アメリカは「近代的」民主主義をイラクに押し付けようとしており、それにイスラム原理主義的な「反近代」が抵抗しているという図式は、「近代性」とは既に熟知の事象であって、それにに対して遡及的に「伝統性」を配置するという、近代化理論における「2分法」の誤謬に陥ってはいないか。
そもそも「近代/反近代」の問題をイラク国内に還元してしまう議論は、あまりにも旧来的な発展段階説ではなかろうか。
だからといって、近代=西洋、反近代=イスラム社会に置換して相対化してしまうのは、ただ議論を後退させているだけだろう。
文明の衝突」の「衝突」は拒否するが、「文明」だけは受け入れる、みたいな。
むしろ原理主義もある種の近代化の方法であって、しかもそれは自称リアリストが言うような「単なるポーズ」としてではなく、本質的なやり方なのではないか。
近代化という事象を、ある社会システムの境界、特に「国民国家」という恣意的な境界を超えたプロセスとして認識するとき、「イラクのことはイラク人に決めさせるべき」だとか、「イラクには民主主義が必要」だとか、そういう次元では捉えられない問題が潜んでいるような気がする。