弾圧と大衆運動

 5月28日、経済産業省の前で抗議行動を行っていた3名が、警察によって不当にも逮捕された。ある公官庁が関わる社会問題に対して市民が当該官庁の前で直接抗議を行うことは、憲法により保障された市民的権利の一部であるし、その際、抗議者が敷地の境界線を超えたかどうかという些細な事実は*1、市民の身体的自由を侵害するに足る正当な理由にはあたらないことは明白である。これは政治弾圧である。
 したがって、このような極めて深刻な市民的権利の侵害に対して、救援会を中心に多くの人々が不当な逮捕を行った当局に対して抗議を行い、逮捕された3名の支援に尽力しているのは当然である。ところが、それにも関わらず、あろうことか弾圧の被害者である逮捕された3名に対してバッシングを行う市民も一定数いるのである。当局がやることなすことすべて正当化し、政治的な抵抗者を嘲笑する権力の犬と呼ぶしかない人々についてはもはや論ずることはない。問題は、平和や人権、環境といったテーマにおいて積極的に政府を批判する運動を行っている者たちの中に、そのような人々がいることである。
 彼らの主張はすなわち、以下のようなものである。運動とは逮捕されないことがもっとも重要である。なぜなら、逮捕されることによって運動に負のレッテルをはられてしまい、一般の人々は怖くて参加できなくなるのだから。一般の人々も参加できるような大衆運動が組織できてこそ政治的目的は達成可能なのであって、不用意に逮捕されるような行為をする者はそのような運動の形成を阻害している。そのような者は運動に政治的目的の実現ではなく自己実現を求めているとみなされ、大いに批難されなければいけない。
 しかし、このような主張の妥当性は検証されるべきである。まず、警察によって逮捕されるような行動とそうでない行動を明確に峻別できるのだろうか?運動の現場に置いてなされる逮捕とは、ある不法行為の事実があってそれに対して行われるのではなく、警察(公安)が、ある行為が不法であるかどうかを恣意的に決めることによって行われるのである。法に従って逮捕が行われるのではなく、いわば警察が法をつくる。そのような条件下で、何が逮捕に値する行為であるのか、市民があらかじめ判断することはできない*2。せいぜい警察が不法だと考えるであろう行為について予期することができるだけであり、そのような予期は市民的自由を最小限の領域に制約しようとする当局の思想を内面化することに他ならないから、予期に基づいた自己制約は、運動の自由を極めて小さい範囲に狭めることになるだろう。
 千歩譲って、逮捕されるような行為とそうでない行為をあらかじめ弁別できたとしよう。しかし、そもそも逮捕を注意深く避けることによって運動が大衆運動へと発展し、それによって政治的目的が達成されるという仮定は正しいのだろうか。救援会のブログにもあるとおり、逮捕された3人は特段に過激な行為をしていたわけではない。一方、世界各国、たとえばドイツでは市民運動においてより過激な行為も珍しくはない。警察と殴り合いになったり、発煙筒をたいたり、物を破壊したり、それで逮捕されたりといったことも普通にある。上記の仮定が正しければ、ドイツでは大衆運動は成立しえないことになる。しかし周知のとおり、ドイツは原発ゼロを明言しており、また社会的差別の取り組みに関しても少なくとも日本よりはマシな国のひとつである。これは日本よりも反原発や反差別の大衆運動が成立している証拠ではないだろうか?もちろん、かかる政治的進歩が大衆運動の結果ではなく別の要因に基づくと言うことも可能であろう。しかしその場合、大衆運動自体が無意味ということになってしまう。
 予想される反論は、ドイツのような欧米諸国と日本では逮捕の重みが違う、というものであろう。確かに日本の刑事司法は「中世並み」であると評され、逮捕は一瞬でその人の生活を破壊する事態になりうる。だが、日本よりもより刑事司法が過酷な国、たとえば軍事政権によって支配されている国でも、民主化のための大衆的な運動が存在するし、実際にそのような運動の力は政権を打倒し民主化を実現させてきた。人は次のように言うかもしれない。いかなるものを失ってでも手に入れるべきものがそうした国々にはあるが、日本は「ほどよく」満たされているから、大衆運動が生じないのだ、と。だがそのように適度な恩恵と適度な弾圧が日本における大衆運動を阻害していると結論づけるならば、大衆運動が発展するかどうかは運動の問題ではなく当局の統治の問題になってしまう。当局が統治に失敗したときのみ、恩恵と弾圧のバランスが崩れ、大衆運動が発展するのである。そうなると、社会を変えるために活動家にできることは唯一、少人数による英雄的行為(管理社会SF物でよくあるストーリーのような)しかない。しかしそれはむしろより過激な行為を正当化することになるだろう。
 逮捕によって政治運動が負のレッテルをはられる、という点についてはどうだろうか。確かに日本は逮捕に対するスティグマ化が強い。しかしこの点については、そのスティグマ化を追認するのではなく、人民を信頼して、逮捕に対する認識を地道にでも変えていくしかないだろう。どんな正当な市民的権利でも、逮捕によって遡及的に悪しきものとされ続けるならば、当局にとって運動を社会に受け入れさせないためのコストは無限に安くなり、運動にとっては無限に高くなるのだから。もちろん逮捕された者への批難は、かかる現状を変える力になるどころかそれを強化することに寄与する。
 逮捕された者への人物批判に至っては、目も当てられない頽廃であるというしかない。行為者の意図ではなく現象を見るべきである。冒頭に書いた通り、この件が政治弾圧であることに議論の余地はない。逮捕された者がどのような動機に基づいていたか、あるいは過去にどのような言動・振る舞いをしたかによって、当局による市民的権利の不当な侵害がそうでなくなるわけではないのである。
 このように、簡単に考察してみただけでも、逮捕されるような人物を切り離し、逮捕されない運動をつくることで大衆運動は発展するという仮定には無理があることがわかる。むろん、私はどんどん逮捕される運動がよい運動だと言っているわけではない。不当逮捕はされた当人に対して大きな苦痛と被害を与える。また、逮捕救援はそれ自体コストがかかり、関わっている者たちを消耗させる。その消耗は、様々な政治的課題に対する運動の機動力も奪うだろう。不当逮捕をさせないような努力は運動にとって必要である。しかしそれは、運動の自己制約によってではなく、市民的自由の拡大のために人々が団結し、かかる不当弾圧に対してしっかりと抗議し、仲間を取り戻す意思表示をしめすことによって実現させていくしかないだろう。

*1:事実関係については救援ブログを参照https://528kyuen.wordpress.com/2015/05/31/statement/

*2:もし、実際にあらかじめ判断したことによって防げた、と思っている者がいたとしたら、それは大きな思い上がりである。外見的にそう見える状況に遭遇することもあるので勘違いしやすいのだが。運動側は当然ながら不当な逮捕に対して一定の警戒を行う。だが、いかなる警戒をしたとしても、そこで逮捕を強行するかどうかの判断は当局の手の中にある。