>これは明らかにそれ以上のことを言っていますが、と言はれても、何が明らかなのでせうか。これつて何ですか。
ていうか、逆に

理性と信仰を分離する考へ方つて、いかにもキリスト教的だと言つてゐるんだよ。「兩者には親近性がある」つて言へば良いのかな。神のものとカイザルのもの、道徳と政治、信仰と信仰以外の事との分離を、キリストは言つてゐた。そして、さう云ふ風に物事を分かつのが彼等の考へ方なのだと。

にたいする反論の

これが正しいとすれば、前にも書いたがたとえば公教育をめぐるカトリックとフランス政府の争いはどうなるのか。公教育が政治と道徳どちらに含まれるかは関係がない。公教育が政治的なものならばカトリック(フランスの)は道徳と政治の分離を理解してないわけだし、公教育が道徳的なものならば、フランス政府のえらいさん方は道徳と政治の区別を理解していないことになるからだ。どちらももちろん西欧人だしキリスト教徒なのだが。あるいは、公教育が政治か道徳かどちらに属するか不定であり、この問題は両者のイニシアチブ争いなのだというかもしれないが、そうなると今までの主張に矛盾する気がするのだが。

にたいする反論(エクスキューズ?)が、

俺はただ、キリスト教と云ふ宗教の意識が西歐の歴史を作つて來た主體である西歐人に「あつた」事を意識して、日本人は西歐人の歴史を理解しようとすべきである――日本人の尺度だけに據つて一方的に計測するのでなく、西歐人にも西歐人なりの尺度があつた(ある)のだと云ふ事を意識して、日本人は西歐人の言動を、自分以外の獨立した存在である他者として、理解しようとしなければならない、と言つてゐるだけだ。

になるのか、論理的なつながりがさっぱりわからないのですが。

高橋氏と同樣、北守將軍にも人の意見に勝手に自分の解釋を滑り込ませる癖があります。意識が足らないからです。

自明なものとして議論していないのならば、なぜ「西欧の云々」を持ち出す必要があると考えたのか、その過程を説明するべきでしょう。過程をすっとばしていきなり「西欧云々」と書き始めたら、それは自明なものとしているとみなされても仕方ないでしょう。
とくに、「西欧云々」は「結論」ではなくて、児ポ法そのほかの問題を論じるときの「前提」なのだから、より厳密な議論が必要でしょう。