべきではない。*1

 

 能川氏は、『主戦場』のラストが、「慰安婦」問題そのものではなく、「米国の戦争への加担」への警告で締められていることに違和感を覚えている。なぜなら「映画館の中とは違って、現実の言論空間ではむしろ否定派のほうが主導権を握っている」からだ。映画館の中では「慰安婦」問題は勝負ありに見えるかもしれないが、現実ではそうではないのだ。

 能川氏はここ10年以上、特にネット上において「否定派」と真正面から対峙してきた人物であり、そこでの彼自身の体験も踏まえて『主戦場』が、「否定派」が「論破」されてスッキリする映画として消費されていることに危機感を覚えているのだろう。私もその通りだと思う。われわれが考えなければならないのは、「否定派」の主張をそのまま垂れ流すとメチャクチャなのは明らかであるにも関わらず(それは当然である)、なぜそのメチャクチャな議論が日本においては政治の場でも、メディアの場でも、前提になるか、少なくも考慮に値する議論として扱われるのか、ということだ。

 『主戦場』に出てくる「否定派」の言っていることは確かにひどい。しかし、それでも「否定論」が日本社会でのみ一定の水準で受け入れられているのは、「否定派」と「日本社会」が一定の共犯関係にあるからだろう。そして、その問題はけして今に始まったことではない。

 

 だが彼らは、ただ「無知」なのだろうか? ただ間違っているのだろうか? あるいは、彼らと彼らの支持者との関係は、「騙す者」と「騙される者」の関係なんだろうか? 「事実」に対してどれだけ証拠をつきつけても、彼らは「もぐら叩き」のように新たな「事実」をでっち上げ続けるだろう。これは南京大虐殺についても、朝鮮半島からの強制連行についても、沖縄の「集団自決」についても、同じように繰り返されてきたことだ。彼らは、能動的に「無知」であることを選んでいる。証拠が出てくるたびに、「無知」であり続けようと積極的に粘り強い努力をしている。数十人の政治家や知識人によって署名された今回の意見広告(引用者註:2007年に日本の歴史修正主義者が『ワシントンポスト』に出した意見広告「THE FACTS」のこと。「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める下院決議案を阻止するために出されたが、むしろ可決を推進する結果に終わった)に致命的な論理矛盾があることも、ただ彼らが愚かであるということで片付けるべきではない。愚かであるとしても、それは選択されたものである。彼らは、「無知」で不合理で国辱的である。しかしそれが、彼らなりの知性で合理性で愛国なのだとしたら?*2

 

 これは、「嘘」や「無知」と社会システム(国家システム)の共犯関係の構造について、優れた論考を示した常野雄次郎氏の記事「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」の一節である。歴史修正主義者の言説に騙されるのは、無知な者ではなく、無知であることを望む者、(歴史修正主義に)騙されることを望む者である。

 『主戦場』では、歴史修正主義の「足止め効果」*3については、それに近い言及があった。だが、なぜあのような知性の欠片もない言説が日本では流通してしまっているのか、という点についての思考は十分ではない。単に知識をつければよいという「欠如モデル」的な考え方をしているようにも思える。

 しかし、「無知」のままでいることやあえて騙されること自体にメリットがある。当然動機が存在する。周辺諸国への蔑視感情(レイシズム)、セクシズム、日本スゴイナショナリズム、現在の権力者がとっている立場に対して明確に敵対することを嫌う権威主義、「国家は謝罪してはならぬ(藤岡信勝)」といった凡庸な「リアリズム」への信仰、等。かつて日本が戦争犯罪をしたことを認めてしまうと、上記のような世界観は傷つかざるをえないのである。

 動機が何であるにせよ、積極的に人々が騙されたがっている限り、「慰安婦」に対する「否定論者」は何度論破されても、自身の根拠を説得力があるものにアップデートする必要はない。すでに論破された話を繰り返しするだけで、それに騙されたがっている聴衆は、あたかも「否定論」が正しいものであるかのように振舞ってくれるからだ。

 Netflixのコメディ・ドラマ『アンブレイカブル・キミー・シュミット』の第一シーズンのクライマックスは、主人公であるキミーと、彼女たちを長年監禁していた新興宗教の教祖の、裁判所での対決である*4。犯罪の証拠は、どう考えてもすでに明らかである。しかし教祖は、本質とは関係ない証言の重箱の隅をつき、証言者の戸惑いを攻撃する。そして自分自身は余裕な態度をとり、本質とは関係ないジョークで、あたかも決定的な反証を行ったかのように振舞う。次第に傍聴人やキミーの弁護士さえ、相手の勝利を認めざるをえないと思わされる。

 もちろんこの作品はコメディなので、このシーンはシリアスなものというよりは、陪審員裁判についての風刺的な笑いが意図されている。しかし、「慰安婦」問題については、国会で、メディアで、ネットで、様々な場所で行われている議論をみていると、この裁判のシーンにおけるキミーのような気分になってしまう。

 なぜかれらは国際法における性的奴隷の定義をいつまでも無視するのか?奴隷の定義において「慰安婦」がピクニックに行ったということがなぜ重要だということになるのか?戦時性暴力に反対する象徴として建立された少女像を「反日」であるとして攻撃し続けるのか?それは、国会議員やテレビのコメンテーター、タレントがバカだからではない。かれらは意図的に騙しているし、騙されたがっている。いわば現実で壮大なコメディを繰り広げているのである。

 私は『主戦場』を「きっかけ」にして「慰安婦」問題に入ること自体を否定はしない。この映画を見て日本軍「慰安婦」問題を外交問題ではなく性暴力問題として理解したり、初めて「否定派」のおかしさに気づいた者も実際に存在するようだ。

 しかしまた、能川氏が警鐘を鳴らしているように、視聴者の認識が『主戦場』の地平にとどまり続けることもよくないだろう。日本軍「慰安婦」問題をめぐる日本の状況を変えるのは、知識を広めるだけではなく、レイシズムやセクシズムに手を付けなければいけない。『主戦場』からさらに日本社会の構造的問題に視線を向けてもらわなければ、せっかくの「ヒット」も意味がないだろう。

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

週刊金曜日 2019年5/24号 [雑誌]

 

 

*1:能川元一「「論破」される否定派の姿を面白がるだけでいいのか」『週刊金曜日』2019.5.24, p50

*2:「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828

*3:すでに論破されたものであれ何であれ事実に対する疑問を矢継ぎ早に繰り出すことで、その事実について詳しくない人を宙吊りの状態に置くこと。歴史修正主義者にとって、人に対してある虐殺をなかったと信じさせる必要はなく、あったかわかったかわからない、という状態に持っていければとりあえず成功なのである。

*4:アンブレイカブル・キミー・シュミット』12話「キミー、裁判所に出頭」13話「キミー、最後まで諦めない!」https://www.netflix.com/jp/title/80025384