暴力をいかにして包摂するか
暴力の問題を純法律的問題としてのみ捉える考え方が馬鹿げているのは、むしろその考え方こそが、直接的暴力の本質的問題を過小評価することにつながるからに他ならない。直接的暴力の形態は様々である。警察が振るう暴力だって、当然ながら直接的暴力と呼べる。では、なぜ今回のtoledさんに振るわれた暴力が問題となるのか?純法律的な答えは、このようなものにならざるをえない――法律でそう決まっているから。かくして、いっさいがっさいの「存在」の形象は問題の中心から切り離され、議論はひどく限定された「当為」の次元で行われる。これは――今や20世紀(初頭)の遺物となった――きわめて素朴な法実証主義といわなければならない。「存在」は「当為」から解放されるが、そのことによって「当為」に縛られる。まさに、あらゆる形象と結びついたさまざまな暴力の区別が、合法的かどうかの区別に還元されてしまうのである。たとえば陵辱ゲームはなぜ認められるべきか?――法律で規制されていないから。ということは、法律で規制されれば、陵辱ゲームは当然つくってはいけないものになるのである。
暴力の形象は、現実の諸関係とさまざまなかたちで結びついている。アガンベンが指摘したように、ベンヤミンの「純粋暴力」でさえ、周囲との関係において「純粋」なのだ。法は、その暴力を、ある流動性のうちに捕まえたり、捕まえなかったりする。ある行為が暴力であるかどうか、あるいはある暴力が法によって捕捉されるかどうかに、客観的な境界線が実在するわけではない。仮に法律があったとしても、法律は自らを適用できないし、法律から規範は導けないのである。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091004/p1
「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で、まったく等しく、暴力です。では、どうして一方に対しては法で取り締まられ、警察・監獄に象徴される制度化された対抗暴力が発動されるのに、他方に対してはそうではなく、ほとんど何もなされないのか。それは、少なくとも、暴力としての程度が小さいからではありません。程度の大小について何かを言える根拠などどこにもありません。
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法制度は技術的制約を免れません。ゆえに、そこに具現化される正義は常に不十分なものです。ですから、暴力について、それが違法か合法かのみに注意を払うのは、まったくバカげています。違法か合法かという基準で事の軽重を考えることもバカげています。単なる技術的問題に過ぎないものと暴力それ自体の問題性の区別がついていないからです。
ここでmojimojiさんが言っているのは、直接的暴力と構造的暴力をいっしょくたに論ぜよという意味ではまったくない*1。ある法律(あるいはある規範)が、このふたつの暴力に対して、少なくとも客観的な自明の境界線を引いているわけではない、ということである。むしろある行為が何とどのようなかたちで結びつくかは、法だけでなく、政治や、経済や、倫理や、その他さまざまな概念の中で綱引きされている。ゆえに、「真剣な思考と実践」が要請される。これは、「事実」の問題なのである。
ところが我らが素朴な法実証主義者たちはここで突然、素朴な自然法論者にはやがわりするのである。自由主義・民主主義の理念、あるいは憲法のような実定法そのものからただちに、ある行為を暴力と呼びうるかどうか、あるいは法規制されるべきかどうかが導けると信じている。つまりそれは法「技術」の問題であって、「事実」とは何も関係がないのだ。ぼくの記憶によればこのような考え方は18世紀のイギリスで支配的で、それは19世紀において一掃されたはずなのだが、どうやらそうではなかったようである*2。
この考え方が誤っていることを証明するのには難しい論文を参照する必要は何も無く、ただヘイト・スピーチがヨーロッパをはじめとする各国で法規制されていることを示すだけでよい。もし、自由主義と民主主義(自由民主主義)の理念が、必然的に、ヘイト・スピーチの規制をうながすはずであるうながすはずがないのであれば、そもそも自由民主主義を標榜する国が多いヨーロッパにおいてヘイト・スピーチの規制が可能であるはずがない。しかし、現実はそうなっていないし、法規制によってヨーロッパ諸国が自由民主主義の理念をやめたわけではない*3。むしろ、自由民主主義を貫徹するものとうたって、ヘイト・スピーチを禁止したのである。
自由民主主義ならばヘイト・スピーチはありえぬというイデオロギーを貫徹して、ヘイト・スピーチを禁止したヨーロッパはもはや民主主義ではないと言ってもよい。しかし、その場合次のような問題が発生する。ヘイト・スピーチの法規制が自由民主主義でないとしても、たとえば日本の全法体系が、まったく自由民主主義によって一貫しているとはよもや我らが素朴自然法論者でも言わないだろう。ということは、日本も自由民主主義ではなくなる。しかしその場合、世界に自由民主主義の国家は存在しないことになってしまうだろう。さらに、全法体系が、まったく自由民主主義によって一貫していない、ということはいえても、現在存在している法律が、つまり、「技術的には」まったく法体系のうちにあって機能している個々の法律について、自由民主主義に違反しているかどうかはいかなる技術によって判断されるのか*4、あるいはそれを判断したところで何の意味があるのか、という問題がある。たとえば、ある技術(理屈)によって、ヘイト・スピーチ規制は自由民主主義違反であるといっても、別の理屈によってヘイト・スピーチ規制が自由民主主義に適合することはいくらでもいえるし、実際問題として、現実に適用されているのである*5。
問題は、いまだ法のうちに書き込まれない諸現象を法のうちに書き込む緒力ではなく、法のうちにあるともないともいえない未分化な諸現象を包摂しようとする緒力なのである。もし、反差別を両者が標榜するなら、それは反差別におけるうちなる綱引きになるだろう。しかし、一方がそれを標榜しないばあい、それは世界観闘争となるのである。
*1:なぜそのような読解をする人がいるのか理解に苦しむ。国語の成績が(ry
*2:現代にも自然法論者とみなされている人はいるが、少なくともこのような素朴な実在論はとなえてはいない。z.B.ラートブルフ
*3:「戦う民主主義」も「民主主義」なのである。
*4:ある法律が「実態として」機能していないということは言いやすいかもしれないが、ある法律が「規範的に」機能していない、と言うには、法実証主義の批判を経なければいけないだろう。
*5:だから、mojimojiさんの「純技術的」という議論には異論がある。「いかなる」法を制定し「いかにして」適用するかは「技術的」だが、いかなる技術も自ら決断をしないのであって、法規定するかどうかそのものの判断は「技術的」ではない。