国旗の歴史

国旗・国歌問題についてまたいろいろ言われている昨今だが、歴史的にいえば、まあ日の丸は敗戦後変えておくべきだったと思う。
一般的に、国旗というものはその国の体制が急激に変化したときは、その体制の理念に応じて変わるものだ。記憶に新しいところで言えば、ロシア、南アフリカの国旗変更がある。
ドイツも戦後国旗を変えた――こう書くと、必ずある反論が予想される。すなわち、ドイツはナチスの党旗という「逸脱」から、「本来の」の旗にもどしただけだ、と。しかし、この認識には大きな誤解がある。
ドイツにおける国旗の歴史を見てみよう。現在のドイツの国旗である、黒・赤・金の三色旗は、歴史上1848年のドイツ革命においてまず最初に掲げられた。その理念は、当時の国民運動のスローガン、「自由と統一」であった。しかし、革命が挫折した後、この旗はプロイセンオーストリアなどの諸邦政府によって弾圧される。1871年、ドイツが「鉄と血」によって統一されたとき、その国旗は黒・赤・金ではなく、黒・白・赤のプロイセン国旗であった。
ホブズボームも指摘しているとおり、11870―90年代にかけて、国旗や国歌など、国歌の象徴をつくりだすことによってナショナリズムを喚起し、国民を統合しようとする動きが西欧各地で見られるのだが、ドイツにおいてその対象となった国旗は黒・白・赤である。たとえば、もともと自由主義思想の影響が強い国民体育運動において、1860年以降黒・白・赤の三色旗がそれまでの黒・赤・金に変わって掲げられるようになる。ドイツは君主制の国でありながら、君主を国家の象徴とすることに失敗した国である。それだけに、国旗や国歌などの象徴づくりはかなり熱心にやった。ビスマルクはこうした問題にあまり関心を持っていなかったようだが、それでも利用すべきところは徹底的に利用した。
第一次世界大戦でドイツが敗北し、ワイマール共和国が誕生すると、国旗も黒・白・赤から黒・赤・金の革命旗に変更される。これは、ドイツが少なくとも理念の上では1848年の自由主義的な精神に立ち戻ったことを示していた。しかし黒・赤・金はそれまでの黒・白・赤に慣れ親しんだ人々にとって、好感を持って受け入れられていたとはいいがたい。共和制に対する不信感がつのるとともに、黒・白・赤の復活を求める動きは大きくなる。だから、ワイマール共和国を倒したヒトラーが、黒・白・赤の三色によってデザインされた(それは明らかに狙ってやっていたことなのだが)ナチスの党旗を国旗として掲げたとき、多くの人々は喜んで支持した。
そして、第二次世界大戦後、国旗はふたたび黒・赤・金にもどる。
つまり、ドイツおいても、「本来の国旗」というものはなく、基本的には体制の理念型によって変化して当然のものだったのである。
フランスも、1789年以降体制は変化しているが、国旗は青・白・赤のままではないか――こう反論してくる人もいるだろう。これも誤解がある。トリコロールが国旗として正式に採用されたのは、第三共和制になってからである。それまでは、短い第二共和制の時期を除けば、復古王政七月王政、さらにはナポレオン時代いずれにおいても青・白・赤は弾圧の対象だった。第二次世界大戦中のヴィシー政権も、三色旗を弾圧した。
基本的に青・白・赤を右派が支持するようになるのは、例の19世紀後半のナショナリズム運動の高揚の時期である。それまで、トリコロールは左派の旗だったのだ。
イタリアは第二次世界大戦後、共和制になるとともに国旗についていた王家の紋章を外した。君主制のシステムではファシズムを防げなかった、という認識のもとであった。
このように見てみると、天皇中心の国家を理念としていた明治政府がそのように定めた国旗が、国民主権と人権思想が明確に記された憲法を持つ現在の日本の国旗にふさわしいというのは、あまり妥当ではない気がする。
まあ、歴史はなんら強制力を持たないので、別にほかの国に従う必要はないのだけれど、その場合日の丸でよいとする根拠はなんなのだろう。