ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ

 また南京事件で盛り上がってますね。
 中国は南京事件を政治利用しているという人がいますが、少なくとも日中国交正常化以降、中国が南京事件に関して「謝罪と賠償」を要求したことは一度だって無いし、毒ガス問題など個別イシューを除けば日中間で歴史認識が政治問題になっているのは唯一靖国くらいのものですが、もちろん中国は南京事件があったことをもって靖国神社への参拝に反対しているわけではないのです。
 さて、この問題が蒸し返されるときにはきまって、南京事件あったかなかったか「どうでもいい」と思っているのに南京事件「論争」にはいっちょ噛みたいと思っているのが多すぎるのが問題をややこしくしていると思うのですが、それはポストモダニズム系リベラルの問題として表すことができるかもしれません。
 つまり、劣化版東浩紀です*1

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081215/p1#c1229325550
つまり、こうやって、歴史修正主義について議論するのは、歴史の歴史性とは?またそれを語るとは?歴史学における事実とは?とかの問題ではなく、価値中立な工学的に設計されたネットインフラのなかの「南京大虐殺」コミュでの、コミュニケーションのネタにしか東氏にはみえないのです。そしてそれでいいじゃないか.それで幸せならば、と言っているのです。

 普通に考えれば、歴史学的に証明されている南京事件という史実と、歴史学では相手にされていないその否定論というトンデモを並べてフラットに「コミュニケーションのネタ」として扱うことは問題があるといえます。しかし、彼らはそうは考えません。だってポストモダニズム系リベラルの時代だから。ポストモダニズム系リベラルの時代には、史実もウソも、フラットな情報としてしか扱われない。だからぼくは南京事件があったかなかったかは関心がないんだよ!と公言できるわけです。
 だから、彼らに対して彼らが「無知」である(あり続ける)ことをもって糾弾するのは、確かにあまり意味がないのかもしれません。自分は無知であり続けながらひたすらコミュニケーションのあり方のみを問題化していくという態度そのものが、彼らにとってはステータスなのかもしれないからです。
 だとするならば、問題にすべきは無知に対する居直りではなくて、そもそものポストモダニズム系リベラル的な態度だということになります。戦争責任問題においては、それは応答責任のアウトソーシングとして表されると思います。

■道徳的詐術とは何か、その2
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070508/p1
 これに対して今ひとつの立場は、(おそらく)デリダレヴィナスに由来する責任であり、いわゆる応答責任と呼ばれるものである。高橋哲哉は応答責任について、次のように説明している。

 たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがあるわけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいてください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えてください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきません。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」というわけですから、わたしは気づいたときにはそれを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いてしまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応えるか、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。
 「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることです。……「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのかぎり、その選択は私の自由に属するということもできるでしょう。……
……私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではないのです。……(「「戦後責任」再考」、『戦後責任論』所収、pp.33-34)

同様に、人が生きていて助けを必要としているとき、その事実(の中に生きる人)は、その事実の改変にかかるコストを誰かが担うことを待っている。責任として引き受けられることを待っている。このレベルにある責任は、手続きを受けて引き受けられたりする前の、それどころか規則として記述される以前の、もっとさかのぼったところに位置する責任である。制度化される前の、さらに言語化されるまえの、いわば「存在」のレベルにある責任である。つまり、先の責任が制度や規則、すなわち「言語」と結び付けられているのに対して、応答責任という概念は「存在」と結び付けられている。

南京事件などの過去の戦争犯罪について、われわれは特に知らずに日常をおくることは可能です。しかし、いったんそれを何らかのきっかけで知ってしまった場合、その「呼びかけに応えるかどうか」の選択が発生する。すなわち、応答責任が発生するのです。ここで重要なのは、その「呼びかけ」が「謝罪と賠償」などの具体的「言語」を伴わなくても存在しているということです。応答責任は、「言語」と結び付けられているのではなく「存在」と結び付けられている。
 たとえば、自分に対して痴漢被害をうったえられるだけでたちまち自分が痴漢の仲間と同じだと糾弾されている気分になって「どうしてほしいんだ!」と不快感を覚える人が以前問題になりましたが、確かにこのような人は「存在」レベルで応答責任が発生しているということには気づいている。しかし、それははっきりと「言語」と結びついたものではないかもしれない(具体的にその人自身が何らかの責任を取れと責められているわけではない)のです。それは、ある面では直接的に責められるよりも重い。であるから、その重荷に対して不快感を表明することで逃れようとしているのだと思います。南京事件の場合も、中国は現実に南京事件の具体的な補償を要求していないのにもかかわらず、南京事件が何らかの責任を日本人に取ることを要求しているというイメージがかなり広まっているということは(それはある意味ではそのとおりなのですが)、南京事件という「存在」に伴う呼びかけは正しく伝わっているということになります。mojimojiさんはこうも言っています。

 人が実際に引き受けることのできる責任は有限である。しかし、それに先行して、責任を引き受けられることを待っている責任が無限に*2存在する。というより、そのような責任があるからこそ、有限であれ、責任が記述され、制度化され、実際に引き受ける行為を支えていくのである。

 ですが、ポストモダニズム系リベラルにおいては、応答責任の存在そのものが否定されます。 あらゆる情報の価値がそれぞれ等価であり、コミュニケーションのネタであるならば、ある情報(たとえば南京事件)をかれが知ることは、あるいはかれがある情報にコミットすることは(たとえば南京事件「肯定」論)、責任の結果でも公共的な選択でもまったくありえず、単なる個人的な趣味の問題になってしまいます。そして、南京事件従軍慰安婦、あるいは痴漢やレイプ・ゲームの問題まで広げてもいいですが、あらゆる応答責任を呼び起こしうるような呼びかけにたいして、そのようなメッセージを呼びかけること自体が不当だと主張することによって、応答責任の選択そのものを拒否できるということになってしまいます。なぜならば、呼びかけは単に個人的な趣味を押し付けようとしているだけに他ならないからです。
 とはいえ、応答責任の存在を拒否している段階においては、それ以前の応答責任を発生させうるような呼びかけ、情報については、すでにもう知ってしまっているということになります。だから、ある意味では彼らの無知あるいは無知への居直りは、「永遠の嘘」の亜種ということもできます。いまいちど「永遠の嘘」エントリを確認しましょう。

■「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070726/1185459828
 だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。クリスマスに胸を膨らませる子どもたちに、サンタクロースなんていないんだよと言って聞かせても、プレゼントを買い与える親の義務は免除されない。「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。

南京事件を単なるコミュニケーションの問題として解釈したいという欲望は、そうすることによって南京事件そのものが放つ呼びかけを、南京事件「論争」にアウトソーシングできる(自分は「無知」でいられる)からだとしたら?そのような相手にいくら歴史学的な誠実性を求めてもむだということになります。少なくともそれは「賢明」ではない。そのような人間がいることも前提にして社会を「工学的に」設計しよう・・・。
 ですが、いかに呼びかけを否定しようと、その呼びかけそのものからは逃れられていない、と言うこともできます。なぜならば、「責任をとる」という意味においては人間は自由でなくても、根源的には人間は自由だからです。そもそも呼びかけを聞くというところから人間は自由なのです。たとえそれが「賢明」なことではないとしても、人間には応答責任があると強調していくことは、大事なことだと思います。倫理とはそこから出発するのであって、それは工学の神では代替不可能だからです。
参考:

■倫理の根源は呼びかけにある
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070531/p1
■応答責任、再論
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070509/p1

関連:

■「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について―
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081218/p1

*1:あずまん自体が劣化しているのではという説もあり。